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あれから5日

 フェブラリーSから5日が過ぎた金曜日の午後、私は小倉へ向かう新幹線の中にいた。

 私は小倉競馬場で土日合わせて12レースに騎乗することになっていた。

 これは去年の夏に記録した11レースを上回り、土日の騎乗数の新記録だった。

 この時の私はすっかり精神的に立ち直り、これまでとは変わらない私になることができた。

 なぜ「すっかり精神的に立ち直り」と言い出したのか。それはあのフェブラリーS以来、私の身には色々なことが起きたからだった。

 そう。あのレースの決着がついた、あの瞬間から…。


 あの日、私はGⅠフェブラリーSを15番人気で制し、最高の下克上を達成した。

 2着、ハリアライジンとの差は距離にしてわずか1cmだった。

 着順掲示板の写真の文字が消え、1着のところに13の数字が点滅し、着差のところにハナと表示された時には、これまで感じたことのない喜びが込み上げてきて、言葉にならない叫び声をあげながら両手を上に突き上げた。

 そして次の瞬間、目からは涙があふれ出し、止まらなくなってしまった。

「弥富さん、勝ったぞ!良かったな!」

「すごいじゃないか!最高の下克上だぞ!」

 逗子一弥騎手と赤嶺安九伊君は喜びながら私を祝福しようとした。

 しかし私は喜びたいのに涙で前が見えず、手足の震えも止まらず、立ち上がることすらできなかった。

「おい、勝ったぞ!」

「立てよ、弥富!」

 2人にそう言われても私は泣きじゃくったまま、その場にへたり込むばかりだった。


 その後、勝利ジョッキーインタビューの時間になっても手足の震えは止まらず、立ち上がって歩くこともままならない状況だった。

 他の騎手達に抱えられるようにしてインタビューの場所にたどり着いても涙が止まらず、まともな言葉が出てこない状態だった。

 結局「ありがとうございます。」とか「うれしいです。」とか「夢が叶いました。」ということを覚えている程度で、それ以外は何を言ったのかすら思い出せなかった。

 今考えると、私は全国の皆さんの前で恥ずかしい姿をさらしてしまった。


 レースが確定して払戻金が発表され、表彰式の時間になっても、私は顔をくしゃくしゃにしたままだった。

 その状態で稚内平先生やフリンダース・スペンサーさん達に連れられながら、私は13番のゼッケンを持ってターフに姿を現した。

 しかし頭が真っ白になっていた私はこの場所で何をすればいいのか分からず、ミリオネアにまたがることもできないまま、その場に立ち尽くしてしまった。

「弥富さん、GⅠの表彰式の場面ならすでに何回も見ているだろう。しっかりしろよ。」

「Yeah. それに君はGⅢ Queen Stakesの表彰式でも立派に振る舞っていたでしょう。」

 稚内先生とフリンダースさんにそう言われても、私は立ち直ることができなかった。

 とにかく自分のこんな姿を大勢の人達に見せるのが恥ずかしくて、そのうち耐え切れなくなってきて、気がついたらこんな表彰式早く終わってほしいと考えるようになっていた。


 私にとっては長い長い表彰式の時間がやっと終わり、自由の身になると、私は逃げるようにして控え室へと駆け込んでいった。

 スマートフォンを見ると、すでにたくさんのメールが送信されていた。

 その中には父、根室那覇男や母、空子。弟、政永。さらには小野浦熱汰君、椋岡先輩、夜明夕さんからのメールもあった。

 彼らは私のことを心から祝福してくれた。

 それが私にはすごく嬉しかった。

 しかし何て返事を出せばいいのか分からず、結局「どうもありがとうございました。」と入力して、コピー&ペーストし、それを全員に送ることしかできなかった。


 競馬場を後にした私は何もかもを避けて、一人で静かに過ごしたかった。

 しかし周囲はGⅠを制して時の人となった私を放っておいてはくれなかった。

 スマートフォンを見ると、インターネットのYakoo! JAPANではフェブラリーSの結果速報と「女性騎手、中央競馬史上初の平地GⅠ制覇!」というようなタイトルの記事がいくつも出てきた。

(※障害レースまで含めると、中山大障害を外国人の女性騎手が制した例があるため、これが2例目ということになります。)

 ニュースの下の掲示板には恐ろしいまでの数のコメントが載っていて、私を祝福したり、馬券をはずした不満をぶちまけたり、挙句は「地方の夢を台無しにしやがって!」というような中傷も書き込まれていた。

