第五話 2-2 30-30
映像の中の四年前の私は思っていたより今と変わっていないように見えた。ただ相手は別だ。加藤五十鈴はプロ入りして間もなかったし、ツアーに参加できるだけのポイントをすでに獲得していた。だからこそ当時、世界ランキングが離れていた私と加藤五十鈴でも、ツアーの決勝で戦うことができた。
この大会は加藤五十鈴の大躍進を印象づける試合として後世に残された。私という人間はただの踏み台……いいや踏み台という認識すらされていなかっただろう。
映像の中で試合がはじまった。ファーストサービスは私で、得意のストロークで徐々に1ゲーム目と2ゲーム目を奪取した。このとき自分の戦略通りにことが運んで喜んでいたと思う。かといって舞い上がることなく集中し、第三ゲーム目へと臨んだ。一進一退の攻防を続けていくうちに、向こうのボルテージも上がってきたのかゲームを取られてしまったが、次へと切り替えていく思考ぐらいはあった。
試合を見ながらふと思った。
「これ二時間ぐらいあるけどいいの?」
「もちろん。それにもうすぐで分岐点がきます」
鈴井がそういうので黙って見ることにした。春野はこちらを意識していないほど映像に集中していた。
加藤五十鈴が勝利の分岐点となるところは、向こうが1セット目を取ったときだろう。このときのスコアは7ー5だったはず。もうすぐというには数十分はかかる見込みだ。
映像の中の試合はゲームカウント2ー2。30-30という盤面。このときなぜか私は天啓みたいなものが振ってきた。そういえば似たような盤面が最近あったような気がする。
「……あっ」
そう声を漏らしたのは春野だった。隣を見るといぶかしげに画面を凝視していた。
「もしかして、ここ?」
「間違いないです。ゲームカウント2ー2の30-30。そんな序盤も序盤に、夏海さんの出力が落ちたような感じがしました」
「いやいや、全くそんなつもりーー」
「そうです。夏海さんはいつもこの盤面で力を落としています。無自覚に」
断言したのはいつの間にか隣に座っていた鈴井冬香からだ。まっすぐ画面を凝視しながらこう続ける。
「ここから相手に二連続でポイントを奪われます。なぜここを分岐点としたか夏海さんはわかりますか?」
「・・・・・・ごめん、わからない」
このときに得た感情を鮮明に思い出そうとしたがうまく言葉にできない。からっぽ、いいや霧がかかっていて見せないようにしているみたいな感じだ。
「この試合以降、夏海さんがこの盤面になってしまった試合は必ず負けているからです」
それを聞いて耳が遠くなっていく気分を味わった。映像からの打球音だけが耳にこびりついて、徐々に心臓の音が早くなっていく。
ああそうだ、思い出した。
私は後悔した。あの試合のことを無意識に忘れてしまっていたことを。
「……お水持ってきましょうか」
よほど私の顔が青ざめていたのだろうか。確かに不快な感情が渦巻いてる。私は小さくうなずいて鈴井が持ってきた水を一口飲んだ。落ち着くかと思いきや焦りに似た情が押し寄せてきた。
それから誰も言葉を発することなく、一時間余りの試合は終了した。観客席から勝利の歓声は鳴り響いていたもの、コートに立っている二人は熱狂の中から外れている気がした。私はそうだったが、加藤五十鈴はどうだったのだろうか。
しばらくして。
特に試合の感想を口にすることはなく、部屋の中に気まずい沈黙が広がった。もしかしたら春野は加藤五十鈴のプレイに魅了されているのかも知れないが。
ふと現実から引き戻されるような拍手が響いた。鈴井冬香が笑みを浮かべてこう言った。
「これからこのシチュエーションが本当かどうかを再現しましょう。今日はそのために春野さんを呼び寄せましたので」
「……あんた」
「その様子だと、久々にあの試合を見たんじゃないですか」
