02.縁の糸を切る神様(2)
スマホのアラームとともに、目が覚めた。
一人きりのワンルームに、ピピッという無機質な音が響く。入学してしばらくは、好きなバンドの曲を目覚まし代わりにしていたのだけれど、曲そのものを嫌いになってしまいそうだからやめた。
ベッドの中でぼんやりと、メッセージアプリとSNSの通知を一通り確認した後で、今日一日のスケジュールをぼんやりと考える。
火曜日の時間割は、一限から四限まで。授業の後は、図書館に行って試験勉強をしよう。夜はバレーボールサークルの集まりに参加して、日付が変わるまでには帰りたいところだ。
着替えて軽く化粧をした後、部屋の外に出る。まだ午前中だと言うのに、あまりの日差しの強さにくらくらした。駐輪場に置いてある自転車に跨って、ペダルを漕ぎ出した。
わたしが通う大学までは、自転車で五分ほどで着く。入学と同時に住み始めたワンルームのアパートは、地下鉄の駅もバスターミナルもショッピングモールが近くにあって、とても利便性がいい。
アパートの向かいには、私立の小学校がある。ピカピカのランドセルを背負った制服姿の小学生たちが、駆けていく。すれ違いざまに聞こえてきた笑い声は楽しそうで、わたしの気持ちまで明るくなった。
軽々とペダルを漕いで、鴨川にかかる北大路大橋を渡る。七月の日差しがさんさんと降り注いで、水面がキラキラと輝いている。今日も暑さは厳しいけれど、珍しく湿度が低くて、爽やかな風が心地良い。
――あの日、刀がしゃきんと音を立てて〝何か〟を切った瞬間から。わたしは心身ともに、すこぶる健康だ。
「結依、最近顔色良くなった?」
とろとろ卵のオムライスを食べるわたしを見つめながら、朱莉が尋ねてきた。
お昼休み、わたしは大学内にあるカフェでランチをしていた。ここはお洒落で雰囲気も良くてリーズナブルだから、お昼どきはいつも混雑している。学生のみならず学外の人も利用できるので、明らかに大学生ではないお客さんも、ちらほら見られた。
わたしの正面に座っているのは、同じクラスの馳朱莉だ。入学式で隣同士になって、向こうから話しかけられたことがきっかけで、それからずっと仲良くしている。見た目は少し派手でとっつきにくい雰囲気があるけれど、中身は可愛くて親しみやすい朱莉のことが、わたしは大好きだった。
「ちょっと前まで、今にも死にそうな顔してたのに。安心したよー」
朱莉は明るい茶髪のロングヘアを頭の後ろでまとめ、ずるずるとラーメンを啜っている。彼女が食べているのは、新メニューの唐揚げカレー塩ラーメンだ。どんな味なのか気になったけれど、自分で頼む勇気はなかった。わたしはいつも、安心感のある定番メニューばかり頼んでしまう。冒険心が足りないのだ。
「えっ、そんなにひどかった?」
「うん。日に日に顔色悪くなってくから、心配してた。結依、ちょっと痩せた? もっと食べなよ!」
朱莉の手が伸びてきて、わたしの頬をつんつんとつつく。長い爪は鮮やかなターコイズブルーで彩られていて、眩いストーンがいくつも飾られている。朱莉のお洒落は、いつも指先まで抜かりがない。わたしなんて、いつも深爪気味なのに。
「もしかすると、夏バテ気味だったのかも。でも、今はいっぱい食べてるから大丈夫」
「そういえば、例のセクハラ店長、もう平気なの?」
朱莉はそう言って、不愉快そうに眉を寄せた。バイト先でのトラブルを、朱莉にだけは相談していたのだ。わたしはオムライスをすくって、「うん」と頷く。
「店長、別の店舗に異動になったんだ」
糸霧神社で、進藤くんに会った翌日。いつものように憂鬱な気持ちでバイト先に向かうと、店長が異動になることを聞かされた。店長は意外なほどあっさりしていて、「もう結依ちゃんと会うことも少なくなると思うけど、元気でね」と軽い口調で言っていた。
そのときわたしは、糸霧神社で見た貼り紙のことを思い出したのだ。
――あなたの悪縁、断ち切ります。
わたしの目の前で、日本刀を振るった進藤くん。あれはたしかに現実だったと思うけれど、まるで幻だったかのように、記憶がフワフワしている。
もしかすると、あのとき進藤くんは――あの不思議な刀で、わたしと店長の悪縁を断ち切ってくれたのだろうか。いや、そんなまさかね。
「そうなの? よかったー。これで心置きなくバイト続けられるじゃん」
朱莉はまるで自分のことのように、ほっと安堵の表情を浮かべている。大学に入ってから、こうして本気でわたしを心配してくれる友達ができたのは、ありがたいことだ。
「そうなんだけど……実はわたし、バイト辞めたんだよね」
「えっ、そうなの!? なんでまた」
「これを機に、もう関わらない方がいいかな、と思って」
異動になったとはいえ同じ系列の飲食店だし、今後まったく関わりがないとは言えない。面白がって店長との仲を後押ししていたバイト仲間とも、以前のように親しくできる気がしない。それならきっぱり、離れてしまった方がいい。
少し前の自分だったら、そんな風に考えられなかったと思う。モヤモヤを抱えたまま、ずるずるとバイトを続けていただろう。こうやって気持ちを切り変えられたのは、縁切り神社の――ううん、進藤くんのおかげかもしれない。
