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ゴーストシップYAMATO

作者: 竹内 昴

序章 鉄の花が咲く

クレの朝は、かすかな油の匂いがする。

 造船所のとびが空を切り、巨大な船体の側面を、春の光がゆっくりと撫でていく。新造艦の名は、まだ口の端では濁された。「大」の字も「和」の字も、作業台の上ではただの記号だった。


「おい、慎重にな。そいつぁ、国の面子めんつだ」


 リベット打ちの古参が言った。鉄板の合わせ目が白く光り、打音が腹の底に響く。若い工員は汗を拭きながら、くぐもった誇りと、不意に胸をよぎる不安を同時に抱いていた。

 この艦に寄せられた願いは、鉄の厚みよりも重い。だが願いは重さをもたぬ。夜になると、彼らの夢の上を鈍色の影が横切り、波音だけが残った。


「名前、ほんとは言っちゃならんが……」


 古参は言いかけて口を噤むと、代わりに空を見上げた。

 空は高く、春の雲は薄かった。その雲の上を、見えない誰かの影が通り過ぎたような気がした。


 鉄は冷たく、火は熱く、海は黙っていた。

 巨大な鉄の花は、こうして咲いた。


第一章 出撃のとき

1 兵舎の朝


「起床——っ!」


 金属板を叩く音が兵舎を震わせる。春の湿気が敷布の綿を重くして、掛け声はやけに遠く聞こえた。

 上等水兵の加瀬は、枕元の紙片を握ったまま飛び起きた。昨夜、消灯ラッパの後まで書いていた手紙の続きだ。

 ——母さん、俺は元気です。元気でなくては怒られるので、元気です……。


「加瀬、顔洗え。目が腐るぞ」


 同年兵のさかきが笑って言った。顔は日に焼けているのに、笑うと子どもみたいに目尻が下がる。


「腐るほど寝てないっての。きょう、だろ?」


「きょう、だな」


 二人は言葉を重ねるのを避けるように、洗面桶の冷たい水に顔を突っ込んだ。水面の向こうで、船の影が揺れた気がした。

 桶から顔を上げると、軍属の伝令が通り過ぎ、大声で訓示の時間を告げていく。兵舎の外では、既に補給の列が動き出している音。油と麻縄の匂い。

 小さな町の朝と大差ないのだ、と加瀬は思う。ただし、ここには帰り道がない。


2 誰にも見えない手


 艦へ向かう列の中で、榊が囁いた。


「なあ、加瀬。昨日、見たか?」


「何を」


「艦橋の上、誰もいないはずなのによ。白い帽子の人影が一人、欄干んとこに立って、海の方を見てたんだ」


「お前の悪い癖だ、縁起でもない」


「縁起でもありゃしねえさ。ただ……誰かが見てる気がした。ほら、あの、帰り道のない旅ってやつを」


 榊は軽く笑って、背嚢の紐を握り直した。

 加瀬は応えず、胸の内で別の「誰か」を思い浮かべた。昨日のうちに書いた手紙の宛名——妹の名だ。彼女は、字がまだ幼い。読み返したら、さようならに似た言葉が行間に滲んでいる気がして、紙片を胸嚢の奥にしまい直した。


