表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/47

真っ逆さま

 神様がくれたご褒美の休暇を終えて、リフレッシュした気分で栗東に戻ってきた私だったが、そこで待っていたのは厳しい現実だった。

 阪神JFが行われる週末、私が騎乗できたのは土曜日に中京で1レース(2歳未勝利戦、11頭立てのシンガリ負け)、日曜日も同じく中京で1レース(ザビッグディッパーの3歳500万下、14頭立ての8着)だけだった。

 しかもザビッグディッパーがゴール板を通過してクールダウンしている時に、別の馬に乗っていた逗子一弥騎手から

「君、その馬、何か少し歩様が変だよ。」

 と指摘されてしまった。

「えっ?本当ですか?」

 驚いた私は3コーナー入り口で馬を止めると、急いで馬から降りて様子を見た。

「伊予子、どうしたんだ、急に下馬なんかして。」

 引き上げ場では父、根室那覇男が動揺しながら聞いてきた。

「ちょっと骨折したかもしれないです。ひどくはないとは思いますが、検査が必要だと思います。」

 私は悔しい表情で父の顔を見ながら答えた。

「そうなのか?じゃあ、しばらく走ることはできないな。」

「はい、そうなりそうです。ごめんなさい、こんなことになってしまって…。」

「まあ、気にするな。確かに残念と言えば残念だが、しばらくしたらまた走れるようになる。」

「そうですけれど…。」

「とにかく今日はもう騎乗が終わりだろう?関係者入り口に戻ってきたら、一緒に実家に行こうか?そして家族4人で一緒に過ごそうか?」

「はい、そうしましょう。」

 私は悔しい表情のまま、何とかそう言い切った。

 なお、その後の検査で、ザビッグディッパーは骨折が判明し、放牧に出されることになった。

 騎乗依頼が少なく、結果も出せていない中でお手馬を1頭離脱させてしまい、私は悔しさを懸命にこらえながら、父と共に実家に向かっていった。


 しかしその後も状況が好転する兆しはなく、翌週の私は土曜日に中京で1レース乗れただけだった(3歳以上500万下で、未勝利の馬に騎乗。16頭立ての15着)。

 しかも11月のレースで私が騎乗して勝利し、31勝目をプレゼントしてくれたミラクルシュートは、再び赤嶺安九伊君の手に渡ってしまい、翌日の日曜日に阪神競馬場でサンタクロースハンデ(1600万下、ダート1200m)に出走を予定していた。

(また1頭お手馬を失ってしまった…。どうして?どうしてこんなことになるの?先月は惨敗したとは言え、ジャパンカップに騎乗したのに…。)

 私は突きつけられた現実が受け入れられず、悔しい思いは増していくばかりだった。

(ちなみにミラクルシュートは15頭立ての6着だった。父はその日、仕事で競馬場に来られなかったので、代わりに母、空子が駆けつけた。)


 真っ逆さまに転落していく状況が理解できずにいた私は、週明けに稚内平先生に原因を聞いてみることにした。

「弥富、お前は最後に勝利を挙げたのはいつだったか、覚えているか?」

 先生は厳しい口調で私に問いかけてきた。

「えっ?えっと…、エ、エリザベス女王杯の週です。」

 私はオドオドしながらも、何とかそう答えた。

「その前は?」

「えっと…、確か…。」

「9月だろ?ちょうど菊花賞のトライアルが行われていた頃だ。」

「あっ、はい。そう…でしたね。」

「お前はこの3ヶ月間で2勝しかしていない。それが大きな理由だ。お前は先月ジャパンカップでGⅠレースに乗れたとしきりに言っているが、その日、東京競馬場で何レース騎乗したと思っている?」

「その、1レースだけです。」

「そうだ。お前は華やかな場面ばかりを考えていただろうから気付かなかったかもしれんが、プロの目はごまかせんぞ。いい気になっていたんなら、それは大きな落とし穴だ!」

「はい…。」

 稚内先生に厳しい言葉を浴びせられて現実に目覚めた私は、うつむきながらそう一言答えることしかできなかった。

(これが勝負の世界の厳しさなのね…。私は引退まで考えたあの厳しい時期がすっかり過去のものになったように錯覚していたけれど、やっぱり一寸先は闇なんだ…。今年は17勝も挙げ、重賞も勝ったけれど、考えが甘かった。何とかして取り返さなきゃ…。)