「そっかー。あたしも、それ正解だと思うよ。しかし、よく決断したね!」
「うん。……縁切り神社の、おかげかな」
「へ? 何それ?」
朱莉は不思議そうに、ぱちぱちと瞬きをする。そのたびに、綺麗にカールした睫毛がバサバサと揺れた。
「糸霧神社っていう、この近くの神社なんだけど……そこに行ってすぐ、店長が異動になったんだ。すっぱりバイト辞められたのも、そのおかげかも」
「へー、スゴ。でも、縁切りなんてちょっと怖いねー」
朱莉がそう言って眉を顰めた。たしかに、怖いと言われてみれば、そうかもしれない。それでもあの場所の雰囲気は、ちっとも恐ろしくはなかったけれど。
「とりあえず、夏休みまでにバイト探さなきゃ」
「うんうん。次のバイト先で、素敵な出逢いもあるかもしんないし」
「うーん……そういうのは、別にいいかなあ……」
店長の一件でうんざりしたこともあり、今は恋愛をする気にはなれなかった。ノリが悪いと言われることも多いけれど、もともと自分の色恋沙汰には興味が薄い方だ。
朱莉は話題を変えるように、「そういえば」と小さく咳払いをする。
「あたし、今ちょっといい感じの人いてさー。ほら、こないだ言ってたアプリで知り合った人」
「えっ、そうなんだ。良い人そうって言ってたもんね」
朱莉は目元を緩ませて、「こないだ、二人でパフェ食べに行って……」と写真を見せてくれる。さりげない風を装いながらも、ちっともニヤニヤを隠し切れていない。
友達のこういう顔を見ていると、恋っていいなあ、と思わなくもないけれど――他人からの好意も素直に受け入れられないわたしが、恋愛なんかできるのかな。今のところは、想像できないな……。
「あ、やば。もうこんな時間じゃん。そろそろ移動しよっかー」
オムライスを食べ終わったあと、朱莉とともにカフェを出て、移動する。
次の授業は地域考古学だ。そういえば、進藤くんも同じ授業を取っていたはずだけど、彼が出席していたのは最初の数回だけで、最近はすっかり姿を見かけない。次に会ったら、お礼を言おうと思っているのだけれど。
京都下鴨にある我が大学のキャンパスは、市内にある他の大学に比べると、それほど広くない。学生の総数が少ないこともあり、全体的にこじんまりしているのだ。それでもアットホームな雰囲気があって、わたしは好きだ。府立植物園が隣にあり、キャンパス内にも緑が多いところが気に入っている。
文学部の学部棟までやってきたところで、猫背気味の後ろ姿が目に入った。眠そうな横顔を見て、わたしはあっと声をあげる。
「進藤くん!」
彼の姿を大学で見るのは、久しぶりのことだった。名前を呼ばれた進藤くんは、こちらを向くとぎょっと目を見開く。わたしは小走りに、彼の元へと駆け寄った。
「こ、小桜さん……」
「進藤くん、学校来てたんだね。このあいだはありがとう」
戸惑う進藤くんに向かって、深々と頭を下げる。彼は視線を泳がせたまま、「おれは、べつに何も」と頬を掻いている。やっぱり、彼とはほとんど目が合わない。わたしが苦しんでいたあのときは、まっすぐにこちらを見てくれたのに。
「……小桜さん、大丈夫やった? あのあと……」
「うん。店長は異動になって……それからわたし、バイト辞めたんだ。だからもう全然、大丈夫」
「……そうなんや。そんなら、よかった」
わたしの言葉に、進藤くんがホッと頬を緩ませる。もしかすると、心配してくれていたんだろうか。
わたしは思い切って、不思議に思っていたことを尋ねてみた。
「ねえ、店長が異動になったのって……もしかして、進藤くんが刀で何かを切ってくれたから? あの刀、何なの? 進藤くん、あのときわたしに何したの?」
「え……」
わたしの問いに、進藤くんが驚いたようにこちらを向いた。
このあいだはそれどころじゃなかったけれど、あらためて真正面から顔を見ると、かなり整った顔をしている。黒い瞳が綺麗で、鼻筋が通っていて、色が白くて、どことなく中性的な雰囲気だ。
「小桜さん、あれ見えてたん?」
「あれ、って?」
「おれが持ってた、あれ……」
「日本刀のこと? 進藤くん、あんなの持ってるなんてすごいね」
わたしの言葉に、進藤くんは「そ、そういうこと、あんま大きい声で言わんといて」と動揺を露わにする。わたしは慌てて両手で口を塞いだ。
「……ごめん。おれ、もう行くから」
「あっ、進藤くん。あのね」
尚も話を続けようとするわたしを無視して、進藤くんはくるりと背を向ける。
「これ以上、おれに関わらへん方がいいよ」
そう言って、彼は足早にその場から立ち去ってしまった。
……何か、気分を害するようなことを言ってしまったのだろうか。
わたしがシュンとしていると、隣にやってきた朱莉が尋ねてくる。
「なになに、どーしたの? 今の、誰?」
「あ、進藤くんっていって……同じ授業取ってる、史学科の子なんだけど」
「へーえ? 史学部にも知り合いいるなんて、結依ってほんとに顔広いよねー」
朱莉はそれほど興味がなかったのか、「そんなことより、早く行こうよ」と急かしてくる。わたしは後ろ髪を引かれつつも、講義室へと足を向けた。