3 艦内


 甲板は朝の金属光を跳ね返し、艦は低い喉鳴りのように振動していた。

 機関科の古橋一等機関兵は、いつも通り機関室の熱に身を晒している。顔に汗を伝わせながら、計器を見つめ、耳だけを遠くに伸ばすようにして艦の声を聞く。


「古橋。お前の家の坊は今ごろ何してる」


「餅を欲しがる時分は過ぎた。背丈はどうだろうな」


「親父に似りゃでかくなる」


「似てほしくはないな。でかいと狙われる」


 二人は乾いた笑いを一つ交わすと、すぐに計器に目を戻した。

 機関室では笑いは瞬きのようなものだ。長く続ければ痛い。

 艦は、どこか遠いところで、別の鼓動と重なっていた。水圧。蒸気。鉄の伸び縮み。

 古橋は時折、耳の奥に「呼ぶ声」を聞く気がしていた。機械の音が、人の声に擬態することは珍しくない。

 しかし、このところは、まるで海そのものが低く名を呼ぶ——そんな気配があった。


4 配膳所


「おかわり、もう一杯!」


「馬じゃないんだ、ほどほどにな。……って、お前は馬みたいなもんか、榊」


「馬以下だよ。片道しか走らん」


 飯盒の湯気に包まれ、配膳所はいつものにぎわいを見せていた。人生の最後の朝食であっても、腹は減る。

 加瀬は黙って麦飯を掻き込んだ。榊は噛みしめるたびに眉をしかめる。


「何だ、石でも入ってるか」


「いや……歯が鳴る。寒いわけじゃないのにな」


「恐いか」


「恐い。けどよ、恐いって言葉を口にすると、少しだけ、形が決まる。だから言っときたい」


 配膳係の下士官が聞こえないふりをして、味噌汁の銚子を傾ける。

 どこかで鍋の蓋が鳴り、その音が思いの外、長く尾を引いた。

 榊は湯気の中に顔を伏せて、小さく囁いた。


「帰ったら、母ちゃんの味噌、また舐めさせてくれよ」


「帰ったら、な」


 二人は目を合わせなかった。感情は、艦内の規律よりも早く伝播する。


5 出撃


 汽笛が鳴り、港が遠のく。

 甲板に立つ者は、誰もが何かを見ないようにしていた。

 見れば、目に焼き付く。

 見なければ、ずっと心に残る。

 人はどちらにせよ、背負うのだ。


 艦長は短い訓示をした。

 声は低く、よく通った。内容は決まりきっているが、その間に挟まれた一拍の沈黙こそが、乗組員の胸に突き刺さった。


「各員、任務に就け」


 言葉はそれだけだ。

 艦は、長い長い息を吐き、瀬戸内の穏やかな水面を切っていった。

 見えない手が、艦の背を押した。見えない手が、港の人々の胸を掴んだ。

 桜は散り始めていた。


第二章 死闘の海(前半)

1 空の群れ


 昼近く、先触れの飛行警報が艦を走った。

 見張り員の叫びは風に千切れ、それでも甲板の誰の耳にも届いた。

「敵機——多数——!」

 多数、という言葉が、人の喉を砂にする。数は意味を失い、ただ群れの影が空を塞ぐ。


「射界——よし! 安全装置、外せ!」


 高角砲が唸り、弾倉が喰い込む金属音が艦全体を震わせた。

 加瀬は弾薬庫と甲板の往復を任され、腰にロープを巻いて走った。走るたび、甲板が斜めに軋む。

 彼はふと、甲板の先に白い影を見た。

 風に翻る白。軍帽のようでも、布きれのようでもある。

 瞬きの間に幻は消え、現実が迫る。

 現実はいつも、見間違いよりも跡を残す。


「榊、行けるか!」


「行ける!」


 榊の目は笑っていなかった。だが、笑いの形を知っている目だった。


2 機関室の祈り


 機関室は戦闘のたびに別の地獄になる。

 熱は呼吸になり、油は血潮になり、人の声は喉の奥で黒い。

 古橋は計器を見た。針は跳ね、やがて落ち着いた。

 ——いい子だ、と古橋は心の中で呟く。

 鉄に性別はない。だが、人は鉄に性格を与える。鉄は、時にそれに応える。


「古橋、冷却系、圧が……」


「分かってる。耐えろ」


 耐えるのは、人か、機械か。

 機関室の奥で何かが破裂する音がし、古橋の耳鳴りが世界を白くした。

 白い——

 その白は、真夏の入道雲か、冬の吐息か、服の色か。

 縄の先で、誰かが呼んでいる気がした。


3 海と火


 空が裂け、海が跳ねた。

 爆弾は甲板を抉り、鉄の花を逆さに咲かせた。

 高角砲の周りで動いていた人影が、次の瞬間には動かない物に変わることがある。

 榊が叫んだ。


「加瀬——!」


 加瀬は振り返る。榊の頬に煤がついていて、笑っているように見えた。

「お前、生きてるか!」

「生きてる!」

 彼らは短い会話に生存を押し込み、すぐに次の弾薬箱へと手を伸ばした。


 航空機の影が交錯し、魚雷の白い筋が海に絵を描く。

 艦は避ける。避けきれないものもある。

 衝撃が艦腹を叩き、内臓ごと揺らすように振動がくる。

 人は耐える。機械も耐える。——その区別が、境を失っていく。


4 甲板の幻


 騒擾そうじょうのただ中、加瀬は、再びそれを見た。

 艦橋の影の、さらに上。風が渦を巻いている。

 白い帽体。白い手袋。白い袖口。

 その人物は、こちらを見ていた——ような気がした。

 時間の厚みが一瞬、薄くなる。記憶と現在が重なる。

 誰かの視線を確かに感じるのに、そこには誰もいない。


「おい、加瀬!」

 現実が腕を引く。

 加瀬は頷き、弾箱を抱え直した。

 幻は避けられない。だから、置いていく。

 置いていったものは、夜に追いついてくる。


第二章 死闘の海(後半)

