勝って当然
翌日の日曜日、中京競馬場で最初に騎乗した4レースの3歳未勝利戦では3番人気の馬に乗って6着に終わってしまった。
(まずいわね。せっかく今週は5レースも乗せてもらえたのに、このままでは来週からまた元通りになってしまう。次は1番人気の馬だし、何とか結果を出さなければ…。)
そう思いながら、私はいよいよドーンフラワーの出走する6レースの2歳新馬戦(ダート1400m)に騎乗することになった。
この馬は10頭立ての1番人気で、単勝は何と1.9倍だった。
単勝の整数部分が1なのは、私にとって勝って当然を意味しているように思えた。
(どうしよう…。1番人気ですら緊張するのに。まして1.9倍なんて…。)
こんな倍率は今まで経験したことすらなかっただけに、思わず手が震えてしまった。
その頃、関係者エリアでは、夜明 夕さんと相生 初先生が会話をしていた。
「先生、どうしても勝ちたいデビュー戦にあの弥富さんで大丈夫なんでしょうか?」
「僕は彼女を信じてチャンスを与えることにしました。あとは彼女がチャンスをものにできるかどうかです。」
「でも、このレースは関西の不動のリーディングジョッキーである網走騎手があいているのですから、そちらの騎手に依頼してほしかったのですが…。」
「まあ、勝てば彼女の手柄、負ければ僕の責任です。彼女を信じてやってください。」
「…分かりました。では彼女をじっと見守ることにしましょう。」
夜明さんは不安をぬぐいきれないまま、発走時刻を待ち続けた。
10頭立ての7枠7番に入ったドーンフラワーは、最終的に単勝1.8倍になった。
(とにかくやるしかないわね。とにかく勝って当然の実力を持っているわけなんだから。)
私はすっかりあがってしまい、心臓バクバクで、胃が痛くなりそうな状況の中で、馬をウォーミングアップさせた。
レースがスタートすると、多くの馬達は100m余りの芝を走る間にスタートダッシュをしていった。
その中で、私は先生の指示通り後方待機を選択した。
(よし、まずは出遅れることもなかったわ。このまま控えてじっと機会をうかがうことにしましょう。)
私が緊張しながら折り合いをつけようとしていると、向こう正面の1000の標識の辺りから、急にドーンフラワーが頭を上げ、前に出ようとし始めた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!私は後方待機の指示を受けているんだから!」
予期せぬ馬の行動に、私は慌てて手綱を引いた。
しかしドーンフラワーは前に出ようとし続け、2頭を交わして7番手に上がった。
「ちょっと待ってよ!」
私はどうすればいいのか分からないまま、パニックに陥ってしまった。
「うーーん…。弥富騎手、どうやら馬とけんかをしているようだな。馬がかかっているぞ。」
「えっ!?じゃあ、今スタミナを無駄に消費している状態なんですか!?」
関係者エリアでは相生先生のつぶやきに、夜明さんが敏感に反応していた。
「そうかもしれん。だが、見たところ、折り合いがついている馬は全体の半数程度と言ったところだろう。何しろこれは新馬戦だから、馬もペース配分というものをまだ十分に理解できていないだろうしな。」
「とは言え、このまま勝てるんでしょうか?中京競馬場のダートの直線は、関西圏で最も長いのに…。」
「……。」
相生先生はそれ以上は何も言わず、じっと腕組みをしていた。
そんな中で、私は馬を落ち着かせるのに精一杯の状態だった。
正直、前に何頭の馬がどこの位置にいるか、2番人気、3番人気の馬がどこにいるかを見る余裕はなかった。
3コーナーに差し掛かると、馬も少しは折れたのか、やっと落ち着いてくれた。
(…良かった。絶対に勝たなければならないレースだけに、一時はどうなるかと思った。)
