01.縁の糸を切る神様(1)
苦しい。何かが心臓に、巻き付いているような感覚がする。
アスファルトから昼間の熱が立ちのぼる、七月の夕暮れ。十七時までのバイトを終えたわたしは、北大路通沿いのバイト先から自宅アパートに向かって、フラフラ歩いていた。
店長からの「家まで送るよ」という申し出を、用事があるので、と断った。本当は用事なんてない。それでも、絶対に彼に家を知られたくなかった。
持っていたスマホが短く震えて、ついディスプレイに視線を向けてしまった。つい先ほど別れたばかりの男の名前が表示されて、背中がすうっと冷たくなる。
[気をつけて帰ってね]というメッセージに既読をつけず、そのままリュックにしまった。
進学と同時に地元から京都に出てきて、三ヶ月。今のバイトを始めてからは二ヶ月半。仕事は楽しくて、バイト仲間もみんないい人たちで――居心地が良いと、思っていたのに。
一ヶ月ほど前から、店長から個人的な連絡がくるようになった。彼は二十代半ばぐらいの、若くてノリの良い男性だ。学生アルバイトからも慕われていたけれど――わたしは少し、苦手にしていた。
必要以上にベタベタ触られたり、二人きりになるようなシフトを組まれたり。できるだけ避けるようにしていたけれど、店長からのアプローチ以上に辛かったのは、バイト仲間からの反応だった。
――店長、結依ちゃんのこと好きなんだよ! 付き合ってあげたら?
周りが面白がって、店長とわたしの仲を後押しするようになって――居心地が良かったはずのバイト先は、いつのまにか針の筵になっていた。どんどんしつこくなる店長からのアプローチに、わたしが嫌がるそぶりを見せても「大袈裟だなあ」と誰も本気にしてくれなかった。
いっそのこと、バイトを辞めてしまえばいいのかもしれない。それでも今辞めたら、周りに迷惑がかかるかも。もともと、途中で何かを投げ出すことが苦手な性分なのだ。
自分の胸を締め付ける〝何か〟を引き剥がそうとするけれど、当然そこには何もない。意識すればするほどに、息苦しさばかりが募っていく。
七月の日の入りは遅い。西の山の向こうに、太陽がゆっくりと沈んでいく。京都の夏はじめじめと湿度が高くて、息苦しさのせいか、水の中を歩いているかのような感覚さえある。
そのとき背後から、カラカラカラ、と自転車の車輪が回る音が、聞こえてきた。
邪魔にならないようにと端に寄っても、いつまで経っても抜かされる気配がない。わたしが足を止めると、車輪の音も止まる。
なんだか嫌な予感がして、目の前の信号が赤になったタイミングで、おそるおそる振り向いてみると――少し離れたところで、自転車に跨った店長がいた。わたしに声をかけることもなく、ねばついた視線をこちらに向けている。真っ黒い瞳と目が合った瞬間に、真夏だというのに、すうっと背中が冷たくなった。
……どうしよう、早く逃げなきゃ。でも、 どこへ?
