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帰宅後、フェリスはオルキディアにディナーに誘われドレスをどうするか考えていた。
(さっき抱きしめられたせいで、オルキディアさま好みの装いをしたい衝動にかられるわ...)
衣装室でアガットが満面の笑みをフェリスに向ける。
「是非、サルマン卿から贈られたドレスを着ていってください」
「そうね、アガットがそういうのなら...アガットにまかせるわ」
アガットは、丸襟で袖がパフスリーブのピンクのドレスを選んだ。
ウエストからふわりと広がるスカート部分はオーガンジーのフリルが何段にも重ねて付けてある。
(私の異名はアガットの好みのせいだわ...清楚で可愛らしいものが好きだものね。)
フェリスはピンクのドレスを着て、アガットと食堂へ向かう。
食堂の入口に着くと、アガットはそこで待機する。
フェリスを自分の思うように着飾れたアガットは、満足して自分の主人を見送る。
使用人が食堂の扉を開けると、オルキディアが椅子に掛けて待っていた。
フェリスの装いを見て目を細める。
エスコートするために席を立ち、フェリスに吸い寄せられるように近付く。
「花の妖精が降臨したのかと思ったよ」
「私の贈った花の中にも、妖精に気に入ってもらえるものがあったようで良かった。」
オルキディアの重低音で、落ち着いた柔らかい声が、耳に心地よい。
(この装いを気に入ってくださったようね。オルキディアさまは、やっぱりこういう可愛らしい感じを好まれる方なのね....)
フェリスは、オルキディアを見上げて見つめながら、興味本位で少し甘えるように、挑発的に聞いてみた。
「どれも素敵で、花から花へと目移りしてしまいましたわ。この花にとまりましたけど、いかがですか?」
ドレスのスカートを両手で少し摘んで見せる。
オルキディアがフェリスの挑発的な態度に答えた。
「可哀想だが手折って、花ごと私の部屋でゆっくりと愛でようか」
先程の落ち着いた柔らかい声に、どろりとした甘さを含んだような色気が混じる。
フェリスは、初めて聴覚を刺激された。顔が一気に火照って脳がとろけそうになり、咄嗟に耳を塞いだ。
(なんで...前回はもっと当たり障りない態度だったわ__こんなこと言わなかったわよー!)
「それは...あ、の今度は野に咲く花にとまることにしますわ。手折らずとも鑑賞なされるように....」
オルキディアが、動揺して落ち着きを失ったフェリスを優しく見つめる。
「昼間の妖艶で艷やかな君にも魅了されてしまったが、今夜の君の装いが可憐で愛らしいせいで構いたくなる」
オルキディアが、フェリスの手を取る。
すぐに絡み付くような視線に変わる。
「もう少し、良く見せて」
オルキディアが、フェリスの腰に腕を回して、引き寄せる。
急に体が密着する。
フェリスは激しく動揺した。チラリと周りを見て止めてくれる人を探す。
食堂には給仕しかおらず、オルキディアを止めることができるものがいない。
仕方がなく、自分で抵抗する。
「そ、そんなに近付いては、ドレスが見えないのでは...?」
オルキディアがフェリスの耳元に唇を寄せ、吐息がかかるほど近くで囁やく。
「フェリス嬢は、花を愛でるときは香りは鑑賞しない?」
「香りはもちろん、楽しみますわ....」
「私もだ...」
声が脳を溶かすほどに甘い。
オルキディアの形の良い鼻が、フェリスの首をかする。
フェリスの首筋が、オルキディアの鼻の感触を敏感に感じ取る。一気に鼓動が早鐘を打ち体が熱を持つ。フェリスは我慢できずに精一杯オルキディアの胸元を押す。
「待って...首が...熱い...わ」
オルキディアの目が見開く。
「ふふ...参ったな、こういう時の声は、はちみつのように甘いんだな」
「え...?」
不意に後ろから、咳払いが聞こえた。
「オルキディアさま、お戯れはそのくらいで。給仕のものがお料理を運べず困っておりますゆえ」
「マルス、流石だよ。いいタイミングで戻ってきた」
オルキディアが、フェリスの腰に回していた腕を解放した。
「さ、君の好きだという魚のムニエルを準備させてあるんだよ」
オルキディアがフェリスの手を取りエスコートして、椅子を引いてくれる。
フェリスはタイミングを合わせて、椅子に腰掛けた。
自分の席に戻ったオルキディアを、フェリスは正面から見据えた。
先ほどのやり取りなど、微塵も余韻を感じさせないほどオルキディアは普通にしている。
「私が、最初に悪戯心で挑発したから_からかっていらっしゃったのね...やり過ぎですわ、私はまだ心臓が大きな音を立てているというのに!」
「ハハハ...すまない。君の反応が可愛らしいから、途中で歯止めが利かなくなってね」
「お人が悪いですわ...」
フェリスは拗ねるように言った。
「そうだね、反省しているよ。許してくれ」
そう言いながらもオルキディアの目が楽しそうに笑う。
「ぶどう酒を用意したんだが、君はお酒は飲めなかったか...」
「私は、お酒は嗜む程度しか....」
フェリスが申し訳無さそうにオルキディアを見た。
(前回も、お断りしたのよね。無理強いなさらなかったけど、今後は聖女アイレさまをお誘いしてお飲みになるはず...)
