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元気でね

 ミリオネアが私の元から去っていってしまうことは、私の心に大きな穴を残していった。

 私は次の日も、さらにその次の日も気持ちを整理することができず、怒りたいのか泣きたいのかも分からずにいた。

 そんな中で私は、スマートフォンで小野浦熱汰君に気持ちを打ち明けることにした。

 思わず感情的な言い方になってしまった私に対し、熱汰君は至って冷静に話を聞いてくれた。

『ヤト、悔しいとは思うけれど、その悔しさに出会えたってことは幸せなことなんだよ。悔しさに出会うこともできないままの人だって大勢いるわけなんだから。』

 私はその言葉の意味がすぐに理解することができず、思わず「何よ、その言い方!」と言い返してしまった。

 それでも彼は全く怒ることもなく、冷静だった。

『とにかく君はダイヤモンドコロナっていう、新しいパートナーを手に入れることができたんだし、新しいチャンスを与えてもらえたんだ。失ったものについて考えるよりも、得られたものについて考えてくれよ。』

 彼は終始明るさを失うことなく、明るい口調でアドバイスをしてくれた。

 それを聞いて、感情的だった私も少しずつではあるが落ち着きを取り戻していき、電話の最後には「小野浦君、ありがとうね。」と言うことができた。

『どういたしまして。また何かあったら相談してくれ。それからさ、僕のこと、下の名前で呼んでくれないか?何か、その方がしっくりくるような気がするからさ。じゃあね。』

 彼はそう言い残して会話を締めくくった。

(下の名前かあ…。そうなると、「熱汰君」と呼ぶことになるかしらね。)

 私はいつの間にかミリオネアの悔しさを忘れ、彼の呼び方について考えていた。

 それ以降、私は少しずつ落ち着きを取り戻していくことができるようになった。


 それから間もなく、ミリオネアは登録を抹消され、本当にオーストラリアに行ってしまうことが明るみになった。

 世間の人達は一斉に驚いていたが、すでに冷静さを取り戻していた私は、笑顔でこの馬を送り出す決意を固めていた。

 翌日の朝、私はミリオネアの日本における最後の調教を行うことになった。

 場所は栗東の坂路で、単走で馬なりということになっており、事実上はこれが日本での引退式のようなものだった。

 そこには稚内先生の他にフリンダースさんも駆けつけてくれた。

「それじゃ、弥富さん、お願いしますよ。」

 稚内先生は名残惜しそうな声で言ってきた。

「はい、分かりました。」

 私はそう答えると、ミリオネアにまたがり、坂路の一番下の部分にやってきた。

「さあ、行くわよ。日本での最後の勇姿をみんなに見せてちょうだい。」

 そう言うと、一発気合いを入れて馬を走らせ始めた。

 ミリオネアはとてもリラックスしたような感じで走り、ゆっくりと坂路を駆け上がっていった。

 これがこの馬にまたがれる最後の機会。これを駆け上がって、馬から降りてしまえば、もう乗ることはできない。

 私は調教をしている間、この坂路がどこまでも続いていてほしい。どうか終わらないでほしいと考えていた。


「先生。とうとう終わってしまいましたね。」

 ミリオネアの最後の調教を追え、稚内先生達のところにやってきた私は、名残惜しそうに語りかけた。

「そうだな。今までご苦労だった。」

 先生もそれ以上は何も言おうとしなかった。どうやら先生も別れが名残惜しいようだった。

「フリンダースさん、短い間でしたが、本当にこの馬に私を乗せていただきましてありがとうございました。惨敗しても我慢して起用し続けてくれた恩は、絶対に忘れません。」

「こちらこそ。君なら何かやってくれると思っていたからこそ、網走さんが復帰後も君を起用し続けていました。本当に期待に応えてくれてありがとう。」

 フリンダースさんは、心の中では私とミリオネアを引き離すことになってしまったことを申し訳なく思いながらも、それを表に出すことはせず、素直に感謝の言葉を言ってくれた。

 彼はミリオネアがこれから検疫を受ける場所に移動し、しばらくの間そこで過ごした後、問題がなければ飛行機でオーストラリアに飛び立っていくことを教えてくれた。

 さらには現地に到着後は少し休養させ、11月のメルボルンカップを最大目標に調整されることも教えてくれた。

「弥富さん、よかったらメルボルンCの時にはオーストラリアまで来て、この馬に乗ってみませんか?」

 フリンダースさんは話の最後に意外なことを提案してきた。

「え?ええっ?む、無理です!だって私英語全然できないから!」

 私は驚きのあまりに動揺してしまい、こう言い放ってしまった。

「Oh、それは残念。今から僕が英語の特訓をしてもいいですよ。」

「勘弁してください!これから騎手として生き残っていけるかも分からないですし、海外なんてとても考えられないです!」

 私はあたふたとしながらも、きっぱりと断ってしまった。

 もしここで依頼を受け入れていれば、私は再びミリオネアにまたがるチャンスをもらえたかもしれない。

 しかし結局断ってしまった。

 ある意味もったいないことかもしれないけれど、言葉の壁がある以上、これがベストな選択なんだと私は自分に言い聞かせることにした。

 ミリオネアはフリンダースさんの言葉通り、この日の午前中に馬運車に乗せられ、検疫所へと向かっていった。

 フリンダースさんは一緒についていくものの、私と稚内先生は同行しなかったため、これがミリオネアの姿を見る最後の機会になった。


 飛行機で日本を飛び立っていく日、私はクリスタルロード、ダイヤモンドコロナ、ドラゴンポンド、そして骨折が癒えて戻ってきたザビッグディッパーの調教と世話をしていたため、空港まで見送りに行くことはできなかった。

 でも、飛行機が飛び立つ時刻になると、そっと目を閉じてミリオネアと歩んだ日々を思い出した。

(たった4戦だけだったけれど、感動的な思い出をくれて、本当にありがとう。どうかオーストラリアで幸せな日々を過ごしてね。遠く離れた日本で、応援しているから。)

 私は笑顔を浮かべてそう思いながら、ミリオネアを送り出していった。


 ありがとう、ミリオネア。あなたのことは一生忘れない…。


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