信号が青に変わった途端、わたしは全速力で駆け出した。自宅アパートとは反対方向の路地へと入っていく。
普段足を踏み入れたことのない細い路地は、まるで迷路のように入り組んでいた。両脇には、趣のある住宅が建ち並んでいる。
行くあてもないままに進んでいくと、突き当たりに小さな森が見えた。夕暮れの空気は、水色とピンクを混ぜたような不思議な色をしていて、何故かそのあたりだけ、ぼやっと光っているようにも見える。わたしは引き寄せられるように、そちらに走った。
森だと思ったものは、小さな神社だった。長い石段の上に、朱色の鳥居があるのが見える。わたしは無我夢中で、石段を駆け上がっていく。
最後まで上り切ったところで、はあはあ、と荒い息を整えた。後ろを確認してみても、自転車は追いかけてはきていなかった。
ほっと胸を撫で下ろし、鳥居をくぐる。そばにある石柱には、〝糸霧神社〟と彫られていた。いときり、と読むのだろうか。京都に住んで三カ月と少しだけれど、毎日アパートと大学、バイト先の往復をするばかりだったから、こんな場所があるなんて知らなかった。
鳥居を抜けた瞬間、周囲の温度が二度ほど下がったような感覚がした。さっきまでうるさいほどに鳴いていた蝉の声も、木々のざわめきさえも聞こえない。なんだか心が洗われるような雰囲気だ。ここは神様に守られているから安全だ、と本能に訴えかけてくるような、静謐な空気。
……わたし、この空気、好きかも。
せっかくだからお参りしていこうと、本殿へと足を向ける。そのときふと、御手洗のそばに、誰かが立っているのが見えた。
「……あ」
彼がこちらを見て、驚いたように瞬きをした。浅葱色の袴を穿いた、若い男性だ。掃除でもしていたのか、右手に竹箒を持っている。
神主さん――というにはかなり若い。もしかすると、わたしと同じ歳ぐらいだろうか。さらさらの黒髪で、少し不機嫌そうに眉根を寄せている。もともと、目つきが悪いのかもしれない。
どこかで見たことあるような――と考えて、あっと思い出した。おそらく、同じ大学の子だ。文学部の一般教養の授業で見かけたことがある。えっと、名前はたしか――
「進藤くん?」
下の名前まではわからなかったけど、どうやら当たっていたらしい。進藤くんは不思議そうに「なんで、おれのこと知ってんの」と言った。京都に来てから聞き慣れた、関西弁のイントネーションがある。
「あ、ごめんなさい……えっと……進藤くん、たしか史学科だよね? わたし、日本文学専攻で……進藤くんと同じ、一回生だよ」
わたしが説明すると、進藤くんは驚いたように目を丸くした。
「……そうなんや。おれ、ほとんど大学行ってへんのに。よく知ってたな」
「地域考古学の授業、取ってるよね? わたしも一緒なの」
うちの大学はわりと人数が少なくてこじんまりとしているから、同じ授業を取っている子なら、顔と名前はなんとなく覚えている。進藤くんと会話をしたことは、一度もないけれど。
「……普通、授業が一緒になっただけの奴のこと、覚えてる?」
進藤くんはわたしのことを知らなかったらしく、あまりピンときていないようだった。怪訝な表情で、首を捻っている。
「ごめん。名前、なんやっけ」
「あ、小桜結依です。そういえば、進藤くんの下の名前って……」
「……真紘。別に、覚えんでもいいけど」
進藤くんはそっけなく言った。彼は視線をそわそわと彷徨わせてばかりで、さっきからほとんど目が合わない。
会話が続かずに、しん、と沈黙が落ちる。わたしは気まずい空気を跳ね飛ばすように、明るい声を出した。
「進藤くん、その格好似合ってるね。ここでバイトとかしてるの?」
わたしの問いに、進藤くんはやや照れくさそうに頬を掻く。下を向いたまま、ボソボソと答えてくれた。
「……ここ、おれの家。たまに手伝いしてる」
「そうなの? えらいね。じゃあ、神社の子なんだ」
進藤くんは曖昧に「うん、まあ」と頷くと、軽く頭を掻きながら、尋ねてきた。
「なあ、小桜さん……この神社が、どういうとこかわかってて来たん?」
