下克上の舞台へ(後編)
ゲートが開くと同時に、東京競馬場には大きな歓声が響き渡った。
初めてGⅠを経験する私は一瞬ビクッとしたが、それ以上にミリオネアが驚いたようで、やや出遅れた形になってしまった。
(くっ。GⅠ独特の雰囲気にのまれてしまったようね。)
私はやってしまったという気持ちになりながらも、とっさにムチを一発入れて馬に気合いを入れた。
外国馬を含む多くの馬達は、少しでもいいポジションを取ろうと、内の方にわっと押し寄せてきた。
結果、ミリオネアは押し出されるような形で、集団の後方につけることになってしまった。
前を走る馬達からは泥や水しぶきを浴びせられ、ゴーグルはたちまち汚れていった。
(ちょ、ちょっと!これじゃ前が見えないじゃない!こんな状況でどうしろっていうのよ!)
私は予想だにしない状況にどまどうばかりになってしまった。
仕方なくゴーグルを1つ外すと、すでに1コーナーに差し掛かるところだった。
(良かった。間に合ったわ。もう少し遅かったら、この馬だけコーナーを曲がれないまま逸走してしまうところだった。)
私はほっとしながら、他の馬達と一緒にコーナーを曲がっていった。
しかし他馬の後ろを走れば泥をかけられ続け、そうならないように進路を変更しても、土砂降りの雨のせいで結局前が見えにくい状況だった。
しかも体中びしょぬれで冷え切ってしまった中で、馬が猛スピードで走っているものだから、はっきり言って寒い。
正直、自分が今どこにいるのか。そしてどの馬が今どこにいて、どれくらいの速さでレースが進んでいるのかなんて考えていられる状況ではなかった。
(こんな状況では進路妨害にならないように馬を走らせるだけで精一杯よ。一流騎手の人達はこんな状況の中で結果を出すために一体どんな訓練を積んでいるの?)
私はレース中にもかかわらず、気がついたらよそ事を考えていた。
そんなことを知る由もない稚内 平先生と、フリンダース・スペンサーさんは、厳しい表情で私とミリオネアを見つめていた。
「15頭立ての14番手か…。これは思ったより後方だな。」
「ペース速過ぎでしょうか?」
「不良馬場を考慮すれば多少は速い方だがな…。」
「単についていけないんでしょうか?」
「…かもな。」
「Oh, dear (まいったなあ)…。」
2人はそう言うと私から目を離し、有力馬であるトリプルドリブル、スノーフスキー、トランクメロディー、ベルルドリームに視線を移してしまった。
向こう正面を走っている時、私はすでに2つのゴーグルを外しており、残りはあと2つとなってしまった。
前がよく見えない状況は相変わらずだったが、もうむやみに外すわけにはいかないため、私は手でゴーグルを拭きながらレースを進めていくことにした。
正直、トリプルドリブル、スノーフスキー、トランクメロディー、ベルルドリーム、そして穴馬のチヨノラッキーオー、ナチュラルリズムといった馬達がどこにいるのかは把握できていない。
とにかく今の私にはGⅠという名の魔物、そして悪天候、寒気という状況と闘い、進路妨害を避けながら無事に2400mが終わってくれるのを願うことしか考えられなかった。
情けないけれど、レース前に意気込んでいた下克上という気持ちはいつしか吹き飛んでしまい、今回はGⅠ初挑戦とか、雰囲気にのまれたとか、馬が最低人気だからという言い訳で逃れたい気持ちになってしまった。
こんなことを知られたら、稚内先生とフリンダースさんから怒られるだろうけれど…。
「うーーん…。これはきついな。」
「MillionaireではGⅠは力不足でしょうか?」
「それで片付けたくはないんだがな…。」
「とにかく、私は彼女を信じます。」
稚内先生が半ば勝負をあきらめてしまっている中、フリンダースさんはあきらめてはいなかった。