5 被弾の連鎖


 空は数を増した。影は影を呼び、音は音を連れてくる。

 艦の腹を叩く衝撃は、やがて一定の間隔を失い、予感のない痛みに変わった。

 鋼板が歪む音、誰かの名を呼ぶ声、海水と油が混じった匂い——それらが一度に胸へ押し寄せる。


「加瀬、急げ!」

 榊が手信号で先を示す。

 弾庫の口は湯気のように煙り、弾丸の肌は熱い。

 甲板を滑るように走ると、加瀬はすれ違いざまに一瞬、目を疑った。

 ——白い袖口が、榊の背中に触れた。

 風だ、と加瀬は心で言った。

 風にしては、あまりに温度があった。


 高角砲の咆哮に、空は一瞬だけ穴をあける。銃座の若い兵が吠え、すぐに咳き込む。

 榊は振り返って笑った。「生きてる!」

「生きてる!」

 二人の短い言葉は、砲弾の爆ぜる音に砕けながらも、どこか硬い芯を保ち続けた。


6 艦橋


 指揮所では、艦長が冷たく澄んだ声で命令を重ねていた。

 言葉は少ないほうが、よく届く。

「速度維持。回頭——そのまま」

 測距儀のレンズに、海と空の境が曖昧に映る。

 副官がささやく。「敵機、右舷から——」

「見えている」

 艦長は、言葉の最後を飲み込んだ。

 その喉の奥に、小さな祈りが貼りついていた。


 ふいに、艦橋の背後で冷気が立つ。

 甲板側から吹き上げた風か、あるいは——。

 艦長は一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。

 そこに誰かがいる、という錯覚は、疲労がもたらす常客のようなものだ。

 だが今夜の客は、白い。


7 機関室の限界


 古橋の視界は、汗と油で霞む。

 圧は保たれている。だが、どこかで脈が乱れている。

 機械に脈はない——はずだ。

 古橋は配管の腹に手をあて、耳を近づけ、まるで幼い子の呼吸を確かめるようにした。


「おい、古橋。煙だ」

「知ってる。ここで死ぬな」


 死ぬ、という言葉を、彼らは冗談にも使った。

 本気で口にしたときだけ、言葉は静かになる。

 その静けさの中で、古橋は遠い音を聞いた。

 甲板の上の誰かの靴音。

 歩調は乱れない。規律の靴音だ。

 ——白い手袋が、機関室のドアに触れた気がした。

 古橋は振り返らなかった。見てしまえば、無言の敬礼を返してしまう気がした。


8 最後の閃光


 轟音は音でありながら、光でもあった。

 空に咲いた白が目を焼き、次の瞬間、熱が肌を掴む。

 榊が膝をつき、立ち上がろうとした瞬間に、加瀬が肩を貸す。

「大丈夫か」

「大丈夫じゃない。でも、行く」

「行こう」


 艦体が大きく傾ぐ。

 海と空が滑って入れ替わる。

 甲板の金属が悲鳴を上げ、人間の声に混じる。

 加瀬は遠く、艦橋を見た。

 白い影は、もういなかった。

 かわりに、見えるはずのないものが見えた。

 ——甲板の端に、まっすぐ並んだ靴の列。

 そこに足は入っていない。ただ靴だけが、まるで点呼を待つように並んでいた。


「加瀬!」

 榊が叫ぶ。

 次の爆発が、会話を破った。


9 沈む


 海は音を吸い、艦は音を残した。

 光は瞬いて消え、煙は形を変えつづけ、やがてすべてが一つの色になった。

 加瀬は榊の手首を掴んだまま、冷たいものに触れる。

 それは海水か、血か、油か。

 区別が意味を失う瞬間がある。

 人は、その瞬間に幼くなる。


 耳の奥で、母の声がした。

 ——ごはんは温かいうちにお食べ。

 紙片が胸の中で溶けていく。

 妹の名前のインクが滲み、波の形になった。


 艦は、最期の息を吐いた。

 天に向けて開いた鉄の花が、ゆっくりと閉じる。

 春の海は、その花びらを抱くように沈黙した。


第三章 深海の眠り

1 落下


 落ちていく速度は、思い出の速さに似ている。

 加瀬は、手を離そうとして、離せないことを知った。

 榊の手首は、もう返事をしない。

 それでも離せないのは、人の習いか、海の規律か。

 やがて手は、自然にほどけた。

 海は奪わない。海は均す。

 均されたものだけが、底に届く。


2 静寂


 音は高いところへ逃げる。

