いつか
春のGⅠ戦線が盛り上がりを見せている中、私は条件クラスのレースで地道に騎乗する日々を送っていた。
GⅠにはあのフェブラリーS以来、乗っていない。
GⅡ、GⅢの重賞レースには乗ったことがあるけれど、勝ったことはない。
あのレースの後に挙げた勝利数自体も5勝だけだ(未勝利2勝、500万下2勝、1000万下1勝)。
一見すると本当にGⅠを勝った人なのか。本当だとしても、あのレースで一瞬だけ輝いた、一発屋に見られかねない状況だった。
現に、ネット上ではそのような揶揄を受けたこともあった。
だけど、私はそんな言葉は気にしていない。
たとえ周りからしきりにGⅠのことをあれこれ言われようとも、私は自分を見失うことなく、自分なりの努力を続けている。
その努力のおかげで、GⅠを制覇したことによる一時的なご祝儀の騎乗依頼がなくなっても、騎乗なしに終わる日はなかった。
正直、オープン馬のお手馬はいないけれど、私にはクリスタルロード、ザビッグディッパー、ドラゴンポンドがいる(3頭とも500万下)。そしてデビュー前ながら走ってくれそうな雰囲気があるダイヤモンドコロナがいる。
他にも条件さえ合えば乗せてもらえる馬が何頭かいる。
私は、まだまだ頼られている存在だ。
たとえオープン馬がいなくても、頼ってくれる人がいる限り、私はあきらめない。
これからも下克上を巻き起こし、いつかあのフェブラリーSのような、時の人になってみたい。
もしもその時が来たら、今度はみんなの前で堂々としていたい。
インタビューにもきちんと答えてみせるし、表彰式でも胸を張って登場してみせる。
そのためには、クリスタルロード達をしっかりと鍛え上げてレースを勝ち、立派な馬にしていかなければならない。
その努力が、やがて大舞台につながっていくんだと信じている。
そう思いながら、私は毎日を過ごしている。
弟の政永は見事に現役で大学に合格し、今ではアパートで一人暮らしをしながら大学で勉強に励んでいる。
授業料と一人暮らしの費用は父の資金で十分まかなうことができたが、私は「自分も弟を支援したい。」と父を説得し、フェブラリーSで稼いだ賞金の一部を彼のために支払った。
政永は父や私、そして今まで自分を立派に育ててくれた母、空子にすごく感謝をしてくれた。
大学では芸能人である根室那覇男の息子、さらには今年のフェブラリーSを制覇した私の弟ということをさかんに指摘された。
そのことで肩身の狭い思いをし、私や母に悩みを打ち明けてきたこともあるけれど、今では自分の長所を伸ばしていこうと決心し、理科の勉強に励んでいる。
そんな政永を見守り続けてきた母、空子は、4月から自宅で一人暮らしとなってしまった。
最初は会話をする人がいないことを寂しく感じていたが、やがて母は一人で旅をすることを思い立ち、日本のあちこちをまわった。
その中には大きな災害に見舞われた地域も含まれていて、彼女は大変な思いをしながらそれを乗り越えてきた人達と話をする機会があった。
会話をするうちに彼女らは意気投合し、メール交換もした。
その会話の中で、相手の人は家を失ってしまった身内の家族がいることを打ち明けた。
家に帰れば再び一人ぼっちになってしまう母は、自宅の空き部屋を提供するので、遠く離れた自分の地元で一緒に住みませんかと打ち明けた。
知り合った人は、早速その家族と連絡を取り、相談を持ちかけた。
だが返事は「ちょっと考えさせてほしい。」というもので、結論が出ないまま帰宅する日になってしまったため、結局母は一人で地元に戻ることになった。
帰る時、彼女は知り合った人に「いつでもお待ちしていますよ。」と伝え、待ち続けることにした。
さらにはたとえ一緒に暮らすことはできなくても、何かしらの形で援助をしたいということも伝えたそうだ。
騎手を引退し、一度は競馬界から去ってアルバイトをしていた小野浦熱汰君は、やっぱり自分には競馬しかないと思うようになり、厩務員になるための勉強に励むことにした。
それを聞いた私は、弟と同様にフェブラリーSの賞金の一部を彼のために払い、資金面で支援することにした。
父や夜明夕さんにもそのことを打ち明けると、彼らも賛同し、資金援助をしてくれた。
熱汰君は私達にすごく感謝をしながら勉強に励み、厩務員になるための正式な申し込みをした。
ある日、私が彼と会った時、彼は次のようなことを打ち明けてきた。
「僕が厩務員になったら、きっと馬達を立派に育て上げてみせる。そして君にぜひとも乗ってほしい。僕が世話をした馬で、君がGⅠレースを勝つ。そんな夢、いつか叶えてみたいと思うんだ。」
そう話す熱汰君の顔はすごく輝いて見えた。
「うん、そうなるといいわね。」
「それでさ、もしそれが叶ったら、僕と一緒に暮らしてくれないか?」
彼は顔を赤らめながら、私に向かってそう言い放った。
「えっ?あ、あの…。う、うん…。」
私は彼の突然の告白に戸惑ってしまったが、そう言って首を縦に振った。
「よっしゃ!やった!じゃあ、これからバリバリ頑張るぞおっ!」
熱汰君は両手を上に挙げながら、うれしそうにそう言ってくれた。
