20
小屋から出ると、外は薄暗くて空気が少しひんやりしていた。騎士の宿舎の食堂から外に明かりが漏れて、賑わっているのが見えた。
「送るよ」
ノアがフェリスの後ろを付いて、一緒に小屋の外に出てきた。
「大丈夫、一人で戻れるわ。ノアさんは家に戻って」
「しかし…もう結構な時間だ」
以前の部屋なら使用人の行き来が多かったが、今の西の奥の部屋は、ほとんど使用人に会わずに戻れる通路がある。
(送ってもらって、一緒にいるところを目撃されると後で噂を揉み消しにくくなる。やっぱり、こっそり戻って、アガットに部屋で寝ていたと口裏を合わせてもらおう。)
(証拠と証人がいなければ、なんとでもなる。)
フェリスは、生まれながらの貴族然とした考え方をした。
なかなか家に戻ろうとしないノアを訝しげに見る。
「ノアさんこそ、早く家に戻ってゆっくりしてください。腕の怪我だってまだ治ってないのだから」
フェリスは早く部屋に戻りたくて、口調は変えずに少しだけ貴族特有の、人に指示を出すときの空気感を滲ませて言った。
ノアは、命令口調ではないのに、否を許さない感じに、フェリスを貴族だと初めて認識した。
アイレに唆されて、愚かにもフェリスを手に入れようとしたのは、フェリスの気安さゆえだったと自覚した。
貴族だと認識した途端に、畏れ多くて震えそうになる。床下の狭いスペースで抱きしめた感触が消えていく。
ノアが、一歩後ろに後退る。
フェリスは、まだここには留まっているノアを見て、もっと強く言っても良かっただろうかと考えた。
恩人であるため控えめに言ったことが、良くなかったのかもとノアを見る。
(ここだって騎士宿舎の近く、誰かの目にとまる危険性が高い。早く戻らなきゃ...)
もたもたしているノアに、見切りをつける。
フェリスは、ノアが付いてくると都合が悪いので、毅然と背を向けて歩き出す。
背筋がスッと伸びて、簡単には声を掛けにくい雰囲気を醸し出す。
そして、可能な限りの速歩きをする。
フェリスは、ノアが無駄な気遣いをして追ってこないことにホッとした。
「こういう時は、送ってもらうんだ。城内とはいえこの時間だ」
低くてよく通る聞き覚えのある声が、フェリスの耳に届いたかとおもうと、あっという間に腰に腕を回されていた。
後ろを振り向くと、どこから現れたのか、オルキディアに捕らえられていた。
「オルキディアさま、王都に行かれたのでは?」
「フェリ、私が王都に行くと聞いて浮気を?」
(口調は優しいのに、目が笑ってないわ....)
「まさか...ノアさんにお礼を申し上げに来ておりました。」
フェリスが潔白を証明するために、あえてオルキディアの目をしっかりと見つめた。
「アルモアダ伯爵家では、男に礼を言うのにこんな時間まで一緒にいて、尽くすように教育をしているのかな?それなら私も是非あやかりたいね」
(駄目だわ....見つかってしまった以上、正直に言わないとノアの身が危ないわ...貴族は体面を何よりも大事にする。こんな時間まで、男性と二人でいていい正当な理由なんて思いつかないし…)
(ましてサルマン辺境伯は王家に物申せる唯一と言っていい家格。スキャンダルなんてもってのほかのはず。)
(どこまで言っていい?証拠も無しにアイレさまの策略だと言っていいの!?)
フェリスが頭の中で、ノアを助ける算段をしている中、オルキディアがノアに向き直った。
「ノア、君には色々聞きたいことがあるから騎士宿舎に戻って謹慎だよ。君が逃げずに正直に事の顛末を話せば、君の家族は見逃そう」
「騎士宿舎?あの小屋に住んでいるのではなくて?」
ノアがバツが悪そうに黙った。
「さ、フェリは私と帰るんだよ」
(なんでかしら、オルキディアさまは前回よりも私にすごく構ってこられる...?)
ノアが騎士宿舎の自分の部屋に戻っていくのをフェリスは、オルキディアに連行されながら確認した。
(アイレさまも、あの小屋をノアの住まいだと思っておられたようだけど...本当は騎士宿舎に住んでいたのね。ノアさんったら、住まいを人に知られたくなかったから誤魔化していたのかしら...)
