09.あの子は一等星(5)
鈴音ちゃんが糸霧神社にやって来た、数日後のこと。夕方までのバイトを終えたわたしは、霞さんから「晩ごはんでも一緒にどうですか」と誘われ、お言葉に甘えることにした。
「あまり凝ったもんじゃなくて、すみません」
そう恐縮しながら霞さんが用意してくれたのは、鶏肉と里芋の煮物、茄子とピーマンの揚げびたし、じゃこと水菜と豆腐のサラダだった。
一人暮らしをしていると、自分では凝ったものを作らないし、こういった家庭料理を食べる機会はほとんどない。どれも美味しく、栄養が偏っているわたしにとっては、ありがたかった。
「とっても美味しいです。霞さん、料理上手なんですね」
「お口に合ったなら、よかったです。料理は好きなんやけど、あんまり披露する機会があらへんから」
しっかりと味の沁みた、柔らかな里芋を噛み締める。最近は自炊をサボって、スーパーでお惣菜を買ったり、カップラーメンで済ませたりしていたから、出汁の味が五臓六腑に染み渡る気がした。
「ほんとに美味しい。晩ごはん、いつも霞さんが作ってるんですか?」
「いや、真紘と当番制やね。水曜と土曜は真紘」
「えっ? 真紘くんお料理できるの?」
なんだか意外な気がして、わたしは思わず真紘くんの方を見る。彼は仏頂面のまま、「それなりには」と答えた。
「そうなんだ。すごいね」
「べつに、すごくない。切って焼くか煮るぐらいなら、誰にでもできるやろ。ちなみに、三回に一回はカレー」
それでも充分立派だ。……わたしが最後にコンロ使ったの、いつだったっけ。買ったまま一度も使ってない調味料、たくさんある気がする……。
少しは自炊頑張ろう、と反省していると、霞さんが「ところで」と切り出した。
「真紘から聞いたんやけど……昨日、二宮さんとこのお嬢さんが縁切りの相談に来たんやって?」
霞さんの問いに、わたしは「はい」と頷いた。どうやら鈴音ちゃんの一件を、真紘くんは霞さんに話していたらしい。
「……こういう相談を受けることって、よくあるんですか?」
「高校生が一人で来ることは、あんまりないかなあ。でも、似たような相談を受けることはありますよ」
「そのたびに、真紘くんが縁を切ってるの?」
わたしの問いに、真紘くんは「うーん」と眉を寄せた。
「切ったり、切らへんかったり……切らん方がええんちゃうかな、と思ったら、切らへん」
なんだか、はっきりしない。曖昧な答えだ。
「それって、どうやって判断するの?」
「……今でも、わからん。ただ、本人にもちゃんと考えてもらって、自分も納得するまで悩むことにしてる」
「納得、するまで……」
たしかに真紘くんは、鈴音ちゃんに対しても「ちゃんと考えて」と言っていた。あのときは、ずいぶん慎重だな、と思ったけれど……誰かの縁を切るということは、そのぐらい重大なことなのかもしれない。
「小桜さんも、一緒に話聞いてくれたんやろ。どう思いました?」
「……難しいな、って思いました。大事な友達との縁だったら、切らない方がいいのかなって思うけど……でも鈴音ちゃん、ほんとに辛そうで……」
「そうやねえ。一緒にいるのが辛いなら、離れた方が良いこともあるんちゃうかな。一番大事なのは、自分らしくいられることやからねえ」
霞さんの言葉には、やけに実感がこもっていた。きっと霞さんは、縁に苦しめられてきた人をたくさん見てきたのだろう。そういえば前に、「縁切りは前向きなものだ」と言っていた。
「自分の身近な人と、離れよう、という選択をすることは、それ自体が結構勇気の要ることやと思います。二宮さんのお嬢さんは、ここに来た時点で、ある程度心を決めてるんと違うかなあ。その勇気は、尊重されてもいいと思います」
「それは……そうですね」
大事な友達との縁なら、切らない方がいいんじゃないか、とわたしは思っていた。それでも、そうとも言い切れないのかもしれない。わたしが繋げている縁も、真紘くんの言葉を借りるなら、「ロクでもない」ものばかりなのだ。
夕飯を食べ終えると、時刻は二十時を回っていた。わたしは「そろそろ失礼します」と立ち上がる。
「すっかり遅くなってしまって、すみません。もう外も暗いけど、大丈夫ですか?」
霞さんの問いに、わたしは笑って「全然、平気です」と答えた。ファミレスでバイトしていたときは、もっと遅くなることもあったし、わたしの家までは歩いて十五分程度だ。それほど危険なこともないだろう。
玄関でサンダルのストラップを留めていると、隣にやってきたら真紘くんがスニーカーを履いた。わたしは驚いて、彼の方を見上げる。もの言いたげなわたしの顔を見た彼は、先回りするように言った。