 改めて危機感を持った私は、懸命に自分を売り込んだ。

(今度の週は有馬記念。すでに中京開催も終わり、競馬開催は阪神と中山しかない。しかも来年の最初の開催でもローカルがない。当然騎乗できるチャンスも限られてしまう。)

 休養していた頃の精神的な余裕もすっかり吹き飛んでしまい、危機感の真っ只中にいた私は、何とかして騎乗に有り付こうと頑張った。


 だが、有馬記念の週に待っていたのは、土日共に騎乗無しという最悪の結果だった。

(乗れなかった…。こんな事態だけは避けようと頑張ってきたのに…。)

 金曜日の夕方、阪神競馬場と中山競馬場へ向かっていく騎手の人達を見ながら、私は泣きたくなる程の悔しさで一杯になった。

 インフルエンザで休養している間は父、根室那覇男や母、空子。弟、政永。そして何でも話せる親友である小野浦熱汰君に対して、冷静に状況を報告することができた。

 しかし今回は騎乗無しという現実を受け入れられず、誰にもそれを伝える気になれなかった。

(このまま土日とも、栗東に引きこもっていようかしら…。でも、毎週競馬を詳しくチェックしている小野浦君にはたちまちばれてしまう…。どうしよう…。)

 私は泣きたい気持ちを必死にこらえながら、寮の中で過ごしていた。


 日曜日に行われた有馬記念は、ジャパンカップで優勝したチヨノラッキーオー、そのレースで1番人気に推されながら5着に敗れたトリプルドリブル、3番人気で10着に沈んだトランクメロディーを始め、札幌記念の勝ち馬で、今年の天皇賞(秋)2着、マイルCS2着のトランクトニージャ、GⅢを3勝しているトランクメルボルンといったメンバーが集結した。

 レースはトランクトニージャが勝ち、グランプリでGⅠ初優勝を飾った。そして2着はトリプルドリブルになった。

(チヨノラッキーオーは4着、トランクメロディーは7着、トランクメルボルンは10着。)

 しかし、そのレースを私は見る気にはなれず、スマホで結果を確認しただけだった。


 今年の競馬の日程も全て終わり、辺りが薄暗くなってきても、私は部屋でひざを抱えたまま座り込んでいた。

 すると近くから「弥富さん、電話ですよ。」という声がした。

「はあい。」

 力ない声で返事をした私はゆっくりと立ち上がり、声のした方へと向かっていって、その電話に出た。

 相手はフリンダース・スペンサーさんだった。

「もしもし、弥富伊予子です。」

『Hello. 僕はFlinders Spencerと申します。弥富さん、久しぶりです。』

「久しぶりです。あの、私に何の用ですか?」

 私は日曜日にどうして私がここにいることを知っているのかを不思議に思いながらも、それについては聞こうとしなかった。

『早速本題に入ります。実は、Millionaireの次のレースですが、稚内先生と相談した結果、京都金杯(GⅢ、芝1600m)に決まったんです。』

「はい、それで?」

『それで、君に騎乗を依頼したいと思いまして、電話をしました。騎乗はOKですか?』

「えっ?ええっ!?」

 私はフリンダースさんの電話を聞いて驚き、しばらく言葉が出てこなくなった。

 今月はインフルエンザにかかったことが引き金になって真っ逆さまに転落し、失意の1ヶ月を過ごしてきたものだから、まさか重賞レースの騎乗依頼が来るなんて夢にも思っておらず、言っていることがにわかには信じられなかった。

『何故驚くのですか?君なら「ぜひお願いします。」と言うだろうと思っていたのに。』

 私の状況をはっきりと理解していないのか、フリンダースさんは至って冷静に問いかけてきた。

「あ、あの、ぜひお願いします!乗せてください!お願いします!!」

 辛い状況の中で、ついに一筋の光が差し込んできたものだから、私はすがるような気持ちで、二つ返事をした。

『分かりました。では金杯、よろしくお願いします。ガンバッテください。』

 フリンダースさんはそう言って会話を締めくくり、電話を切った。

 受話器を置いた後、それまで失意の底で打ちひしがれていた私の心にはメラメラと火がついた。

(よおし、やってやるわ。多くの人達が私に見向きもしなくなった中で、フリンダースさんは私を見ていてくれた。この恩は、絶対に勝利で返すわ。)

 そう思うと私は部屋に戻り、ミリオネアの映像を探しては繰り返し見ることにした。

 さらにはそれまで見るのも嫌だったジャパンカップの映像も、この時は見たくてしょうがない気分になり、土砂降りの雨に打たれ続けるあの日の私の姿を、血眼になって追いかけた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