甘えは許さない
夏競馬が始まると、4歳馬の本賞金が変わり、多くの条件馬は下位条件に降級となった。
通算14戦2勝で、本賞金900万円のクリスタルリングも1000万下から500万下に降級となった。
「ここがチャンスだな。次のレースで勝ちにいくぞ。」
相生 初先生は降級をチャンスと捉え、威勢のいい声で私に言ってきた。
「はいっ!きちんと調教をしてこの馬を仕上げ、絶対に勝ちにいきますっ!」
私も気合いを入れて応えるとともに、クリスタルリングの世話に励んだ。
この厩舎には今年入厩してきた弟のクリスタルロードもおり、私はこの馬の調教や世話も担当していた。
ある日、この2頭が坂路で併せ馬を行うことになった。
姉のクリスタルリングには私が乗り、弟のクリスタルロードには調教助手の割出翼さんが乗ることになった。
「それじゃクリスタルロードが2馬身先行した状態から調教を開始する。馬の能力からすれば、ゴール付近で並ぶはずだ。だから2人とも全力で馬を走らせるように。」
「分かりました。精一杯逃げます。」
「私は後ろから精一杯追っていきます。」
相生先生に向かって、割出さんと私は元気よく返事をした。
そして言われた通りの位置から、2頭の調教が始まった。
(さあ、精一杯追うのよ。相手があんたの弟だからって手加減してはだめよ。レースも近いんだから、しっかりと差し切りなさい!)
私は途中からムチを入れ、手綱をしごきながらクリスタルロードを追った。
一方の割出さんも抜かれてたまるかとばかりに懸命に逃げ続けた。
そしてゴール前に私が乗るクリスタルリングが追いついた。
(あと少しよ!情けは無用!追い抜いてしまいなさい!)
私は馬をムチで叩き、少しでも先生に良い報告ができるように頑張った。
調教後、先生は不満気な表顔をしながら私のところにやってきた。
「弥富さん、先程の調教だが、結局2頭が並んでゴールをする形になってしまった。直前までは十分にクリスタルロードを差し切れる勢いだったが、あと一押しはできなかったのか?」
「私も一切手抜きをせず、全力で追いました。ただ、クリスタルリングが『相手が弟だから。』という理由で何か手抜きをしてしまうようなんです。ちょっと言い訳がましく聞こえたらすみませんけれど…。」
「そうか…。タイムを計測した野辺山高子さんも『多分バテたわけではないと思いますが、どうもクリスタルロードと併せ馬をすると、最後でクリスタルリングのタイムが落ちる傾向がありますねえ。』と言っていたしな…。」
先生はそう言うと、腕組みをしながら考え込んでしまった。
「先生、やっぱり姉弟が一緒に調教したのがいけなかったのでしょうか?」
「…かもしれんな。それにこの2頭は普段から一緒にいたがる傾向がある。まあ、血縁関係のある2頭だし、その気持ちは分からなくもないが、勝負の世界である以上これはいかんな。」
「先生、どうしましょう?このままでは2頭で足の引っ張り合いになってしまうかもしれませんが…。」
「まあ、今度のクリスタルリングのレースを見た上で考えることにしよう。君はきっちりと馬を仕上げておいてくれ。」
「はい、分かりました。」
私は迷いを振り切り、今度のレースについて考えることにした。
クリスタルリングは函館競馬場で行われた登別特別(500万下、牝馬限定、芝1200m)に出走した。
単勝倍率は2.5倍で、10頭立ての1番人気だった。
(さあ、頑張るのよ!クリスタルロードと一緒に走った時のように遠慮をするようなら、先生はあんたを転厩させるとまで言い出しているんだから、覚悟しなさい!)
すっかり1番人気のプレッシャーにも慣れてきた(500万下条件だけれど)私は、レースでこの馬の実力を全て出し切るつもりだった。
6枠6番のクリスタルリングはスタートこそやや出遅れ気味だったが、私は慌てることなく落ち着いてレースを進めた。
向こう正面では後方7、8番手にいたが、コーナーでは内ラチ沿いを走りながら、コーナーワークを利用して上がっていった。
そして最後の直線。多くの馬達が横に広がった。
「先生、内ラチ沿いは馬の足跡がたくさんあるので、不利かもしれませんが、大丈夫でしょうか?」
父、根室那覇男は相生先生に向かって問いかけた。
「まあ、彼女の実力を信じるまでです。最近は乗るレースも増え、実力もついてきていますから。」
先生は私の方を見つめながら言った。
そんな中、私は坂路での併せ馬よりもさらにムチを振るった。
そしてゴール前で先頭に並び、後は馬達の勝負根性比べとなった。
(ここで弟と走った時のように手抜きをしてはだめよ。もしそんなことをしたら転厩も有り得るからね!それが嫌なら死ぬ気で走りなさい!)
私が鬼のような形相でクリスタルリングをスパートさせた。
その甲斐もあったのだろう。クリスタルリングは際どい勝負を制し、クビ差で歓喜のゴールに飛び込んだ。
「おおっ!伊予子やったぞ!見事に1番人気に応えたぞ!」
父は大喜びで私とクリスタルリングを見つめた。
「さすがだな。よくやった、弥富さん。」
相生先生は拍手をしながら、安堵の表情でつぶやいた。
(クリスタルリング、良かったね。これでこれからもクリスタルロードと一緒に厩舎で過ごせるわ。でも、これからは弟と一緒の調教は無しよ。さらには馬房も離すし、なるべく一緒にならないようにするつもりだから、その点だけは覚悟して。ここは勝負の世界なんだから。)
記念撮影の時、私は馬にまたがりながらそのようなことを考えていた。
姉弟が一緒の厩舎にいる。
それは元々、父である根室那覇男がこの方が相乗効果で馬が走ってくれると思い、このようにお願いした結果です。
でも、現時点ではそれが凶と出ているようです。
実は、父はクリスタルリングが転厩の危機にあったことをこのレースまで全く知らないままでした。
もしこのことを事前に知っていたら余計なプレッシャーを感じながらレースを見ていたでしょうけれど、結局勝ったから知らぬが仏で済みました。
私としてはその点でも本当にほっとしました。
なお、クリスタルロードは姉頼みのクセが抜けるまで、デビューがお預けになりました。