「いや、コンビニ行きたいだけ」
……本当かなあ。かなり、疑わしいけど。
わたしは最後にもう一度「ごちそうさまでした」と言ってから、社務所を出た。手を振ってわたしたちを見送った霞さんは、何か言いたげなニヤニヤ笑いを顔いっぱいに浮かべていた。
うっすらとした提灯の灯りを頼りに、石段を下りていく。鬱蒼とした茂みからは、セミとは違う虫の声が聞こえてくる。昼間の茹だるような暑さはなかったけれど、頬を撫でる風は湿気を纏って生ぬるい。
「真紘くん、コンビニで何買うの?」
「…………アイスとか」
入り組んだ路地を抜けて、北大路通りに出てすぐ、コンビニの灯りがあった。けれど、真紘くんはあさっての方向を向いて、それを見ないふりをした。言い訳が下手だなあ、とおかしくなってしまう。
「ごめんね。送ってくれてありがとう」
「……いや。えーと、その」
真紘くんは気まずそうに口ごもった後、「家の前までは行かへんから、安心して」と付け加えた。真紘くんに家を知られるのは、べつに構わないけれど。
北大路橋を渡ると、街の喧騒に混じって聞こえる、川のせせらぎが心地良かった。暑いのは苦手だけれど、夏の夜の散歩は結構好きだ。夏の空には、小さな星がぽつぽつと輝いている。わたしの地元では、もう少し綺麗に星が見えるのだけれど。
「あ。あの星、明るいね」
わたしが指差すと、真紘くんはわたしの指の先を見上げる。ちょうど真上の空に、ひときわ眩しい星が光っていた。
「ええと……夏の大三角……ベガ、デネブ、アルタイル……どれだろう」
「あー。習った気がするけど、全然覚えてへんわ」
真紘くんはそう言って、小さく肩をすくめる。
眩しい一等星のそのすぐそばには、目を凝らさないとわからないような小さな星が、微かな光を放っていた。あの星だって、地上に届くほどに光り輝いていることに変わりはないのに――わたしたちの視線は、輝く一等星に引き寄せられてしまう。
わたしはぼんやりと、鈴音ちゃんのことを考えていた。ニコッと笑うとエクボが覗く、可愛い女の子。あんなに素敵な子が、些細なことにコンプレックスを抱いて、「自分は醜い」という呪いにかけられている。
「……真紘くんは、鈴音ちゃんのこと……どう思う? 縁、切った方がいいのかな?」
「そんなん、簡単に判断できることちゃうやろ」
「それは、そうだけど……」
「そもそもおれ、あの子がなんでそんなに悩んでんのか理解できひん。ルッキズムに囚われすぎちゃう? ああいうのって、大人になったら気にならんくなると思うけど」
わたしの問いを、真紘くんはばっさり切り捨てた。鈴音ちゃんの悩みを、大したことない、と言われてしまったような気がして、わたしはついムキになってしまう。
「で、でも。誰かと比べて自分の容姿が劣ってるかもって不安になる気持ちは、ちょっとわかるよ」
「……へ? なんで? どのへんが?」
真紘くんは心底不思議そうに瞬きをして、じっとわたしの顔を見つめてくる。普段目がちっとも合わないくせに、珍しいことだ。
彼の黒い瞳が街の灯りを反射して、不思議な色で光っている。なんだか照れ臭くなって、思わずこちらから目を逸らした。
「えっと……わたしって友達に比べて、芋っぽいなあとか。おんなじアクセつけてても、似合ってないなあとか……」
「ふぅん? よーわからんな」
「と、とにかく。高校生の女の子にとっては、深刻な悩みなんだと思う。大人になったら、気にならなくなるのかもしれないけど……あの子にとっては、今が一番しんどいんだよ」
「……そっか」
真紘くんはそう呟いて、じっと何かを考え込んでいる。別の話題を探しているうちに、わたしのアパートの前に着いてしまった。
「もう大丈夫だよ。わたしの家、ここだから」
「……あ、ごめん。結局家の前まで来てしもた」
「ううん。ありがとう」
ばいばい、と小さく手を振ったところで、真紘くんが唐突に言った。
「小桜さん、明日バイトないやんな。夕方暇?」
あまりに話題の急ハンドルを切られたので、ついていけずに「へっ」と裏返った声が出る。
「あ、じゅ、授業があるから、その後なら……夜は飲み会だけど」
「わかった。じゃあ明日の十六時に今宮神社の前まで来て」
「え」
真紘くんの方からこんな風に誘われるのは、初めてのことだった。わたしが唖然としているうちに、真紘くんは「じゃあまた明日」と言って、さっさと歩いていく。
その場に残されたわたしは、しばらくのあいだ茫然と立ち尽くしていた。