最後の直線。私は3つ目のゴーグルを外すと、残り1つのゴーグルで最後まで走り切ることになった。
終始内を走り続けていた私は、ミリオネアを外に持ち出そうとしたが、すぐ外に別の馬がいることに気付いたため、結局ゴールまで内を走り続けることになりそうだった。
すでに前にはたくさんの馬がいるため、見るからに勝利は無理な状況だった。
こうなったら最下位だけは避けながら、一つでも上の順位を目指すしか、目標はなかった。
正直、レース中は他の馬がどうなったのかなんて全く把握できず、自分のことしか考えることができなかった。
結局いいところが全然ないまま、私は2400mを走り切ることになってしまった。
(何もできなかった…。こんな最悪のレース初めて…。穴があったら入りたい…。せっかく応援してくれた人達に申し訳ない…。)
私は悔しさと脱力感にさいなまれながら稚内先生とフリンダースさんに会うことになってしまった。
「先生、すみませんでした。」
私は寒さに震えながら頭を下げた。
「まあ、ご苦労だった。シンガリなのはいただけないが、これ以上は言わないことにする。後でビデオを見て今後に活かせ。いいな。」
先生は雨でずぶ濡れ、さらには泥だらけなのを考慮したのか、それ以上のことを言おうとはせず、早く検量に行くように促してきた。
「はい…。」
私はそう言うと、ミリオネアを置いたまま足早に引き上げていった。
そして検量が終わると、急いで服を着替え、冷え切った体を温めることにした。
(こんなこと言ってはいけないけれど、これ以上騎乗依頼がなくて良かった。こんな気持ちで、しかもこんな雨が降りしきる中でレースをしろなんて言われたら本当に風邪をひいてしまうし、気持ちも切れていたわ…。)
私はミリオネアの様子を見に行くこともできないまま、控え室でブルブル震えるばかりだった。
その後、気持ちが落ち着いた私は録画しておいた映像を見て、ジャパンカップを振り返ることにした。
(本当は見るのも嫌だったけれど、見ないと稚内先生が怒るので…。)
レースは9番人気で、三嶋騎手騎乗の日本馬チヨノラッキーオーが1着になり、2着には何と13番人気でサリバン騎手騎乗のオーストラリア馬、ナチュラルリズムが食い込んできたため、大波乱となった。
3着には2番人気でムーン騎手騎乗の英国馬スノーフスキーが入ったため、人気馬の総崩れだけは免れた。
とは言え、それ以外の人気馬であるトリプルドリブル(1番人気、柴崎騎手騎乗、日本馬)は5着、トランクメロディー(3番人気、綾瀬騎手騎乗、日本馬)は10着、ベルルドリーム(4番人気、シュレス騎手騎乗、ドイツ馬)は11着と、人気を裏切る結果になってしまった。
(こんなことが起きていたのなら、人気薄の馬にもチャンスはあったわね。もったいないレースになってしまったわ…。)
私は最下位に沈んでしまった私とミリオネアの姿を見て恥ずかしい気持ちになりながらも、何とか繰り返しレース映像を見続けた。
レース前には未来永劫破られない、史上最高の下克上を達成したいと言っていました。しかしいざレースを経験してみると、とにかく悪いことが重なりすぎて、シンガリ負けという結果になり、全国の皆さんにチョウゼツハズカシイ姿をさらしてしまいました。
読者の皆さん、下克上って言って盛り上げておきながら、こんなことになってごめんなさいっっ!!
(※現在の私によるコメントは今回が最後とさせていただきます。ストーリーはまだ続きます。)
おまけ:レース後の綾瀬騎手
「だーーー、ちっくしょーーー!!何で10着なんだよ!この大レースを優勝して伊予子ちゃんにコクる(告白する)つもりだったのにーーーー!!って、ヘーーーックショーーン」
(どうやら彼はびしょぬれになった影響で風邪をひいてしまったようです。)