小野浦君
この章から小野浦君の下の名前が登場します。
その際、セリフでは「小野浦君」と言っているのに対し、解説文では下の名前になっています。
これは1年前の私が彼を名字で呼んでいたのに対し、今は下の名前で呼んでいるためです。
また、この章において、私が地声で会話をする時には「 」表記、jPad越しに会話をする時には『 』表記になっています。
年が明け、世間の正月休みが終わる頃に病院を退院した私は、薬を飲みながら自宅療養をすることになった。
一時は全く出なかった私の声は、懸命なリハビリのおかげで少しずつ出るようになった。
でもまだひどい風邪をひいた時のような、かすれたような声しか出ず、しかも正確に発音ができないため、相手からは何度も聞き返されるはめになった。
そのため、会話は主に父、根室那覇男からもらった「せんせえ」や「jPad」を使っていた。
ある日。私が発声練習を兼ねて母や弟と懸命に会話をしていると、「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。
「あら?誰かしらねえ。」
母が玄関に行こうとすると、私は「ばっで(待って)。」と言って、制止した。
「ああ。姉貴の彼氏か。」
「ぢがうばよ(違うわよ)!」
私は怒るような口調で弟に言うと、jPadを持ちながら玄関に歩いていった。
そしてドアを開けると、そこには小野浦 熱汰君がいた。
「やあ、ヤト。久しぶりだな。だいぶ元気になってきたみたいだな。」
『小野浦君、こんにちは。まだ治療の最中だけれど、外を歩くくらいはできるようになったわよ。』
「じゃあ、今日一緒にお出かけしても大丈夫かな?」
『いいわよ。あまり動き回らなければね。今から出かける準備をしてくるわね。』
「うん、分かった。」
「ぢょっどばっでで(ちょっと待ってて。)」
私はかすれた声で言うと、常備薬をかばんに入れて、再び玄関に戻ってきた。
熱汰君はまず自身の趣味でもあるカラオケに行かないかと提案してきた。
『えっ?カラオケ?私まだ声が十分に出ないのに。』
「だからこそ行くのさ。君のリハビリにも役立つと思ってさ。」
『でも私、まともに歌えないわよ。』
私は思いもよらない提案をされ、とまどってしまった。
「雰囲気を楽しんでくれればいいよ。お金は僕が払うから。」
「でぼ(でも)…。」
「ついでに昼ご飯代も払うからさ。」
『まあ、小野浦君がそう言うのなら…。』
私は迷った末に、熱汰君に押される形で同意した。
以前から私を何とか元気付けたいと考えていた熱汰君は、自分が落ち込んだ時や、他人を元気付けたい時のための歌を歌ってくれた。
それを受けて、私もしゃがれた声で自分を励ましたい時によく聞いていた歌を歌った。
彼は時に洋楽も歌ったが、私には歌詞の意味が全然分からないため、とりあえず熱唱する彼の雰囲気を感じ取ることにしていた。
何曲か歌った後、熱汰君は
「もうそろそろ12時だから、昼ご飯でも注文して一緒に食べないか?お金なら僕が払うからさ。」
と提案してきた。
『本当にいいの?』
「うん。今日は君に元気になってもらおうと思っていたから。」
『でも。小野浦君、生活厳しいのに。』
私は彼の金銭状態をよく知っていて、お金なら私の方が持っているだけに、恐れ多い気持ちになってきた。
「気にするなって。君が明るさを取り戻し、笑ってくれるのなら、それでいいよ。」
『じゃあ、今回は頼ってみるわね。』
私は少し迷いながらも、彼の意見を受け入れた。
ところが料理が届いた途端、熱汰君はウケ狙いの歌を歌うようになった。
私は思わず吹き出してしまい、なかなか食べることができなかった。
『ちょっと!私に食べさせない気なの?』
「…そのつもりなんだけど…。」
熱汰君は言い訳がましい口調でそう言ってきた。
「らによぞれ!がらがわらいでよ!(何よそれ!からかわないでよ!)」
私は笑いながら、そして怒りながら熱汰君に詰め寄った。
「あっ、笑ってくれた。良かった、そんな表情が見られて。」
熱汰君は反省もせずに笑いながら言ってきた。
どうやら私を笑顔にさせるためにこんな荒業に出たのだろう。
(んもーー、こうやってギャグに走るのは昔から変わっていないんだから。)
私は彼のこんな性格に半ばあきれながらも、昔の明るい彼が戻ってきたような気がして、何だか嬉しくなった。
思えば、私は長い間彼の笑っている表情を見たことがなかった。
熱汰君は騎手2年目(今から2年半前)に所属厩舎が閉鎖となって以降、騎乗回数がめっきりと減り、なかなか勝てなくなってしまった。
それがさらに騎乗を減らすという悪循環に陥り、ますます勝てなくなった。
そして2年前の11月。関係者の人から
「お前の努力が足りんからこうなったんだ。悔しかったら努力して名誉挽回してみろ。」
と冷たく言い放たれたことにキレてしまい、
「うるせえ!てめえなんかにこの気持ちが分かってたまるか!」
と言って暴行に走ってしまった。
彼が暴力を振るったのはその1回だけだった。
しかしその事件がマスコミに報道されると、彼はネットでの偽情報に振り回された世間の人から暴力常習犯として認識されてしまい、猛烈なバッシングにさらされてしまった。
彼が頭を丸めて反省し、謝罪したが、それでもネット上での騒ぎは収まらず、彼の名前が出る度に記事の下に出てくる掲示板には
「ああ、あの暴力常習犯で有名な?」
「今日は誰を殴ってんのかなあ?」
という風評が飛び交い、心無いコメントが踊り続けた。
その度に熱汰君の心は傷つき、死にたいとすらもらすこともあった。
私は何度も彼を助けたくなった。しかし、何かしようとすれば自分まで巻き込まれてしまうことは目に見えていたため、結局何もできなかった。
結局誰の助けも得られず、名誉挽回の機会も与えられないまま、失意の底で競馬界から去っていく彼を見守っていくことしかできなかった。
その後も、彼はまわりの人達から冷たい目で見られ、何とかして汚名を返上したいという思いから、決死の覚悟で「クビを宣告されたジョッキーたち」に出演した。
そこで真実を知った人からは、放送後に励ましの言葉をもらうこともあった。
しかしそれでも「でしゃばるな!この暴力男!」などと、批判をされることがあった。
私は、そんな辛い日々を過ごしてきた熱汰君を助けたいという気持ちがずっとあっただけに、彼がこの場で笑ってくれて、昔の明るい姿が戻ってきてくれたことが嬉しかった。
(小野浦君はずっと私を元気付けようとしていたけれど、どうやら他人を元気付けることで、当の本人も元気付くのかな?)
