代打、弥富(前編)
夏競馬真っ盛りの8月。私は札幌競馬場にやってきた。
今週はここでクイーンS(GⅢ、芝1800m)が行われる。
そのレースには古馬に混じって、3歳のドーンフラワーが出走を予定していた。
当初、相生 初先生はこの馬については夏場を休養し、秋の秋華賞のトライアルであるGⅡのローズSで復帰を計画していた。
しかし馬主の夜明さんが
「そのレースではユーアーゼアやネバーゴナミスユーなどの有力馬が出走してくるでしょうから、厳しいレースになると思います。何とか別のレースにしてもらえないでしょうか?」
とお願いしてきた。
「ではオープン特別の紫苑Sはいかがですか?」
「それでは賞金が安過ぎます。私達はお金も必要ですから、より勝てそうなレースであるクイーンSにしていただけますでしょうか?」
「それでは馬に十分な休養を与えられず、負担をかけることになってしまいます。何とか1ヶ月待ってもらえませんか?」
相生先生はそう言って説得したが、どうしてもお金を稼ぎたい夜明さんは引き下がらなかった。
両者の意見はなかなかかみ合わずにこう着状態が続いていたが、最終的に相生先生が折れ、その後秋華賞に直行するという条件でクイーンSに出走することになった。
陣営にとってそのレースはどうしても負けられないだけに、割出 翼調教助手は坂路を多用して懸命に馬を調教した。
彼はドーンフラワーの札幌競馬場到着に合わせて現地入りし、馬の追い切りを行った。
クイーンS当日。私は2レースの2歳未勝利戦に騎乗して10着に敗れた後、3レースの3歳未勝利戦(ダート1700m)でザビッグディッパーに騎乗した。
この日は1レース前から雨が降り続き、芝、ダートともに重の状態だった。
レース前の稚内 平先生からの指示は
「スタートしたら1コーナーまでの直線で先行しろ。1コーナーに入ったら控え、最後の直線に向けてスタミナを温存しておけ。」
というものだった。
私はそのとおりにレースを進めていった。
(よし、うまくいっているわ。何としても私を起用し続けてくれた先生の期待に応えてみせる。そして、決して安くはないお金を払ってこの馬を購入してくれた父のために頑張ってみせる)
私がそう思っていると、ふと私の前を走っていた1頭の馬に故障が発生した。
乗っていた騎手はすぐに馬を止めようとしたが、馬がバランスを崩し、騎手が落馬してしまった。
(えっ?あの人は…?)
私はそう思いながらも、素早く交わし、その後は何事もなかったかのようにレースを進めていった。
最後の直線、私は外から懸命にザビッグディッパーをスパートさせ、見事に差し切り勝ちをおさめることができた。
「よっしゃああぁっ!!よくやったぞ伊予子!!」
関係者エリアにいた父は、私にも聞こえるくらいの大声で叫んだ。
「うむ。見事な騎乗だったな。我慢して起用してきた甲斐があった。」
稚内先生は笑みを浮かべながら私の方を見ていた。
(ふう~…。どうやらザビッグディッパーの未勝利引退は免れたわね。よかった…。)
私もこの馬に未来を見せてあげたいと真剣に考えていただけに、馬をクールダウンさせながら、心からほっとしていた。
ただ、着順掲示板には審議の表示が灯り、間もなく5番の馬が馬体に故障発生したことに関して審議を行いますというアナウンスが流れた。
(えっ?5番の馬って、鞍上は網走騎手じゃない!)