私は目をつぶった。あの試合はCS放送していて録画で残していた。だが一度たりとも映像で振り返ることはしなかった。
負け試合を分析して次の糧にするのは当たり前のことだった。そのなかで唯一この試合だけは見ることすらしなかった。
「見たく、なかったんだと思う。これも無意識でかもしれない」
ようやく腑に落ちた。私が何を恐れていたのか、怯えていたのか。意識的にしろ無意識的にしろ、この問題は今後のテニス人生において克服しなければならない問題だ。
「春野さん。もう一度、私と試合をしてくれる? ワンセットマッチでいいから」
春野は願ってもないようでうれしそうに言った。
「もちろんです! 私ももっと強くなるために必要なことなんで、こちらからもどうかお願いします」
お互いに頭を下げあう光景に気恥ずかしさがあった。
課題は明確になった。今度は自覚して弱さと戦う番だ。
ーーーーーー
ーーーー
ーー
場所を移して鈴井が住むマンションの近くにある公園のテニスコートを借りて、二人のテニスプレイヤーが装いを新たに立った。
一人は女子テニス世界ランキング三〇〇位。プロ入り一年半年の新人、春野朱美。
向かいには女子テニス世界ランキング三九五位の倉本夏海、この私が立つ。
その間にピンク色のトレーナー姿の鈴井冬香が間に入り、こう宣言した。
「ただいまより、倉本夏海と春野朱美によるワンセットマッチを執り行います。ジャッジは主審であるわたしが務めます。準備はいいですか?」
随分とこなれた様子の鈴井。そういえば彼女がテニス経験者かも定かではない。テニスの知識はあれど、試合の審判ができるのは経験者以外にできることではない。
ともあれきちんと試合ができるのなら審判はいたに越したことではない。
トスを行い、ラケットを回す。私は上、春野は下。ラケットの柄に印字されているメーカーが逆さまにならず落ちたことでサービスは私になった。
ボールを二つ受け取りサービスラインに立つ。たったワンセットといえど、今までの試合以上に緊張感が走っている。
まず私が「2-2 30-30」という状況でパフォーマンスが落ちるかどうかの確認だ。鈴井と春野の言葉を信じたわけではない。少なくとも自分で確かめるまでに至ったのは証人が二人いるからだ。
「ねえ、どういう感じでその状況に持って行けばいいわけ? 点数調整のために手を抜いてもいいのね」
「まあしかたないですね。再現性のためにある程度は調整をお願いします」
「いや本気でやってください。私、手を抜かれるほど軟じゃありません」
春野が大声を上げた。やらせ的なものは好みではないらしい。これは私たちのほうがよくなかった。たとえ再現するだけのことであっても、勝負事は常に本気で臨みたい。プロだからではなく、正々堂々と戦う人としてありたい。帯が引き締まる思いになった。ちゃんとした試合として私はこの場で戦わなくてはならない。
「わかった。じゃあ再現の方はいったんなしで」
「な、夏海さん。いいんですか?」
「いいわよ。あとスコアを言わないで試合を進めて。意識してしまったらそれこそ本末転倒だと思うから」
「そ、そういうことなら」
鈴井冬香は戸惑っているらしい。どちらかといえば私を心配してのことだろう。もしこの試合で負けてしまったら……と考えているなら余計なお世話だ。彼女のサポートしてもらうことはあれど、お世話されるつもりはない。
話を打ち切ってボールを床に弾ませていくこうすると不思議と意識が高まっていく。テニスプレイヤーが鳴らす鐘というものだろうか。それをみて春野が対角線のベースライン付近で構えを取った。これでもう二人の間に余計な情報は消えた。
「……全く、二人とも生真面目というか。それじゃ試合を始めます」
間髪入れずに彼女が声を放った。
「ワンセットマッチプレイ!」
私は天高くボールを放り投げた。
ーーーーーー
ーーーー