私はそう思いながら、その後もガラガラ声で歌を歌い続けた。
カラオケが終わった後、私と熱汰君は喫茶店でコーヒーを飲みながらこれからのことについて話し合った。
「それでさ、ヤトはこれからどうするつもりなんだ?」
『分からない。父はクリスタルリング、クリスタルロード、ミラクルシュート、ザビッグディッパーに乗れるように厩舎の人に頼んでおくとは言っていたけれど。』
「へえ。優しい親父さんだな。いいなあ、こういう時に救いの手を差し伸べてくれるなんて。僕とは大違いだな。」
熱汰君はさっきまでとは変わって、寂しそうな表情で言ってきた。
彼は家族には頼れず、自分で何とかするしかない立場だけに、何だかかわいそうに思えた。
「そう言えばさ、クリスタルリングとクリスタルロードの母親って、ダイヤモンドリングだよな。」
「ぞうよ(そうよ)。」
「確か、ダイヤモンドリングも君の親父さんの所有馬だったよな。」
『そうよ。今は生まれ故郷の道脇牧場で繁殖牝馬になっているけれど。』
「だったらさ、一度その牧場に行って、その馬に会ってみないか?今のヤトなら時間もあると思うし。」
『えっ?北海道まで?』
「うん。寒いとは思うけれど、行けば何か学べるものがあると思うからさ。」
『うーーん。』
「まあ、家に帰ったら家族に話してゆっくり考えてみなよ。もっとも、君が元気になればの話だけれどな。」
『そうね。家に帰ったら、母や弟に話してみるわ。そしてリハビリをして早く遠出ができるようになってみせる。』
私はコーヒーを飲み干すまでの間、熱汰君と色々なことを話し合った。
現役を続けるのか、どうするのかについては何とも言えないままだったけれど、熱汰君はどんな時でも私の意見を支持してくれることを約束してくれた。
そして、もしも職がなくなった場合はナゴヤドームでのアルバイトを紹介してくれることになった。
私も熱汰君の風評を解き、彼が少しでも幸せになれるよう、できることがあれば協力することを約束した。
家に帰った後、私はダイヤモンドリングに会いに北海道の道脇牧場に行きたいことを母と弟に打ち明け、父にもメール越しに伝えた。
彼らは医師からの許可が出ることを条件に賛成してくれて、父は旅費を負担してくれることになった。
それ以降、私はリハビリにもさらに熱が入るようになった。
小野浦熱汰君はまだ騎乗依頼に恵まれていた頃、ギャグやお笑いネタに走ってはみんなを笑わせ、場を盛り上げてくれる人でした。
時にそれは大人らしくない、幼稚な姿にも見えましたが、それでも私は彼に何度も元気付けられてきたため、恩人でもあります。
しかしまわりからの冷たい扱いによって人生が狂い、性格をすっかりねじ曲げられてしまいました。
私自身、あんなに明るく楽しい人間だった彼が暴力常習犯のレッテルを貼られ、風評に苦しめられる姿を見るのが辛かっただけに、彼の笑顔を見ることができて嬉しかったです。
人はまわりの人達の影響で、幸せにも不幸にもなります。
読者の皆さんも自分の取っている態度で、他人を果たして幸せにできているのか、ちょっと考えてみてはいかがでしょうか?
名前の由来コーナー その8
・熱汰… 愛知県名古屋市にある「熱田神宮」から命名しました。織田信長が桶狭間の合戦に出向く前にここで戦勝祈願し、奇跡の大勝利をおさめたことにあやかっています。このキャラは「クビを宣告されたジョッキーたち」で初登場したため、それにちなんでクビを宣告された駅名から名字を決めました。しかし、後になってまずいことをしたなあと思ったため、縁起がよくて下克上にも通じるような単語を下の名前に選びました。