代打、弥富(後編)
怪我をした網走騎手に代わって、急きょ騎乗依頼を受けてから、私はドーンフラワーのことについて必死に調べた。
(うーーん、1枠1番だから包まれたら厳しいわね。それに雨で馬場状態は不良になったし、道悪が得意なのかどうかも知る必要があるわね。でも、過去のレースではドーンフラワーは一度やや重だった以外は全て良馬場だから、ぶっつけ本番でやるしかないかしらね…。)
そう思いながら、私は考えに考え続けた。
調整ルームから外に出られる状態になると、私は相生先生に会って指示を受けることにした。
「先生、ドーンフラワーは道悪どうなんでしょうか?」
「うーーん…。そればかりは僕も分からんな…。だが、雨の日に調教した時でも嫌がる素振りは無かったし、多分気にすることはないだろう。」
「そうですか。ではスタートしたら1コーナーまで近いし、先行でよろしいでしょうか?」
「そうだな。網走君ならきっとそうしたと思うし、なるべく前につけてほしい。」
「分かりました。では、頑張ってきます。」
私は元気よく返事をすると、夜明さんにも
「絶対に勝ってきます。応援してくださいっ!」
と言って、レースに向かっていった。
「期待しています。人気は落ちてしまいましたが、1着が取れれば文句はありません。どうか網走さんの分まで頑張ってください。」
夜明さんは不安そうな表情を浮かべながらも、私にエールを送ってくれた。
ドーンフラワーは最初こそ、トランクプリンセスと1番人気を分け合う形だったが、夜明さんの言ったとおり、私が騎乗することが決まってからどんどん人気を落としていき、最終的に単勝7.9倍の3番人気になってしまった(ちなみに14頭立てです)。
雨は一向に降り止まず、馬場状態は不良のままクイーンSは発走の時間になった。
私が重賞に騎乗するのはインビジブルマンの引退レースとなった去年のセントウルS以来で、通算してもたったの2度目だ。
夜明さんやドーンフラワーの馬券を買っていた人達は
(こんな人に任せて大丈夫か??)
(何でこんな騎手に依頼なんかしたんだ??)
と思っているかもしれない。
でも、私は不思議と緊張はしてはいなかった。
もし1番人気だったら気持ちは違っていたかもしれないけれど、人気が落ちてくれたおかげで余計なプレッシャーを感じなくて済んだというのが正直な気持ちだった。
ゲートが開き、レースが始まると、私はドーンフラワーに一発ムチを入れ、スタートダッシュをかけることにした。
その作戦は見事に決まり、好スタートを切ることができた。
「あれ?いきなり先頭に立ちましたね。」
「やるな、弥富さん。」
驚く夜明さんに対し、相生先生はしてやったりの表情だった。
一方、1番人気の8枠14番トランクプリンセスはやや控える形になり、2番人気の5枠8番ユーウィルビリーヴは意外にも逃げに打って出た。
そのため、スタートしてしばらくの間先頭を走っていた私とドーンフラワーは1コーナーで2番手に下がった。
(よし、折り合いはきっちりとついているわ。網走さんが今まで色々と教育してきたおかげかしらね。ペースはスローだし、不良馬場だから先行馬有利になるでしょう。だったら理想的な展開だわ。)
私は何もかもがうまくいきそうな予感を感じながらコーナーを回りきった。
向こう正面ではペースが落ち着き、前に行く馬も後ろに下がる馬もいなかった。
『先頭はユーウィルビリーヴ、2番手にはドーンフラワー。』
『中段には10番のトランクカレンと5番のゴールデンコンパス。』
『トランクプリンセスは後ろから3番手辺り。』
アナウンサーの声は、雨の中で札幌競馬場に響き渡った。
3コーナーに差し掛かっても私は仕掛けようとはせず、じっと折り合いに専念した。
「ここまでは完璧だ。ここから彼女がどう打って出るか見ものだな。」
「弥富さん、お願いします。私達はどうしても勝たなければならないんです…。」
相生先生と夜明さんはそう言いながら、私を見つめていた。
私には見えないけれど、3コーナーと4コーナーの間で、トランクプリンセス騎乗の逗子一弥先輩は仕掛け始め、それに連れられてまわりの馬達もペースを上げていった。
その中でも私は動かず、じっと我慢を続けた。
そしていよいよ最後の直線。
(さあ、行きなさい!新馬戦で見せたようなあのマッハの俊足を見せてやるのよ!)
私はそう思いながらスパートを開始した。
『先頭はまだユーウィルビリーヴ!2番手はドーンフラワー!トランクプリンセスはまだ後方のままだ!』
『トランクカレンが上がってきた!さらにはゴールデンコンパスも来る!』
『ユーウィルビリーヴ懸命に粘る!しかしドーンフラワー迫ってきた!』
『トランクプリンセスはどうした!?まだ上がってこない!』
『残り150m!ここでドーンフラワーが並んだ!』
『後ろからはトランクカレンとゴールデンコンパス!』
『残り100m!先頭はドーンフラワーに変わった!ユーウィルビリーヴは粘れるか!?』
『先頭はドーンフラワー!2番手は3頭並んでいる!』
アナウンサーは興奮しながら叫んだ。
(お願い!最後までこのまま行って!どうしても負けられないレースなの!)