 深いところは、いつも静かだ。

 鉄は冷え、記憶は温かい。

 大和は、沈黙という名の布団を掛けられた。


 古橋は、最後の瞬間に機関の耳を撫でた。

 ——よく働いたな。

 返事はなかった。

 ない返事を、古橋は受け取った。


3 灯り


 暗闇に灯りが点ることがある。

 それは物理の灯りではなく、名前に似た灯り。

 呼ばれた名が、小さな光になって辺りを照らす。

 「加瀬」

 榊の声がした。

 「行け」

 どこへ、と問うまでもない。

 上へ。

 それは、海にいる者には難しい方向。


4 眠り


 眠りは、死ではない。

 眠りは、呼ばれれば醒める。

 呼ぶ者がいなくなると、眠りは長くなる。

 大和の眠りは、呼ぶ者の数だけ揺れ、やがて——海の呼吸に合っていった。


第四章 幽霊船の影

1 漁師


 戦が終わり、季節がいくつも巡った。

 瀬戸内の夜は、相変わらず潮の匂いが濃い。

 漁師の藤井は、若い乗り子に言った。


「沖へ出るが、灯りをひとつ多く点けとけ。今日は霧が降りる」


「親父さん、あれ、何です」

 若い指が指す先に、黒い塊があった。

 島影ではない。風と逆の方向に、静かに、あまりに静かに進む。

 藤井は喉を鳴らした。

「見なかったことにしとけ」


「でも、あんな大きな——」

「見なかった」


 黒い艦影が、霧の帳に輪郭だけを残す。

 灯りはない。旗もない。

 ただ、甲板の縁に沿って、影がいくつも立っている。

 人影というには淡すぎ、霧というには濃すぎる影。


「親父さん、手を振ってます」

「振り返すな」


 若い乗り子は、唇を噛んで帽子のつばを下げた。

 霧は、船の向こうで裂け、そして元に戻る。

 影は、いなかったかのように消え、

 ——いたかのように残った。


2 灯台守


 灯台守の老人は、夜勤の明け方に帳面を開いた。

 そこには、誰にも見せられない欄がある。

 「未確認艦影——南西——灯なし——天候霧——午前二時十二分」

 彼は書き足し、ペン先を止める。

 長い沈黙の末、老人はページの余白に小さく書いた。

 「立派な船だった」


 翌夜、老人は夢を見た。

 白い手袋をした若い海軍士官が、帽子に手を当てる夢。

 敬礼は、夢の中でさえ音がない。

 老人は、胸の前でだけ、そっと手を挙げた。


3 歌


 港から少し離れた防波堤で、夜釣りの若者が耳をすませる。

 風の向きが変わると、遠い合唱のようなものが聞こえた。

 ——節は古く、言葉は聞き取れない。

 だが、たしかに何かが合わさっている。

 若者はスマートフォンを取り出し、録音しようとしてやめた。

 録音した音は、きっと何も映さない。

 現実は誤魔化せる。記憶は誤魔化せない。

 耳の奥にだけ残る歌がある。


第五章 現代の証言

1 調査隊


 夏。

 民間の潜水調査チームが、海底の残骸を確かめに来た。

 船上のモニターに、ソナーの輪郭が現れては消える。

 隊長の佐伯は、腕時計を外して計器の横に置いた。

 時間は、海の中では役に立たない。


「映る。……あれが、そうか」


 黒い影は、沈黙の姿勢で横たわっていた。

 鋼は腐蝕し、魚は家を得て、海はすべてを自分の名前に塗り替えた。

 それでも輪郭は、ひどく人間の形をしている。

 人が作ったものは、人に似る。


「ダウン行くぞ」

 若いダイバーが頷く。

 水は重く、言葉は泡になる。

 数十メートル下で、ヘッドライトの光が鈍くバウを舐めた。


 若いダイバーは、見た。

 ——甲板の際に、白い何か。

 布キレのように見えた。

 近づくと、それは布ではなく、形のあいまいな手袋の輪郭になった。

 彼は反射的に引き返した。

 海は、ひんやりと微笑んだ。


2 レーダー


 夜間航行の貨物船で、当直士官がレーダーの画面を睨む。

 視界は良好。灯りは少ない。

 なのに、画面の端に、ぼんやりと巨大な反射が現れる。

 近づくと消え、遠ざかると現れる。

 彼は通信機に手を伸ばし、ためらって引っ込めた。

 ——呼びかければ、応答は来るのだろうか。