そう言った進藤くんの視線は、わたしの胸のあたりで止まっている。ちょっと居た堪れなくなって、反射的に両手で胸を隠してしまった。彼はハッとしたように、「いやっ、違っ、そういうつもりじゃなくて!」と慌てた声をあげる。
「ご、ごめん。そ、そんなつもりは、なくて……その……小桜さん、苦しくない?」
「え……」
正体不明の胸苦しさを言い当てられて、わたしは目を丸くした。そっと左胸に触れてみるけれど、やっぱりそこには何もない。相変わらず、締め付けられているような感覚はあったけれど。
進藤くんはやや言いづらそうに、続ける。
「もしかして、誰かにストーカーとかされてる? そこまで大袈裟じゃなくても、強引に迫られて困ってる、とか」
「……どうして、わかるの?」
「見たら、わかる」
そう言った進藤くんの声は真剣そのもので、わたしをからかっているようには思えなかった。わたしは躊躇いつつも、おずおずと口を開く。
「……そんなに、大したことじゃないんだけど……バイト先の人間関係が、あんまりうまくいってなくて……」
「うん」
「その、店長がね。ちょっと、しつこくて。さっきも、家まで送るって言われたから、断ったのに、自転車で後つけられてて……それで、ここまで逃げてきたの」
「なんやそれ。大丈夫なん?」
「う、うん。だ、だいじょう……」
ぶ、と答えようとした瞬間に、喉が詰まったようになって、声が出なくなった。膝の力が抜けて、がくっとその場にくずおれる。
「小桜さん!」
静かな境内に、進藤くんの声が響く。カラン、と竹箒が石畳の上に落ちる音がした。
――なんでLINEの返事してくれないの? 俺、ゆうべずっと待ってたのに。
――あんなに冷たくしたら、店長可哀想じゃん。もっと優しくしてあげなよ。
……受け入れられない、わたしが悪いの? 好きだったら、何をしても許されるの? それならわたしの気持ちは、どうなるの。一方的に押しつけられる好意なんて、ただの凶器だ。
苦しい、苦しい、苦しい。酸素を求めて、短い呼吸を繰り返す。しゃがみ込んでいるわたしの元に、進藤くんが駆け寄ってきた。
彼の手が、そっと背中に触れる。
「落ち着いて。顔上げて、ゆっくり深呼吸して」
言われるがまま、わたしは顔を上げた。黒い瞳が、まっすぐにこちらを見据えている。初めて目があったけれど、まるで吸い込まれそうな、驚くぐらい綺麗な瞳だ。じっと見ているだけで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。彼の言う通りに、深く息を吸い込む。
「……たす、けて……」
吐き出した息と共に溢れた言葉は、紛れもないわたしの本音だった。
わたしの気持ちを無視して、押しつけられる好意が怖い。本当は周りの迷惑なんて考えず、全部放り出して逃げてしまいたい。煩わしい人間関係なんて、全部捨て去ってしまいたい。
「わかった」
わたしの言葉を聞いた進藤くんは、そう答えて頷いた。
いつのまにか彼の手には、鞘に入った日本刀が握られていた。こんなもの、さっきまで持っていなかったはずなのに、どこから出してきたんだろう。
進藤くんが鞘から刀を抜く。光を浴びた刀身が、ぎらりと鈍く光る。
「ごめん。ちょっとだけ、じっとしてて」
彼はそう言って、刀を構えた。眼前に武器を突きつけられているというのに、ちっとも身の危険を感じない。わたしは彼の言う通り、その場でじっと動かずにいた。
進藤くんは小さく息を吸い込むと、わたしの目の前で刀を振るった。
――しゃきん。
そんな、何かを切り裂くような音が響いた次の瞬間、胸苦しさが嘘のように消えた。ふっと身体が軽くなって、呼吸がしやすくなる。荒くなった息を整えていると、進藤くんが優しく背中を撫でてくれた。いつのまにか、刀は消えている。
「これで、とりあえずは大丈夫やと思う。あんまりヤバかったら、警察行った方がいいと思うけど」
「進藤、くん……今、何したの?」
その問いには答えずに、進藤くんはわたしの腕を引いて立たせた。「一応、お参りしていって」と促され、わたしはフラフラと本殿へと向かう。本殿のそばにあった貼り紙には、こう書かれていた。
――あなたの悪縁、断ち切ります。縁に関するよろず相談ごとは、糸霧神社まで。