再び引退危機へ
阪神JFの翌週、私は中京競馬場で騎乗することになった。
土曜日には2鞍に騎乗し、最初は9着だったが、次の騎乗で1着を取り、今年4勝目を挙げることができた。
(これで通算13勝目ね。ローカル開催があるうちに何とか勝利数を稼げるように頑張ろう。)
私はそう思いながら馬のゼッケンを持ち、写真撮影をした。
この日のレースが終わった後、翌日に朝日杯フューチュリティーS(GⅠ)に騎乗を予定している網走騎手や逗子騎手、さらには短期免許で来日しているベニー騎手達は慌ただしく荷物をまとめて、阪神競馬場へと移動していった。(※朝日杯FSは2014年から阪神競馬場での開催になります。)
(あの人達は本当に忙しそうね。今日、愛知杯を含むたくさんのレースに騎乗して、終わったら即新幹線で移動して…。体もつのかなって思うけれど、でもそれだけ頼られているってことだし、私もいつかはこういう人にならなければ…。)
騎手の世界は両極端なもの。頼られれば息つく間もない程忙しく、負けたらみんなから色々非難されるようになる。
一方で、頼られなくなれば非難されなくなる代わりに誰からも必要とされなくなる。
そんな2つの道が待っている世界だけれど、忙しい方のイバラの道にならなければと、私は思った。
翌日、私は2歳500万下でドラゴンポンドという馬に騎乗することになった。
先月、私が乗って勝利を挙げたこともあり、馬主さんも調教師さんも再び騎乗依頼をしてくれた。
私自身、今日の騎乗予定はこれだけということもあって、このレースに全てをかけるつもりでいた。
「いいか。中京は最後の直線で坂がある上に、直線の距離も長い。先行した馬の動きに惑わされずに、道中は中段に待機して勝機をうかがってくれ。」
ドラゴンポンドの調教師さんは、そう私にアドバイスをしてくれた。
「分かりました。道中は控えながらじっくりと機会をうかがいます。」
私はコクリとうなずきながら返事をし、パドックへと向かっていった。
ドラゴンポンドはものすごく気合いが入っていて、状態は申し分ない状態だった。
レースではピッタリと折り合いもつき、これ以上ない展開となった。
(よし、これなら勝てそうね。勝てばこれでオープン入りだから、来年のクラシックに向けて明るい材料ができるわ。)
私は中段でじっくりと脚をためながら、ひたすらスパートの機会を待った。
そして最後の直線。私は坂の手前で一気にスパートを開始した。
ドラゴンポンドは一頭だけ早送りをしているかのように、一気に加速していった。
自分の乗っている馬が他の馬をゴボウ抜きにしていく光景は本当に爽快で、気持ち良かった。
レースは大外から伸びたドラゴンポンドがゴール前で先頭に立ち、そのまま押し切ることに成功した。
(よし!やったわ!2日連続で勝てた!)
私は心の中で叫びながら、右手を高く上げようとした。
するとその時、自分の体が左にグラッと傾いていった。
(えっ?何?故障?)
私ははっとしてドラゴンポンドを止めようとした。
一方、馬の方は倒れてたまるかとばかりに何とか踏ん張ろうとしていた。
しかし急に暴れるようにして斜行を始めたため、私はその動きについていけず、両手が手綱から離れてしまった。
一瞬、体が宙に浮いたような感覚の後、私はドサッという音とともに、頭に強い衝撃が走った。
私は何が何だか分からないまま、激痛の中で意識を失っていった…。
…それから何が起きたのかは…、全然覚えていない…。
気がついた時、私はベッドの上にぐったりと横たわっていた。
体はあちこちがむち打ち症になったように痛くて、特に頭には何とも言いようのない痛みがあった。
一体何がどうなってこうなったのか分からずにいると、かたわらから
「弥富さん、気がつきましたか?」
「よかった、伊予子。無事で。」
と言う女性と男性の声がした。
私はもうろうとする意識の中で、視線を2人の方に向けた。
女性の声の主は病院の看護師さん、男性の方は何と父、根室那覇男だった。
(えっ?来て…くれたの?名古屋で…仕事でも…していたの?)
私はそう思いながら「お父さん」と一言言った。
しかし、父と看護師さんはそれに気付いていないようで、逆に父から「どうしたんだ?何か言おうとしたのか?」と言われてしまった。
(えっ?聞こえなかったの?)
私は頭がズキズキ痛む中で、もう一度父を呼んでみた。
だが、それでも口が少し動いただけのように見えたのか、再び父から「何か言ってくれよ。」と言われてしまった。
(これでも聞こえてない?それとも…?)
そう思った私は焦る気持ちを抑えてしばらくベッドでじっとしていることにし、落ち着いてから会話をしようとした。
しかし、何度父と会話をしようとしても、言っていることが伝わらなかった。
父からは「言いたいことがあるなら、黙ってないで話してくれ。」と言われるばかりだった。
そうしているうちに私は段々自分の置かれた状況が分かってきた。
(まさか…。声が…、声が出ない…。)
そう思った途端、顔が青ざめていき、大変なことになってしまったことを自覚した。
しばらく様子を見ていた看護師さんもそれに気付いたのか、
「那覇男さん、ちょっと廊下に出ましょう。」
と言って、父に外に出るように催促をした。
(待って…。)
私はそう言いながら2人を呼び止めようとした。しかしやはり振り返ってはくれなかった。
そして彼らはそのまま病室の外に出ていってしまった。
(うそ…。うそよこんなの!声が出ないなんて…。嫌…。こんなの嫌…!)
私の目には次第に涙があふれ出した。
そして大きな声をあげて泣こうとしたが、それすらも声になっていないのか、耳には自分の息遣いが聞こえるばかりだった…。
数分後、再び扉が開き、父は明らかに動揺した表情をしながら看護師さんとともに現れた。
「伊予子…。まさか、こんなことになるなんて…。」
どうやら声が出なくなったことを告げられたのだろう。
「とにかく、涙を拭きましょう。すでに枕がかなりぬれていますから。」
看護師さんは必死に落ち着きながらきれいな布を取り出し、私の涙を拭いてくれた。
しかし、涙は次から次へとあふれ続け、枕をさらにぬらしていった。
声が…出ない…。
こんな状況で、これからどうすればいいのか…。
受け入れがたい現実を突きつけられた私は痛みと悲しみの中で、途方に暮れるばかりだった…。
終わった…。これで騎手引退になるんだわ…。たった14勝で…。
これが、声が出なくなった時の私の偽らざる気持ちです。
これまで色々な試練にぶつかりながら何とか耐えてきましたが、こればかりはもう無理と思いました。
正直、心の中ではこれまで散々嫌がってきた引退を、この時は素直に受け入れたくなりました…。