ーー
日本テニス協会は大荒れだった。
衰退しつつあるテニスを復興できる存在を擁したかった。日本テニス協会会長の柴崎麗子《しばさきれいこ》は日に日にやってくる報告を聞いて頭を抱えていた。
「で、加藤五十鈴は依然と行方不明ってことでいいのね。でも誘拐されたわけではないと。……あの子のコーチに問題があったのではないの?」
秘書の男は冷や汗をかいて芝崎麗子に報告を読み上げた。
「む、むしろ加藤さんのチームは過去ないくらいに一丸となっていたとのことで。それが突然彼女から謀反を起こされたとお怒りのようです……」
「それが明るみになったら大騒ぎね。記者に口止めなさい。あとデマを流した者には容赦はしないように」
「は、はい。ただいま」と秘書は会長室から出て行った。
ようやく会長室には麗子ひとりだけが残った。
麗子は一息付いた後、三秒ほど耳を澄ませた。部屋の外に人がいないことを確認した。
「よし、人はいないわよね」
厳しい面を保っていた麗子が秘書いなくなったとたんに、氷が溶けるように表情を一変させた。
「も〜〜どこにいっちゃったのよ五十鈴ちゃ〜ん!! このままじゃ、日本テニスが終わっちゃうヨォぉぉぉ!!」
ぐずぐずと涙目になって会長室を駆け回る日本テニス協会会長。四〇を越えてよりいっそう美しくあるのは、トップとしての矜持だった。彼女には夢があった。日本では野球やサッカーが常に盛り上がっているように、テニスも国民全員で盛り上がっていきたい。そのためには圧倒的なカリスマを擁する必要がある。
ようやく見つけたのだ。十年の、いや百年に一度の逸材を。加藤五十鈴こそ日本のテニス協会に圧倒的な火力で燃え広げていく存在だ。こういう人間は一人だけいればいい。
「やっぱり全力でサポートして疲れちゃったのかなあ。最近の若い娘って難しいのかなあ」
部屋のソファで膝を抱えてうずくまり、悲運を嘆いてしまう。先代からこの役職を引き継いで、割と順調に物事を進めてきたのだが、いきなりどでかい試練がやってくるとは思わなかった。できれば想像しうる限りで起きて欲しくなかった。
「……いや待って、すでに最悪なのにもっと最悪なことが起きていたとしたら?」
ぽくぽくちーん。
彼女の脳内で都合のいいストーリーが展開されていった。
「テ、テニスほっぽり出して、か、駆け落ちだったりしたら。あ、ああ〜!!??」
ソファの背もたれに仰け反って奇声を発する。誰にも見せることのできない奇声を発して足をじたばたさせていく。端から見たら大きな赤ちゃんだった。これは彼女なりの発散方法だ。
そのときだった。
「失礼します! たったいま加藤五十鈴の目撃情報が……あの、会長どうかしましたか?」
秘書の天野が部屋に入ると彼女はコンマ一秒でよそ行きの姿に様変わりするのだった。
「部屋にはいるときはノックなさい。……それと報告をちょうだい」
「はい、こちらなのですが」
秘書が慌ててとあるデータをよこしてきた。確かに彼女ならではの目撃情報だった。
「なんてうかつな。自分の車の管理もできないようね」
決定的な写真だった。日本で一億円相当の車を持っているのはほんの一部。それも女性が乗っているとなるとSNSに書き込みがあってもおかしくなかった。
真紅のツーシーター。税金対策に買わされあまり乗っていないようだが、どういう風の吹き回しだろうか。髪型と色を買えているようだが返送の可能性も否めない。
「この写真の車に乗っている女を見つけなさい。くれぐれも接触はしないように。何をしているの炙り出すのが先よ」
と、秘書の方には強気な態度にでていたが、内心では「みつかってよかったー」と安心していた。
まずは理由を知って話をしていって、不満があるならそれを改善させる。
彼女の未来を奪ってはならない。テニス業界のためとはいえ五十鈴は一人の人間なのだから。
ーー