「オルキディアさま」
フェリスはどうでもいいことを思い出して聞いた。
「アイレさまの、ベビードールをご覧になりましたか?」
「は...あれ、か…」
オルキディアが顔を背けた。
フェリスはオルキディアの些細な変化も見逃さなかった。
オルキディアは、傷の確認という名のもとに、内鍵を開けさせてフェリスの寝室に侵入しているという後ろめたい気持ちがあったので歯切れが悪かった。
(この反応....やはりご覧になったのね...大丈夫、大丈夫私は傷ついてなんてないわ。わかっていたことだもの。昨夜きっと寝室に来られて、私がまだあの部屋にいておどろいたことでしょうね。でも、この反応だとやはり可愛いもの好きのオルキディアさまのお好みには合わなかったのね。)
オルキディアは舗装されていない道を選んで通っているようだった。
オルキディアがフェリスの腰を抱いていなければバランスを崩して、こけてしまいそうだった。
かなり足場が悪く、鬱蒼とした森のような景色が目の前に広がる。この時間に通ると星の光も入らずかなり暗く、聞いたことのない夜行生物の鳴き声がそこかしこで聞こえる。
暫く進むと、目の前に塔内に入れる扉があった。
その扉を開けると、地下に続く階段がある。
覗き込むと、明かりがないので下は真っ暗だ。
フェリスは怖くなった。
(このまま人知れず処分されるのでは…?彼は辺境伯だ、私を処分したとしても誰に咎められよう_婚約者の不貞が噂されるのはサルマン辺境伯にとって、かなりの不名誉だし社交界での威厳と示しがつかないわ。)
暗闇が、フェリスから落ち着きを取っ払う。
階段を下りきったところで、フェリスは覚悟を決めた。
「私は、毒を_肌見放さず身につけて持っております。それを服用させてください。一見すると心臓発作のように見えます」
オルキディアが暗闇の中で、フェリスの方を向いて目を見開いた。
目を凝らしてもお互いの息遣いしかわからない。
オルキディアはフェリスから距離を取ると、帯剣していた剣を素早く抜いた。
剣を鞘から抜く音が、真っ暗な地下廊下に響く。
フェリスが胸元にいつも隠している小瓶を取り出した。
(一気に呷ろう…モストロベアのときも使ったから大丈夫、痛みも苦しみもなかった。さすが王家にも秘匿する我が家に代々伝わる毒なだけあるわ。)
(誰かが時を戻して、たまたまもう一度生を得たけど__やはり、私は絵本のお姫様じゃないものね。その他大勢の者は一度目で死んだなら2度目も死ぬ運命なのかも...)
フェリスが首元のチェーンを、小瓶ごと思いっきり引っ張った。チェーンの切れる音がする。
チェーンを引っ張ったときに金具が壊れたようで、フェリスの首の後ろの皮膚が傷つき血が滲む。
フェリスは興奮していて、痛みを全く感じなかった。
フェリスは小瓶を軽く振って、中の液体の揺れと、重さを感覚で確認した。
(良かった、怖くて確認してなかったけど過去に戻ったからこの毒もちゃんと中身が入っている。)
オルキディアが剣を壁のある一点に刺すと、天井の明かりが点った。
オルキディアが剣を仕舞う。
オルキディアが剣を抜いて仕舞うまでには、何秒かの出来事だったが、フェリスには実際の何十倍もの時間に感じた。
明かりが点ったことで、フェリスが毒の入った小瓶を握りしめている姿が、オルキディアの目に入った。
「フェリ、それをこちらに寄越すんだ」
オルキディアが慎重に、手を差し出す。
フェリスの方は、突如明かりが点って更に混乱した。
フェリスは斬られると思い込み、かなりの興奮の絶頂を迎えていたせいで、オルキディアがこのアルモアダ伯爵家の毒『セルピエンテ』を狙っていると思い込んだ。
フェリスにとって今この毒は、ある意味命綱だった。
剣で斬られたり、モストロベアに爪で裂かれたりすることを思えば、今のフェリスにはこの毒はどんな宝石より価値があった。これを持たせてくれた両親に感謝した。
手放すわけにはいかない。
フェリスは、オルキディアがこのとてつもなく価値のある毒の存在をどこかで知ったのだと思った。
「この毒のことをどこで聞き及んだか存じませんが、他言した場合は自害するように言われております。この毒のことを知って、アルモアダ伯爵家に縁談を持ち込まれたのですね。納得がいきました。」
早口でまくし立てた。
(オルキディアさまほどの方が、私に婚姻の申込みをしたのはそういうことだったのね、王家からの任務だったのではないかしら....)
「残念ですわね、ここで証拠とともに命を断ちますわ」
小瓶の蓋を取るための動きに、一瞬の隙ができた。
オルキディアがそれを狙っていたように、すばやく小瓶を持つフェリスの手首を叩き落とした。
すぐさま、胸元のハンカチを抜き取って舌を噛まないように猿ぐつわを噛ませた。
オルキディアは、意外に激しい一面も併せ持つフェリスに、昔飼っていた暴れ馬を乗りこなした時の快感を思い出した。