私はほっと息をすると、コーナーでの位置取りに気をつけながら、スパートのタイミングをはかることにした。
4コーナーではすでに何人かの騎手が手綱を動かしたりムチを使ったりして、スパートを開始していた。
(私はどうしよう…。中京の直線は410.7mと長いし、勾配1.4%の坂もあるから、まだスパートは早いような気がするけれど…。)
私は外を走りながら、他の騎手と合わせるべきなのか迷ってしまった。
そして最後の直線。スタンドからは観客の掛け声がこだましてきた。
私はスパートするタイミングを迷った末に、結果的に残り350mの時点でスパートを開始した。
ドーンフラワーは坂でぐんぐん伸びていき、1頭、また1頭と馬を追い抜いていった。
「すごい。この馬のスピード!」
ぐんぐん順位が上がっていく光景は、一言で言うなら気分爽快で、すごく心地よいものだった。
しかし単勝は1.8倍。勝って当然の立場だ。
「もう少しよ!このまま先頭に立って!」
私はすぐに気持ちを切り替えると、懸命にラストスパートをした。
そしてゴール前でついに先頭に並ぶと、ギリギリ交わしてゴール板を通過した。
「やったわ!勝った!無事に期待に応えることができたわ!」
私は嬉しさのあまり、新馬戦にもかかわらずガッツポーズをした。
戻ってくる時、1着のところにクビ差で7が点滅している着順掲示板を見るのは、私にとってまさしく至福の時だった。
(またこの感動を味わうことができてよかった。そしてまたこれを経験できるようにがんばろう。)
プレッシャーから解放された私は満面の笑みを浮かべてコースを戻っていった。
「弥富さん、正直勝つには勝ったが、完全に馬に勝たせてもらったレースだったな。」
引き上げ場にいた相生先生は勝ったにもかかわらず、私に厳しいコメントを浴びせてきた。
それを聞いて、私の喜びは一瞬にして吹き飛んでしまった。
「えっ?あ、はい…、そう…ですね。すみませんでした。」
私はまるで負けたような口調でそう言うと、思わず頭を下げた。
「まあそれでも勝ちは勝ちだからな。今日のところは馬に感謝しておけ。」
「…はい…。」
「では、僕は夜明さんと打ち合わせをする。君は検量に行ってこい。」
「はい。」
私はそう言うと、厳しい表情をしながら検量室へと向かっていった。
「先生。これで次は重賞レースに出走できますが、鞍上は彼女で大丈夫なんでしょうか?」
私の話を聞いていた夜明さんは不安げな表情で相生先生に問いかけた。
「まあ、今日はドーンフラワーの実力が1頭だけ抜けていたから勝てたようなものだ。これでは重賞はまかせられんな。とにかく彼女がこれからさらに腕を磨き、大舞台でも活躍できるだけの精神力を身に付けなければ…。」
「では、乗り替わりですか?」
「そうだな。その方が夜明さんにとってもいいでしょう?」
「はい…。ぜひ勝てる騎手でお願いします。」
私が検量に行っている間にこのような会話が行われていたことを、私は知る由もなかった。
ちなみに、この後に騎乗した500万下では、4番人気の馬でシンガリ負け(14着)を喫してしまった。
そのレースの勝ち馬は赤嶺君騎乗のミラクルシュートで、私は父の所有馬の勝利を、目の前で見せ付けられることになった。
「赤嶺君、よくやったな。」
「根室さん、ありがとうございます。」
「これからも頼んだよ。」
「はいっ!」
稚内先生のかたわらで嬉しそうに話す赤嶺君と父の姿は、私にとって嬉しくもある反面、悔しくも感じられた。
相生先生が言っていた「馬に勝たせてもらったレース」という言葉…。
確かにその通りです。
あの新馬戦は、勝つには勝ちましたが、あがってしまった挙句、途中で馬とけんかをしたり、仕掛けのタイミングで迷ったりするなど、内容は最悪でした。
馬主さんやお客さん達にとっては、応援している馬が勝てばそれでいいのかもしれませんが、相生先生には私の未熟な点を全て見抜かれてしまいました。