「そう…では、昨日準備した食前酒は平気?」
「はい、甘くて量も少ないので…」
給仕が準備したぶどう酒を下げようとした。
「下げなくていいよ。ぶどう酒は、せっかくだから私が少し飲もう。彼女と私に昨日の食前酒を」
オルキディアが給仕に告げる。
「あの、サルマン卿は私に合わせなくても…」
給仕が食前酒の入った小さなグラスをオルキディアとフェリスの前に置いた。
先にオルキディアが口をつける。
「オルキディアと...呼んでもらえるかな?私のことは親しいものはキディと呼ぶ。どちらでもよい。フェリス嬢のことは...」
「私のことも、どうぞフェリスとお呼びください。両親と兄はフェリと呼びます」
(この流れは本来昨日のディナーでするはずだった...前回起きたことは同じように起こるのかしら。)
「フェリ...可愛らしい愛称だ。私もフェリと呼んでも?」
「もちろんでございます」
(私もオルキディアさまのほうが言いやすいわ、慣れていて。)
食前酒が運ばれてきてからは、和やかな雰囲気でディナーは終わった。
今朝は少し雲がかかっていて、空はどんよりとしている。
フェリスは窓の外を眺める。
(少し緊張しているみたい...眠りが浅くて目が早く覚めてしまったもの。)
起床時間になり、侍女のアガットが目覚めのハーブティーを持ってきた。
「あら、フェリスさま今朝はお早いですね」
フェリスがアガットからハーブティーを受け取る。
「今日のお昼に聖女アイレさまが、この城にお見えになるわ」
アガットがキョトンとしてフェリスを見た。
「まだ、おっしゃっていたのですか」
フェリスは紺色のスタンドカラーのドレスを選んだ。
(前回はグリーンの華やかなドレスを着ていたから、今回は地味にしましょう。アイレさまもお見えになる…刺激しないように目立たないようにしましょう。)
(オルキディアさまは、私への接し方が前回とは明らかに違う...今回は、もしかしたらアイレさまじゃなくて私を__いいえ昨日はまだアイレさまとお会いしていない)
フェリスは、未練がましく思う自分の心を見ないようにした。
(なぜ時が戻ったのかよくわからないけど、せっかく時が戻って生きているんだもの。モストロベアに遭遇して服毒する未来だけは回避したい...)
オルキディアは、朝の早いうちから討伐に向かったと聞いたので、フェリスは朝食を一人で済ませた。
その後、図書室でモストロベアのことについて調べることにした。
書架に魔物の見出しを見つける。棚には30冊ほど魔物関係の本が並ぶ。
名前順になっているので、その中から一番適当なものを一冊抜き取る。
布張りの上製本は、抱え込むとフェリスの鎖骨からおへその辺りまである。ずっしりとして大きい。
フェリスは、慎重に中央のテーブルに持っていく。
「ずいぶん重いですね、こちらに置きますね」
アガットもフェリスに指示された分を一冊持ってきた。
「この間から、いろいろと調べておいでですが、これはやはり_辺境伯の妻になるためのお勉強ということですか?」
アガットが、嬉しそうに頷きながらフェリスを見る。
フェリスが苦笑しながらアガットを見返した。
重たい表紙を慎重にめくって目次を見る。
「こっちじゃなかったわ、アガットの方を見せて」
アガットが自分の目の前に置いた本を、フェリスの前まで手でずらした。
「お目当てのものがあるんですか?全部目を通されたらよろしいのに…」
「あっ...これだわ!」
フェリスは、アガットが運んでくれた本の目次を指で差した。
「モストロベアですか?」
「一見熊のようだが、その体長は立ち上がると3メートルに及び、爪が鎌のように大きくて鋭い。嗅覚が優れていて、血の匂いであれば3キロ先でも嗅ぎ付ける」
「恐ろしいですね。でもモストロベアはランクAなんですね、ここのページ上部の色分けを見てください。SとSSっていうランクもありますよ!」
モストロベアについて記載されているページの右端上部に、深緑色の色分けがしてありAランクと印字がある。
アガットが、興味津々でページ上部が赤色のSSランクの魔物のページを開こうとする。
「それは、おいおいね。今はモストロベアについて見てるから」
「通常は森の深淵にいて滅多に人里には現れない…え、そうなの?」
「どうなさったんですか?」
「いいえ、なんでも...」
フェリスは、一通り目を通してから図書室を後にした。