 応答を聞いてしまったら、その夜は終わらないだろう。

 彼はログに小さく書いた。

 「影、東二キロ、視認せず」


3 語り部


 町の小さな資料館で、戦争体験を語る会が開かれていた。

 榊の母の弟だという老人が、皺の深い手を組んだ。

「兄は海で死にました」

 老人は、それだけ言って黙った。

 語りは時に、言葉よりも沈黙に重心がある。


「海で死んだ人は、海の声になるそうです。

 でも、私には、声は聞こえない。

 だから、せめて——」


 老人は、胸のポケットから小さな紙片を取り出した。

 黄ばんだ封筒。

 消えかけた文字。

 そこには「加瀬」の名前があった。

「兄の友達です。最後の手紙の宛名だけが、こうして残っている」


 会場の空気がすこしだけ冷えた。

 誰も怪談の話をしていないのに、誰もが海を見ていた。

 窓は開いていないのに、潮の匂いがした。


結章 祈りと鎮魂


 夜の海は、いつも同じ顔をしていない。

 風の向き、月の位相、潮の高さ——どれもが、記憶の機嫌に似て移ろう。

 ただ一つ変わらないのは、呼ばれた名が灯りになるということだ。


 港の小さな社で、老いた宮司が祝詞のりとを奏する。

 鈴の音が短く響き、すぐに夜に溶ける。

 誰かが絵馬に「ありがとう」と書いた。

 誰に、とは書かない。

 わかっている者だけが、わかればよいこともある。


 沖では、黒い影が霧の幕を押し分けた。

 旗は翻らず、砲声は鳴らず、船団も伴わない。

 ただ、甲板の縁に、人影が立つ。

 整列も号令もなく、ただそこに立つ。


 ——見上げると、星があった。

 星は、船に命令しない。

 星は、船を照らすだけだ。


 幻影を見た漁師は、翌朝、何も語らない。

 灯台守は帳面に一行を書き、ページを閉じる。

 調査隊の若いダイバーは、海から上がり、しばらく言葉を失う。

 貨物船の当直士官は、ログの余白の線を指でなぞり、指先に残る塩を舐める。

 資料館の老人は、封筒をそっと元の場所へ戻す。

 誰もが、海に小さな挨拶をする。

 それは、祈りと呼ぶには短く、忘却と呼ぶには長い。


 大和。

 敗北の象徴であり、英霊の墓標であり、未だ帰還せぬ船。

 その名が呼ばれるとき、海はわずかに息をつく。

 波立たぬ夜にも、波の音がする。

 それは、船底を撫でる海の手の音なのか、

 甲板に立つ誰かの靴音なのか。


 海は何も答えない。

 答えないことをもって、答えとする。

 だから、人は耳を澄ます。

 灯りを一つ多く点け、ログに一行を書き、

 黄ばんだ封筒の宛名を指でなぞる。


 春が来るたび、桜は散る。

 散った花びらは、海に落ちる。

 海は、それをゆっくり沈めていく。

 沈められたものは、消えない。

 消えないものだけが、静かに眠る。


 今夜もまた、どこかの沖で、黒い艦影が霧に立つ。

 旗は翻らず、砲声は鳴らず、歌だけが風に紛れる。

 それは歌か、波か、人の名か。

 耳を澄ませば、たしかに聞こえる。

 ——「行け」

 ——「帰れ」

 ——「ここにいる」


 人は知っている。

 亡霊は怖い。

 けれど、亡霊がいない夜のほうが、もっと怖い。


 海は忘れない。

 まして、人は。


 戦艦大和。

 沈んでもなお、夜ごと海に立ち上がる影。

 それは、恐れと、悔いと、誇りと、祈りのすべてを積んだ船。

 やがて夜明けが来ると、影は霧に溶け、波へ還る。

 日が昇る。

 港に子どもの笑い声が満ちる。

 その笑い声を、海はよく知っている。

 だから、海は今日も静かに揺れる。

 そして、今夜の準備をする。


 ——ゴーストシップYAMATO。

 記憶の沖を航る、見えない船隊の旗艦。

 名を呼べば灯り、目を閉じれば見える。

 その艦影が遠のいていく間だけ、人は、

 もう二度と同じ過ちを重ねぬよう、

 小さな祈りを胸に置く。


 祈りは軽い。

 だが、海は受け取る。

 受け取られたものだけが、

 静かに、長く、そこに残る。


――了――

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