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「う...ん」
フェリスは、窓から差し込む陽の光が瞼に当たって目が覚めた。ベッドの側の窓から空を見上げると、雲が風に乗って流れているのが見える。
窓が開いているので、爽やかな風が部屋の中を通り抜ける。
うわ飾りの付いたドレープたっぷりの深い緑色のカーテンが、レースのカーテンとタッセルで緩くまとめてあり、裾が床に広がる。
壁紙はアイボリーで、木目調の家具と調和していて全体的に落ち着いた印象の部屋だった。
フェリスは上半身を起こして部屋の中を見回す。
(あら?ここは、私が最初に使っていた部屋だわ...)
今いる夫婦の居室は、内鍵を開けると主室につながっているが、途中から部屋を変わった記憶がよみがえる。
フェリス・ロロ・アルモアダは伯爵家の長女で、3ヶ月前に婚姻の準備のために侍女のアガットと数名のお供を連れて隣の領地サルマンまで来ていた。
婚姻を7の月の19日に控えていたが、急遽領地に戻ってきた聖女アイレの誕生日が、結婚式の次の日の7の月の20日だったため聖女アイレの誕生会を優先することになって、結婚式が延期された。
フェリスは窓の外に目をやる。
屋敷の庭園が一望できる。庭園には石畳の歩道が作ってある。
低木が歩道に沿って植えてあり、色とりどりの花が咲きほこっている。
真っ白の屋根のガゼボや、噴水があり、噴水の中央には人魚のオブジェが設置してある。
フェリスは、視線を室内に戻す。
外を眺めて、思考がはっきりしてきたフェリスは、自分の体を確認した。
手のひらを見て、握ってみる。
(あれ…でも私、魔物に襲われそうになって自害用に持たされていた毒を呷ったはず...)
だんだん頭が冴えてくる。
モストロベア、熊の魔物__爪が鎌のように大きくて鋭くて強い。
フェリスはモストロベアに部屋に侵入され、目の前に迫った死の恐怖を鮮明に思い出し、血の気が引いた。
(私はモストロベアに部屋の隅まで追い詰められて、毒を飲んだ。毒は即効性の致死量だった、助かるはずはない...おかしい)
(蘇生するような特別な薬があったのかしら…それか、オルキディアさまは確か国に数人しかいない強大な魔力持ちだわ。魔力で毒を消した?)
(確かあの日は、聖女アイレさまの誕生祝いの前日だった__朝早くから魔物が出現したと報告があってオルキディアさまと聖女アイレさまが揃って討伐に出られたんだ)
(私は、留守番をしていて__そこに急にモストロベアが屋敷に侵入してきたんだ)
フェリスが、記憶の整理をしているところへ、部屋の扉をノックする音がして侍女のアガットが入室してきた。
「お目覚めになりました?フェリスさま」
アガットは用意してきたモーニングティーセットを、サイドチェストに置いた。
「サルマン卿が、昨日到着したばかりで疲れているだろうから目が覚めるまでゆっくり寝かせてさしあげるようにと」
「それから、今夜のディナーを一緒にしようとおしゃってました。」
フェリスは目を丸めた。
「到着したばかりって、アガット…ここに来てもう3ヶ月になるでしょう」
アガットは冷たいハーブティの入ったグラスを手渡して、心配そうな目でフェリスを見た。
「フェリスさま、私たちは3日前にアルモアダ領を出発して到着したのは昨日の20時ごろですよ」
「え...何を言っているの?ここに来てから3ヶ月は経っているのに...」
(アガットったら、大丈夫かしら?でも、モストロベアの方は、もしかしたら私の夢かしら?では、毒を呷ったのも…?)
フェリスはアガットからグラスを受け取って、冷たいハーブティに口を付けた。
「疲れて眠っていたから、変な夢をみたのかしら?」
侍女のアガットはフェリスの夢の話に笑顔で返した。
「そうかも知れませんね、馬車でなく車での移動だったとはいえ3日もかかりましたからね」
「さ、ドレスに着替えましょう。衣装ルームご覧になりませんか?色とりどりのドレスが揃えられていて、きらびやかで美しいですよ」
フェリスはアガットに連れられて衣装ルームに向かう。
衣装ルームはキングサイズのベッドが、10台くらい入るほどの広さがある。
婚約者のオルキディアがあらかじめ用意してくれているドレスで溢れていた。
壁に備え付けてある棚にアクセサリーや靴がずらりと並べられている。
トルソーにシャンパンゴールドのマーメイドラインのドレスが着せてあった。
「これ…やっぱり夢じゃない」
(ずっと着たいと思っていたけど途中で聖女アイレさまと部屋を変わることになって、結局袖を通すことなく終わったのよね)
「ええ、夢のようですけど夢じゃありませんよ」
アガットが衣装ルームのドレスを見て、自分のことのように嬉しそうに話す。
着替えスペースに毛足の長い絨毯が敷いてあり椅子なども一緒に置いてある。
壁には大きな姿見も設置してあった。
フェリスは、着せかえ人形のようにされるがまま突っ立っていた。
フェリスのナイトドレスの前身頃のリボンを、アガットが鼻歌を歌いながら解く。
「え?」
アガットが、フェリスの胸元を食い入るように見て声を漏らした。
「どうしたの?アガット。」
急に手が止まったアガットを不思議に思い、フェリスがのんきに尋ねる。
「フェリスさま、お美しい胸に傷が...」
フェリスが胸元を見ると、お椀型の形の良い胸の谷間に15センチほどの傷跡があった。
「どういうことでございましょう!獣の爪痕のようにも見えますが...昨日までございませんでしたよね」
アガットが慌てたのも無理はなかった。着替や入浴介助もすべてアガットがしているが、昨夜までフェリスの肌はシミひとつない、珠のような滑らかな肌だった。
フェリスの容姿はかなり整っている方だった。
蜂蜜のような琥珀色の髪に、夕暮れのときにわずかの時間見える群青色のような瞳に、陶器のように白い肌を持ち社交界でも誰もが知る美しさを持っていた。
形はさることながら、マシュマロのように柔らかそうな胸に、ボリュームのある桃のようなお尻はアガットの憧れであり自慢であった。
フェリスの要望でドレスを選ぶときは、目立たないよう隠していたので知る人こそ少なかったが非の打ち所のないプロポーションだ。
そのフェリスに胸の谷間に15センチの傷があるのを、しばらく見つめていたあとアガットは事態を飲み込めず呆然とした。
フェリスは、アガットとは逆に冷静に傷跡を姿見で見つめていた。
(これは、モストロベアの爪痕ではないのかしら...やっぱり夢ではなかったのよ)