夜明夕さんは、旦那さんと一緒にとある田舎に住むことを決意し、現在家を建設中だそうだ。
彼女は交通事故というものがいかに恐ろしいものか、そして加害者がどのような気持ちで過ごしていかなければならないのかを皆様に伝えるためにホームページを立ち上げた。
そしてそこに自身の体験談を隠すことなく打ち明けることにした。
さらには同じような思いをして苦しんできた人達からの体験談や相談ごと、悩みなども募集することにした。
しばらくすると彼女のもとにはいくつもの意見が寄せられた。
その中には、相手ご遺族の方からのメッセージもあった。
夜明さんは思わぬ人からの意見に最初驚いていたが、それも掲載することを決意した。
そしてそれらを少しでも多くの人達に読んでもらい、痛ましいできごとがなくなっていくことにつなげたいと願っていた。
(※作者は現時点で交通事故の加害者、被害者になったことはありませんが、明日は我が身という気持ちは常に持っています。そして、時々インターネットで加害者になってしまった人の償いのメッセージを読み、戒めにしています。)
彼女はすでに競馬界からは関係を絶っていたが、ドーンフラワーの動向は気にしていた。
繁殖牝馬となったその馬がトニービンの仔を受胎したという知らせを聞くと、とても喜んだそうだ。
家の建つ場所には5アール程度の空き地があり、夜明さんはそこを農地にして、旦那さんと共に農作物を育てていくそうだ。
そして近くに住んでいる農家の人達の農作業も手伝いながら、やがて出所してくる息子と共に、静かに過ごしたいと言っていた。
フリンダース・スペンサーさんはこれまで自身が執筆し、出版してきた英会話に関する本を私に無料で提供してくれた。
私は当初、「英語の勉強は勘弁してください!」と言って、受け取りを断ろうとした。
一方のフリンダースさんは「それは残念。」と言いながらも、彼の本の愛読者であり、熱心に英語を勉強している久矢大道騎手のことを話してくれた。
そして
「彼は数年前まで全く英語を話せない人でしたが、懸命に勉強し、今では通訳無しで堂々と英語を話していますよ。」
というアドバイスもしてくれた。
その言葉に押される形で、私は本を受け取ることにした。
オーストラリアに移籍したミリオネアは、所属する厩舎こそすぐに決まったものの、3人の騎手が主戦騎手の座を巡って争奪戦を繰り広げることになった。
3人のうち、一人は年配ながらも経験豊富な人、別の一人は若手ながらもすでに短期免許で何度も来日し、日本馬の特徴をよく知っている人、そしてもう一人はヨーロッパ仕込みの腕前を持っている長身の人だった。
調教師の人は3人のうち誰を乗せるかを考えながらも、網走譲騎手や私のことも調べてくれていた。
そして日本での活躍が認められれば、網走さんか私に白羽の矢を立てることも考えていた。
もう二度とミリオネアには会えないとばかり考えていた私は、それを聞いて嬉しくなった。
とはいえ、私の通算成績は38勝。GⅠは1勝で、それを含めて重賞は2勝しかしていない。
すでに通算2400勝を挙げ、GⅠ31勝。重賞は今年中に200勝の大台に到達すると予想されている網走さんや、オーストラリアにいる3人の騎手と比べれば私の実績は大きく劣っている。
正直、私が選ばれる可能性は0に非常に近いけれど、わずかでも可能性が生まれたのであれば、最高の下克上を巻き起こし、そしてもう一度ミリオネアに会いたいと思うようになった。
さらには、久矢騎手が外国人騎手や関係者の人達と英語で会話している姿を見て、私も刺激を受けた。
それがきっかけとなり、私は英語を一生懸命勉強するようになった。
そしてフリンダースさんの出版した本を読み、久矢騎手とも連絡を取った。
久矢騎手は、自身が通っている英会話教室の先生を紹介するので、彼女からアドバイスを受けてみてはと勧められた。
私もそれを受けて、その女性とメールでやりとりすることにした。
私はこれまで騎手としての日々を通じて、色んな人達、色んな馬達と出会うことができました。
そしてたくさんの幸せをもらうことができました。
今の騎手としての私があるのは、私が出会ってきた人達、馬達、そしてこの作品を読んでくださった読者の皆様のおかげです。
この中の誰一人、一頭が欠けていても、今の幸せな私は存在しませんでした。
だから、この場を借りてみなさんにありがとうと言いたいです。
私はこれからも、皆様から、そして馬達から幸せを分けてもらいながら、そして彼らに幸せを分け与えながら、騎手としての日々を頑張っていくことでしょう。
いつかGⅠ制覇という、あの感動を再び味わえることを夢見ながら…。
(終わり)
「下克上 ~弥富騎手、引退危機からの逆転劇~」を最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。
私が主人公となっている作品はこれで終わりですが、私自身は次回作で脇役として登場する予定です。
ジャンルは全く違いますが、引き続き応援していただけるとありがたいです。
これからもよろしくお願いします。
弥富伊予子より