 別の記事には、1cm差で涙をのんだ鹿原騎手のコメントが紹介されていた。その中で、彼はまるで荒れ狂うような悔しさをぶちまけていた。

(私、鹿原さんに今度会ったら何て言えばいいのだろう…。)

 そう思いながら東京駅で新幹線に乗り込むと、今度は乗客から

「あっ!弥富騎手だ!」

 という声が上がった。

 すると周りの人達は一斉に私の方を向き、

「本当だ!」「おめでとう!」「サインください!」「握手してください!」

 と言いながら私の方にやってきた。

「えっ?あの…。」

 私はどうすればいいのか分からず、あたふたとするばかりだったが、とりあえずサインと握手には応じることにした。

 そうしているうちに他の車両からも乗客がやってきて、サイン攻め、握手攻めにあってしまった。


 その日のニュースでは、スポーツのコーナーになると、その度にアナウンサーが

『今年最初のGⅠレース、フェブラリーS!このレースは歴史に残る大激闘になりました!』

 と言い出してきたそうだ(私は見ておらず、母が知らせてくれました)。

 そして表彰式のシーンでは泣きじゃくる私の顔がアップで映し出されていたそうだ。

 翌日の新聞の表紙には

『弥富騎手、1cm差で歴史を塗り替えた!』

『通算33勝目がGⅠ!最少勝利数を更新!』

『引退危機に陥っていた騎手の見事な下克上!』

 という文字がおどっていた。

 さらに私の元には取材が殺到し、恥ずかしい記憶を容赦なく掘り起こされることになった。

 記者の中には父、根室那覇男にインタビューをしてきた人もいて、

「君のお父さんもすごく喜んでいましたよ。お父さんには何て言葉を発したいですか?」

 と言われてしまった。

 私は何て言えばいいのか分からないまま、とりあえず

「と、とにかくありがとうと言いたいです…。」

 と言うことしかできなかった。

 さらには私の自宅にも取材陣が押し寄せ、対応に追われた母はてんやわんやの状態だったそうだ。

 受験期間の真っ最中だった政永も取材を受けることになり、次々とコメントを求められると、

「静かにしてくれ!勉強に集中できないだろうが!」

 と逆ギレしてしまったそうだ。

(幸い、政永の件はニュースに取り上げられなかったので、おおごとにはなりませんでしたが…。)


 とにかくこの5日間は色んなことがこれでもかと言いたくなるくらい起こった。

 そして本来なら忘れていたい記憶をマスコミや周りの人達からたくさん掘り起こされてしまい、恥ずかしくて外を安心して歩けない状況だった。

(あのGⅠ制覇によって私は人生が変わってしまった。せっかくずっと夢見てきた最高の下克上を達成したのに、こんなことになるなんて…。あのレース、やっぱりハリアライジンが勝った方が良かったのかもしれない…。)

 そう思って勝利を後悔したくなったことも1度や2度ではなかった。

 しかしその気持ちを誰にどうやって打ち明けたらいいのか分からず、私は途方に暮れてしまった。

 でも、そんな私を救ってくれたのは、父と母、そして弟、小野浦熱汰君を始めとする仲間達だった。

 私は彼らと何度も連絡を取り、すがるようにして自分の気持ちを打ち明けた。

 彼らは快挙ばかりを取り上げてはおだててくる人達とは違い、私の気持ちを全て理解してくれた。

 さらに一時は気が狂うほど荒れすさんでいた鹿原騎手もすっかり立ち直ったのか、私に対して

「いい勝負をありがとう。これからも頑張ってね、弥富さん。」

 というコメントを寄せてくれた。

 そんな彼らに後押しをされて、私はあの下克上、さらには引退危機からの逆転劇という快挙をやっと前向きに受け止めることができるようになり、嬉しさが込み上げるようになった。

(みんなありがとう。この感謝の気持ちは一生忘れないわ。思えばこの5日間、色々悩んだけれど、やっぱりもう一度GⅠを制覇してみたい。そして今度はもうあんな醜態を見せたりしない。インタビューにもきっちりと答えて見せるし、表彰式の時にも堂々としていたい。そのためにもう一度やってやるわ!ミリオネアと共に!)

 すっかり立ち直った私は、小倉に向かう新幹線の中でそう思い続けていた。


読者の皆さん。フェブラリーSの結果について、感想欄でネタバレはくれぐれもしないでください。

お願いします。

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