婚約破棄された私の気持ちも知らないで
急に降り出した雨が、日陰に残る濁った雪を溶かしていく。
放課後の玄関前。薄暗い照明が、雨粒の一つ一つを淡く照らす。
かじかむ手を擦り、私は置き傘をそっと開いた。
「エリーナじゃないか。ったく、急に降ってくるとはな」
「そうですね……」
息を白くさせながら、少し距離をとって隣に並ぶアンバー様。クシャっとした笑顔で、いつものように話しかけてくれる。
私の気持ちも知らないで。
彼は優秀で、聡明で、みんなの憧れの存在で。私の婚約者だった――
お父様の不祥事が白日の下に晒され、当然ながら私とアンバー様の婚約は破棄されることになった。
このご時世、婚約破棄はそれほど珍しい事ではないそうで。中には婚約破棄されたのに、その事実を喜ぶ人もいるらしい。全く、どうかしている。
婚約破棄についてアンバー様は私に何も話さないし、私から話しかけることなんて、もちろんない。
普通なら人生を変えるような出来事が起きたのはずなのに、学園での二人の関係は何一つ変わらず平行線を保っている。離れる素振りは全くない。そもそも、交わったこともないのだけれど……
私は、お父様から婚約が決まったと知らされたとき、自分でも驚くほど何も感じることはなかった。
家のために会ったこともない男性と結婚する。当たり前の事だし、私情を持ち込む余地なんてどこにもない。
ただ、お互いに深く干渉しない関係になれればいいな、という思いはあった。
家のために結婚した二人。その関係に、それ以上も以下もないのだから。
そういう意味でアンバー様は理想の人だった。
学園でも私をひいきすることなく、みんなと対等に扱ってくれる。
アンバー様は身分にとらわれず誰にでも優しい人で、誰からも好かれていた。私も同じようにその優しさに触れた。
ただ、少し余計だったのが――
「アンバー様、お帰りですか?」「雨が降って残念ですね」
「そうだね」
わざとらしい猫なで声で、校舎から二人の女子生徒がやってくる。アンバー様が振り返って返事をすると同時、私がいることに気づいたのか、気まずそうな顔で踵を返し校舎へと戻っていた。
余計だったというのは、アンバー様の顔が非常に良く整っているということ。
私との婚約は学園中に知れ渡っていたから、内気な私はアンバー様に話しかけられる度、内心ヒヤヒヤしていた。
もし、見せつけるようにアンバー様と会話したものなら、学園の女子生徒全員から悪意を向けられていたのは間違いないだろう。
当然、婚約破棄されたことも一日と経たない内に広まっていた。
その原因が、私が他の貴族様をたぶらかしてるだとか、裏で禁術の研究をしてるだとか。話に尾ひれと背びれ、胸びれまで付けたあとに、羽も生やしたような盛り方は癪に障ったが、こうして女子生徒たちの方が私から離れていくのはありがたい。
だけど――
「さっきのは、何だったんだろうな?」
「なんでしょうね」
もう、アンバー様のことを気にせず生活できるようになったのに。
婚約破棄されたと知った時、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚に陥った。
初めは、私が婚約の相手なんて誰でも良いと思っておきながら、誰からも好かれ、尊敬されるアンバー様の婚約者であることに、実は酔っていたのかとも考えた。
だけど、そうじゃない。
私は、私に何があっても少し距離をとって干渉せず、優しく振る舞ってくださるアンバー様のことが好きになっていたんだと思う。初めて人を好きになったので確信はないのだけど、たぶん、間違いない。
でも、少し考えて気づく。
この気持ちは学園の女子生徒、みんなが持ち合わせているものではないかと。
誰にでも優しいアンバー様。
私もアンバー様から見れば、誰にでも優しくする相手の一人でしかない。
そうわかっているのに――
もしかしたら、私だけは違うんじゃないかと。
周りの生徒達とは違うんじゃないかと、淡い期待を抱いてしまう。
私は胸が締め付けられるほどに苦しいのに、アンバー様はどうなんだろうか?
婚約破棄となった私のことをどう思っているのだろうか?
アンバー様の気持ちを確かめたいけれど。尋ねてしまえば、きっと本音を優しさという布でぐるぐる巻きにしたものを、私に返してくれるだろう。
そして私は、その布を解くことはない。
「それじゃあ、俺は帰るよ。早くしないと父上に叱られる」
「アンバー様……」
雨を気にせず、アンバー様は正門へ駆け出す。
少し進んだところで振り返り、笑顔を作ってこう言うのだ。
「エリーナ! 風邪引くなよ」
私の気持ちも知らないで――
私に勇気があれば、この気持ちに早く気づいていれば、手に持つ傘を差し出せたのではないか。
傘を受け取ったアンバー様が、「じゃあ一緒に帰ろう」と優しく笑いかけてくれる世界もあったんじゃないか。
だけど、私の願いは叶わない。叶うことはない。
私はもう婚約者ではなく、普通の女の子でもなく。
婚約破棄された女なのだから。
アンバー様との関係を、何も望むことはできない。
でも……
「アンバー様!」
傘を握る手に力が入る。さっきまで凍えるように冷たかった手が、ほのかに熱を持つ。
「アンバー様も、お気をつけて」
震える唇、早まる呼吸。降りしきる雨の音をかきわけ、心臓の鼓動だけが耳に入ってくる。
私は初めて、アンバー様に自分の感情を伝えた。
アンバー様は足を止めず、体だけ振り返って私に手を降る。
雨ではっきりとは見えなかったが、私にはアンバー様が少し驚いたような顔をしているように見えた。
ほんのわずかでも、私の気持ちをアンバー様は知ってくれたのだろうか。




