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サルマン領にある城は、貴人を泊める客室には温泉が引かれている。
フェリスが今いる部屋は、オルキディアのいる主室と、内鍵一つで行き来できる仕様になっていて、婚姻後はフェリスのためのプライベートルームになる予定の部屋だ。
当然温泉がプライベートルームの方にも引かれている。
フェリスはディナーの後、アガットに手伝ってもらい入浴を済ませる。
アガットが丁寧に髪を拭き上げる。
髪に香油をなじませて、全身にも優しく塗る。
肌の手入れが終わってナイトドレスのリボンを結んだ。
「この、傷が本当に不思議でなりません。寝ぼけてガラスか何かで引っ掻いたわけではございませんよね?」
(いやね...アガットったら、私が寝ぼけてガラスを割ってそれで胸に傷をつけるような人間だと本気で思っているのかしら...)
「それより…いいお湯だったわ、アガットも浸かりなさいね」
フェリスの湯上がり後の世話をしているアガットが、顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「ええ、私の後なら問題ないでしょう」
フェリスは、アガットの意識を温泉に向けて胸の傷から逸らす。
フェリスは、天蓋付きの豪華で大きなベッドに入った。
「アガット、そのうち明らかになるわ。私は先に休むわね。アガットは、入浴前には鍵の確認しておいてね。」
「そうですね、早めにお休みいただかないと。また惰眠をむさぼるなんて口になさってはいけませんからね。」
フェリスが苦笑する。
アガットはまだディナーの時の振る舞いを根に持っているようで不満を口にする。
「サルマン卿は、素敵な方とお見受けいたしましたが、どこか気に入らないところがありましたか?」
フェリスは、記憶があるのが自分だけなのをもどかしく感じる。
「そうね、素敵だと思ったわ。恋心も抱いたわよ」
(前回はね)
「それであの物言いですか?」
アガットが腑に落ちない顔をする。
「明日は図書室を借りたいわ。朝食後使えるように取り計らってね」
「かしこまりました。ではおやすみなさいませ」
アガットは言われた通り鍵を確認して、自分の入浴の支度をするため同じ部屋の中にある使用人の寝室へ戻った。
フェリスは窓から夜空を眺めた。
明日は、魔物除けの種子セミージャについて調べようと思った。
(もし、前回と同様に聖女アイレがサルマン領に戻ってきたなら、安全のためには今回は自ら動いて婚約を解消するべきではないかしら...?)
破談になってもこの容姿だ、選ばなければもらいてはあるだろうと考える。
(ただ、条件は厳しくなるわね。婚姻を3ヶ月後に控えていて破談となると...他にどんな道が許されるのかしら。)
次の日もフェリスはアガットと、揉めにもめた。
「この茶色のドレスは、月のものの時に万が一にも粗相したことがわからないようにするためにと、念の為に持ってきたものです。なぜこれを選ばれるのですか?」
「今日は、サルマン卿が屋敷で執務をなさると聞いたからよ」
アガットが信じられないものを見る目付きをした。
「では、フェリスさまに置かれましては、この茶色のドレスがサルマン卿の心を惹くと思われておいでなのですね」
フェリスは、アガットのすごい剣幕にちょっと可笑しくなる。
「そうね、そういうことかしら」
「フェリスさまは確かにもともと美しくていらっしゃいます。ですが、やはり同じバラでも茶色よりは赤やピンクなど華やかなものに、若い男性は目を惹かれるものです。茶色はもっと先の、男性の目を気にしなくてよい年頃になってから、お召になってください」
「ばかね、年を重ねてからのほうが、華やかな色が合うのよ。だから私はこれがいいわ」
ひと悶着あってドレスは結局茶色で落ち着いた。
フェリスはオルキディアに、使いを通して朝食の席に誘われた。
早速この茶色のドレスを見せ付けるいい機会だったが、オルキディアに対する接し方がまだ決まっておらず、疲れているからと偽って断った。
朝食は部屋で済ませてから、図書室に向かう。
図書室は広くかなりの書架の数だった。
壁面に沿うように書架が設置されている。
高いところの本を取るための梯子が置いてある。
フェリスは一通りラベルを見て、植物の欄から10冊ほど本を取り出し中央に設置してある円テーブルに広げて置いた。
「アガット、手伝って」
「何をお調べするのですか?」
「セミージャという種子よ」
「聞いたことありませんが、それはなんですか?」
アガットが本を一冊開いて一緒に探す。
「多分、魔物よけの効果のある種子よ」
フェリスの後ろに、人の気配があった。
後ろを振り返る。
「熱心に調べ物のようでだね」
後ろに立っていたのはオルキディアだった。
「お...サルマン卿、図書室の使用許可ありがとうございます」
(あぶないオルキディアさまと呼ぶところだったわ。わたしは今は名前呼びを許されていない。前回は昨日のディナーの時に名前呼びの許可をいただけるはずだったのよね。)
「私の聞き間違えでなければ、フェリス嬢の口からセミージャと聞こえたのだが」
フェリスは、オルキディアが辺境伯の地位を継いだ時に婚約者に選ばれた。
オルキディアが忙しいせいで、婚約期間に会った回数は片手で数えるほどしかなかった。
昨日のディナーで、お互い愛称で呼び合い今日の領地デートで仲が急速に進展するはずが、昨日のフェリスの態度で全てがなくなっていた。
「セミージャについて調べておりました」
「調べてどうする?」
今までとは違う威圧感のある声音だ。
(...なにかあるの?)
「どんなものか知らないので、知りたかっただけです」
「君が...?」
フェリスはせっかくなので、聖女アイレが領地に入る前に二人のことを聞いておこうと思った。
「サルマン卿、聖女アイレさまをご存知ですか?」
オルキディアの目が微かに見開かれた。
「...彼女は、我が領の厩番の娘でこの領を出るまでは、私の愛馬の世話を良くしてくれていた。年が近いこともありよく話す仲だったが....」
(聖女アイレさまが、厩番の娘...前回は語られなかった話だわ)
「聖女アイレさまの話など...急にどうしたのだ?」
アイレが時戻しの件を話そうか迷っていいると、図書室の扉を性急に開ける音がした。
急ぎ足でこちらに向かって来る男がいた。
サルマン領の討伐隊の副隊長のフォルクだった。
「オルキディアさま、モストロボアが西の森近くの領内の畑に出現したそうです」
「モストロボアって?」
(この時期に?一度目にはなかったことだわ)
「イノシシの魔物だよ」
オルキディアが、フェリスに答えた。
「魔物...」
フェリスはモストロベアと対峙したことが、脳裏に蘇って微かに震えた。
心の内を悟られないように、フェリスはすぐに頭を下げた。
「サルマン卿、討伐に行かれるのですよね?お気をつけて」