ーーーー
ーーーーーー
ポイント宣誓のない試合は、序盤から激しい猛攻を繰り広げていき、例の状況までそう時間はかからなかった。
私はあの状況に持ち込むつもりはさらさらなく、先に3ゲームとっておきたかった。しかし向こうも強者だ。甘い球を見逃すことはしないし、戦術もきれいだ。いまいち派手な武器がないのが欠点とよべるところか。総じてこれから伸びていくだろう。
試合の時は余計な緊張があったが、いまはあまり感じない。ただ打ち合っていることに夢中になっていた。
だが夢の時間は終わりだ。頭の中ではスコアを数えていたので「2-2 30-30」は当然のようにやってきた。
「……ここからね」
「夏海さん、ここからドローンカメラを総動員させて夏海さんの動きを撮影します。どうか気を張らずいつも通りにやってください」
「了解したわ」
するとコートの外から黒い物体が何台も空を飛ぶのが見えた。空中で所定の位置に着くとそのまま静止した。
鈴井の言うとおり、ここからはあまり意識せずにやるのがいい。まずは自分自身で自覚する。このスコアになると弱ることを。
それから数十分の試合が続き、結果が出た。
今度は自分でも自覚できた。
「はあ、はあ……最悪ね。体が思うように動かないのは……」
結果は6ー2というスコアで敗北した。自分の意志とは無関係に力が落ちてしまうなんて、人の機能として欠陥ではないのか?
「自覚したらした分、なかなかに絶望的なんだけど」
「それを克服させるのがわたしの会社です。朱美ちゃんもお疲れさま」
「いえ、貴重な場面を見せていただきました。これってやっぱり」
「そうみたい。いわゆるイップスね」
イップス。スポーツにおいて精神的な圧力から本来のパフォーマンスを発揮できない症状。
あくまで広義的な意味合いではあり、人よってその症状の度合いには個人差がある。中には強い痛みを想起させるものもあるらしいが、私のは単純な出力低下。軽い方に入ると思う。
「体感的に四〇パーセントぐらい動きが悪くなってる。思考、反応の全てがよ」
ボトルの水を飲み干し、一息つこうとするも心のざわめきは止まらない。
例えるなら高速道路を猛スピードで駆けている際に40キロの標識に合わせてスピードを落とすような感じだろうか。
「わかるんですか? 自分の動きを数値にするほど」
「あくまで体感よ。自分の体なんだからなんとなくわかるでしょう? ま、意識の外にあることを自覚したからできたことだけど」
春野が不思議な顔で見ていたが、プロなら体のコンディションを把握するのは当然だろう。もっともイップスに関しては自覚できなかった。いつからなんていうまでもない。きっと四年のあいだに徐々にできあがっていったものだろう。
コートを綺麗にして退散しようと思ったところで、春野が言った。
「次に会うのは向こうでいいんでしたっけ。申請は通ると思いますけど、来訪はなるべく早めにしてくださいよ」
そういって春野は帰路に付こうとしていた。彼女の後ろ姿を見送りながら私はなんのことがわからず隣の鈴井冬香に尋ねた。
「あの子、何の話をしてたの?」
「あ、そういえばまだ伝えてませんでしたね。夏海さん、しばらく練習場所を変えるので海外遠征の準備を済ませてくださいね」
急だったことで数秒ほど固まってしまう。確かにプロとして活動するなら海外遠征は当たり前。ただその資金とかいろいろかかってくるわけで。一言いいたいのをぐっとこらえて、私は彼女に聞いた。
「ちなみに行き先は」
「西海岸です。世界最高峰のテニスクラブへご案内いたしますね」
そうにっこりと当たり前のようにこの女は言った。
私はどれだけ彼女に振り回されてしまうのだろうか。
しかし、今それを楽しんでいる自分がいるのも、ちょっとずつ変わってきている証拠かもしれない。
あくまでかもしれないにとどめておくけど。