私ははっとしてアクシデントが起きた現場を見た。
すでにその場所には何人もの人が集まっていた。
馬は4本の脚の1本を上げており、見るからに重傷だった。
一方、網走騎手は人影に隠れてよく分からなかったが、雰囲気からしてそんなにおおごとではなさそうだった。
ただ、すでに担架が運ばれており、軽症というわけでもなさそうだった。
(網走さん、大丈夫かしら…。馬も助かるかどうか心配だけれど…。)
私は何とも言えない不安を感じながら引き上げ場に向かっていった。
「よくやってくれた!伊予子!」
父は大喜びで私にそう言ってくれた。
着順掲示板はまだ審議の表示が出てはいたが、すでに1着から5着までの馬番と着差は出ているし、ザビッグディッパーは被害馬でも加害馬でもないので、父は勝利を確信していた。
「うん…。でも網走さんが…。」
私は自分の勝利よりも、事故の方が気になっていて、とても喜ぶ気にはなれなかった。
「まあ、馬はかわいそうかもしれんが、騎手ならきっと大丈夫だ。お前は胸を張ってザビッグディッパーを祝福してやれ。」
「はい…。」
私は心の中では動揺が静まらないままだったけれど、笑顔で雨の中での記念撮影に望むことにした。
その後、レースは着順通りに確定した一方で、馬は馬運車に、網走騎手は救急車に乗せられて運ばれていった。
3レース終了後、関係者エリアは網走騎手が乗る予定だった残り7つのレースに、誰が騎乗するかで慌ただしくなった。
この日、私は2レースと3レースしか騎乗予定がなかったので、本来ならこれでお役御免だった。
(それでももしかしたら、私に依頼が来るかもしれない。心の準備はしておこう。)
私は調整ルームに向かって歩きながら、そのように考えていた。
その後、しばらく待っても何の話も来なかったので、私はもう騎乗依頼はないのではと思い、父と合流しようと考え始めた。
すると、扉の向こうから
「弥富さん!弥富さんはいますか?」
と言う声がした。
声の主は赤嶺君だ。大急ぎでここまで来たのだろう。少し息が切れていた。
話の相手は「ええっと、彼女は確か…。」と言いながら、私がどの部屋にいるのか探し始めた。
「私はここです。」
私はそう言うと、声のした方に向かい、扉を開けた。
「あっ、弥富さん。相生先生が呼んでいましたよ。外で待っていますので、急いで行ってください。」
赤嶺君は私を見るなり、そう言ってきた。
「分かりました。連絡ありがとう。」
私はそう言うと、急いで外へと向かっていった。
「弥富さん。早速本題に入るが、この後に行われるクイーンSで、網走騎手に代わって君に乗ってもらおうと思っている。」
相生先生は私の顔を見るなり、そう言ってきた。
「えっ?そのレースで網走さんが乗る馬って、確かドーンフラワーですよね。」
「そうだ。その馬の騎乗を君にお願いしたい。急な話だが、了解してくれるか?」
「ええっ!?」
私は予期せぬ言葉に驚き、すぐに返事ができなかった。
「まあ、そう言うのも無理はないだろう。しかし君はドーンフラワーについて熱心に勉強しているし、網走君以外では君がこの馬のことをよく知っている。だから君に託してみようと思った。もう一度聞くが、了解してくれるか?」
「本当に、私でいいんですか?」
「ああ。僕は網走君がケガをした時から君に頼むつもりだった。まあ、夜明さんから了解を得るのに時間がかかったから、すぐに依頼にこぎつけられなかったがな。」
先生は完全に私を信用してくれているようだった。
「分かりました。ぜひやらせてください!全力でドーンフラワーの力を引き出し、優勝に導いてみせますっ!」
私は動揺を振り切り、力強く言い切った。
「分かった。頼んだぞ!」
先生はそう言いながら、私の肩をポンとたたき、ドーンフラワーのもとへと戻っていった。
(よおし、やってやるわ!網走さんには申し訳ないけれど、こんなビッグレースに乗れるチャンスがやってきた。絶対に勝って、先生や夜明さん、そして網走さんに勝利の報告をしてみせる!)
私は心の中で力強くそう叫びながら、調整ルームの自分の部屋に入っていき、11レースの集合がかかるまでの間、作戦を練ることになった。
(後編に続く)
このレースで落馬した網走騎手は、何ヶ所かを打撲したものの、骨折は免れることができました。
しかし大事を取って今週、来週の騎乗は取りやめることになったそうです。
なお、故障を発生した馬はたとえ助かっても未勝利戦がなくなるまでに復帰が不可能になったため、引退となりました。