私は死に物狂いでラストスパートを続けた。
スタンドでは相生先生も夜明さんも祈るような気持ちで私を見つめていた。
そこから先は私も何をしていたのかよく覚えていない。
ただ、早くこの馬がゴール板を通過してくれることを願っていた。
数秒後にドーンフラワーがゴール板を通過した後、我に返った私はゆっくりと馬をクールダウンした。
結果がどうなったのかまではよく分からなかったけれど、とにかく無事にレースが終わったことで、私はほっとしていた。
ただ、クールダウンを終えて引き上げ場に向かっている時、何やらスタンドや関係者エリアが異様な雰囲気になっていることに気付いた。
(あれ?もしかして私、すごいことをやってのけた…の?)
最初は結果をあまり考えていなかった私も、その光景を見ているうちに1着を取れたのかが次第に気になってきた。
すると急にもし負けたらどうしようと思うようになり、心臓がバクバクになる程のプレッシャーに襲われた(←今更?)。
「弥富さん、おめでとう!優勝ですよ!1着ですよ!!」
相生先生は拍手をしながら喜びを爆発させていた。
(えっ?私…、本当に勝ったんだ…。)
その姿を見て、私はこのレースで本当に1着になったことを悟った。
(でもこのレースは…、あれ?)
私はふとこれが何というレース名だったのか疑問に思った。
(まさか…、クイーンS?GⅢ!?重賞!!?)
そう思った途端、私はものすごいことをやってのけたんじゃないかと思えてきた。
「先生、私、本当に重賞を…!?」
「そうだ!見事な騎乗だった!100点満点だ!でかしたぞ!よくやってくれた!」
「私、勝ったんだ。本当に重賞を勝ったんだ…。夢じゃないんだ…。」
GⅢ、クイーンS優勝を確信すると、私の目からは思わず涙があふれ出した。
まわりにいた人達は次々と「おめでとう。」と言いながら、私を祝福してくれた。
(わたし、本当に重賞を勝ったんだ…。)
泣きじゃくる私は、近くにいた夜明さんも泣いていることに気付かないままだった。
レースは1着1番ドーンフラワー(3番人気)、2着5番ゴールデンコンパス(9番人気)、3着10番トランクカレン(13番人気)で確定し、かなりの波乱になった。
一方で1番人気の14番トランクプリンセスは13着、2番人気のユーウィルビリーヴは8着に沈んでしまい、5番人気以内の馬で5着以内に入ったのはドーンフラワーだけだった。
表彰式は雨の中で行われることになったけれど、その雨も天からの祝福のような気がして、私には超気持ちのいいものだった。
かたわらにいる夜明さんは、未だ塀の中にいる息子さんから受け取った手紙と、事故で亡くなった相手の人の写真を手に持ち、泣きながらそれらに向かって何かを語りかけていた。
こうして私には、重賞勝ちという新たな勲章が加わり、下克上をまた一つ達成することができた。
あのレースは本当に色々なことが重なった結果生まれたものだと思います。
私がこのレースを重賞という大舞台だということをいつの間にか忘れていて、プレッシャーを感じていなかったこと。
折り合いもピッタリで、スタミナをロスすることもなく、しかも1枠1番だったために最短距離で走り切れたこと。
人気の馬が総崩れになったということ。
正に、全ての要素が私に味方をしてくれました。
こんな幸運にも恵まれたおかげということもあるかもしれませんが、とにかくこのレースを勝てたことは、インビジブルマンで勝ったバーデンバーデンCに並んで、一生忘れられない思い出になると思います。
名前の由来コーナー その11
・ゴールデンコンパス(Golden Compass)(メス)… 映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」(原題:The Golden Compass)から取りました。僕のお気に入りの映画の一つで、英語のリスニング教材としてDVDを見ることがよくあります。なお、この馬名は「トランクバーク号物語」にも登場していますが、もう一度使ってみたくなったので、ここで使うことにしました。
・トランクカレン(Trunk Karen)(メス)… 「トランク」は冠名、「カレン」は僕がこれまでに発表した競馬作品に登場するキャラ「木野 可憐」から取りました。ちなみに馬名をつける時、すぐにアイデアが浮かばなかったため、即興でこの名前をつけました。
・トランクプリンセス(Trunk Princess)(メス)… 「トランク」は冠名、「プリンセス」は王女という意味で、これも即興でつけた名前です。
・ユーウィルビリーヴ(You Will Believe)(メス)… Mariah Carey & Whitney Houstonの歌う「When You Believe」という曲の「You will when you believe」という歌詞から命名しました。この曲の歌詞に励まされたことは過去に何度もあり、かなり気に入っています。