下克上の舞台へ(前編)
エリザベス女王杯も終わり、世間はGⅠマイルチャンピオンシップの予想、そしてGⅠジャパンカップに出走する馬の話題で盛り上がっていた。
そんな中、私は稚内 平先生からある騎乗依頼を受けた。
乗る馬はフリンダース・スペンサーさんの所有馬ミリオネアで、出走するレースは何とジャパンカップ(GⅠ、東京、芝2400m)だった。
GⅢを1回しか勝っていない馬がGⅠに、しかも国内最高賞金のGⅠレースに出走するものだから、私はにわかには信じられなかった。
「せ、先生!冗談で言っているわけではないですよね!」
「本気だ。フリンダースさんから頼まれた時は僕も驚いたが、除外覚悟で登録をしてみたら外国馬の回避もあって最終的に15頭だったため、出られることになった。」
「とは言え、私に依頼ですか?」
「ああ。僕は赤嶺君も考えていたんだが、フリンダースさんが君を推してきてな。協議の結果、最終的に君に依頼することにした。騎乗してくれるか?」
「えっ!?あ、あの…。」
私は言われていることがまだ信じられず、はっきりと返事をすることができなかった。」
何しろ私の通算勝利数は31。GⅠに騎乗できる最低限度の数だ。
赤嶺君は私の倍以上の70勝。実績も私より上だ。
ただ、重賞勝利数が1なので、その点は私と並んでいるけれど…。
「どうかね?もし荷が重いようなら赤嶺君に依頼することにする。ここで返事をしてくれたまえ。」
「は、はいっ!乗ります!乗せてくださいっ!」
「よし、よく言い切った。では早速作戦について考えることにしよう。」
先生は私が同意するやいなや、次の行動に出だした。
一方の私は気持ちがついていかない中で、懸命に稚内先生についていった。
ジャパンカップは国内組からはトリプルドリブル(今年の天皇賞春、秋連覇)、チヨノラッキーオー(去年のNHKマイルカップ制覇)、トランクメロディー(去年のオークス、今年のビクトリアマイル制覇)といった有力馬が集まった。
一方の外国馬はスノーフスキー(英国馬、去年の英国ダービーと今年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS制覇)、ナチュラルリズム(オーストラリア馬、去年のメルボルンC制覇)、ベルルドリーム(ドイツ馬、今年の凱旋門賞制覇)という豪華な顔ぶれになった。
下馬評では日本馬有利と言われる中、ミリオネアは全くの無印だった。(まあ、当然よね。)
それでももし勝てば通算32勝目がGⅠ制覇ということになる。
これはルールが改正されない限り、未来永劫破られることのない記録になるだけに、私は(絶対に史上最高の下克上を達成してみせるわ!)と意気込んだ。
ジャパンカップ当日。5枠9番ミリオネアの単勝は156.0倍で、最低人気だった。
1番人気は柴崎騎手の騎乗するトリプルドリブル。以下ムーン騎手騎乗のスノーフスキー、綾瀬騎手騎乗のトランクメロディー、シュレス騎手のベルルドリームと続いた。
(三嶋騎手騎乗のチヨノラッキーオーは9番人気、サリバン騎手騎乗のナチュラルリズムは13番人気。)
この日はあいにくの雨で、朝の段階から馬場は芝、ダート共に不良だった。
(せっかくのGⅠデビュー戦なのに、最悪の気象条件になってしまったわね。まあでも、稚内先生との話し合いで決めた作戦が変わるわけではないし、自分のやり方でやるまでね。とにかく去年は引退まで考える状況だったけれど、今は史上最高の下克上と言われる大逆転劇を巻き起こせる状況になった。個々まで来たらやるしかないっ!)
私は初めて体験する緊張感の中で、懸命に自分を奮い立たせた。
(ちなみに夕べは緊張してよく眠れませんでした。今日も調整ルームで休んでいる時には寝たいと思いながら、結局全然眠れませんでした。)
ジャパンカップのパドックに姿を現した私は、さらに大きくばかりのプレッシャーの前に押しつぶされそうにさえなった。
(とにかくやるしかない。最低人気だから失うものはないけれど、それでも小野浦君をはじめ、お金を賭けてくれた人はいるわけだし、稚内先生やフリンダースさんは私を信じてくれた。その期待に応えて、誰にも真似できない下克上を達成してみせる!)
私は中身が込み上げてきそうな心境の中で、ミリオネアにまたがった。
雨は全く止む気配はなかった。それどころかさらに大雨になってきた。
馬場は当然不良。それも不良の中の不良という感じで、芝コースでは水が浮き、ダートコースは泥沼としか言いようのない状態だった。
私がグシャグシャの本馬場で馬をウォーミングアップさせている時、稚内先生とフリンダースさんはこちらを見ながら会話をしていた。
「稚内センセイ。作戦はどうしますか?」
「先行馬の多いこのメンバーでは、最初から前に行くことは厳しいだろう。だから中段より後ろにつけてほしいと伝えた。」
「Oh、そうなんですか。でも、こんな最悪の馬場では追い込み不利と聞いています。大丈夫でしょうか?」
「まあ、このメンバーでは正直相手が悪すぎる。いくら作戦をたてたところで、勝てる確率は低いだろう。とにかく奇跡を願うしかないな。」
「奇跡ですか。まあショーガナイです。」
2人は完全に運を天に任せる気持ちだった。
降り続く大雨のために、レース発走前の段階で私は全身がずぶぬれになってしまった。
(寒いわね。このままじゃ風邪をひいてしまいそうだわ。私はこのレースで仕事が終わるけれど、もう1レース乗れなんて言われたら、体がもたないわ。)
私は身震いをしながら発走ゲートの後ろまでやってきた。
一方のミリオネアも雨のせいでせっかくウォーミングアップした馬体がすっかり冷え切っているような状況だった。
(馬にとっては最悪レースになってしまったわね。でも条件はみんな同じ。この条件の中で実力を発揮できれば、私達にも勝機はある。絶対に下克上を達成してみせるわ。)
そう思っていると、いよいよ場内から歓声が沸き起こった。
しかもスタートが正面スタンド前だけに、その歓声は余計に大きく聞こえた。
そしてファンファーレが鳴り、手拍子がこだました。
その光景は、初めてGⅠの舞台を経験する私には、何かの天変地異のように思えた。
(考えても仕方ない。これから始まる約2分30秒の間にできることを精一杯やり遂げるまでよ。勝てるのは1人の騎手と1頭の馬だけ。でも、必ず優勝ジョッキーと勝ち馬は誕生するわけなんだから!)
私は心臓が飛び出しそうな心境の中で、係員に誘導されながら9番のゲートに入っていった。
9番より番号が若く、奇数番をつけているチヨノラッキーオー(3番)とトランクメロディー(7番)はこの時すでにゲートの中に納まっており、偶数番のナチュラルリズム(4番)、トリプルドリブル(10番)、スノーフスキー(12番)が後からゲートに入ってきた。
そして最後に15番のベルルドリームがゲートにおさまって係員がゲートを離れると、いよいよジャパンカップが始まった。
果たして32勝目がGⅠという最高の下克上を達成し、1年前の引退危機からの大逆転劇となるのか?
それは2分半後に判明することになった。
(後編に続く)
この章で新たに登場した馬名、騎手名は読者の方から寄せられたものです。
本当に本当にありがとうございます。