6 国と法
これで言いたい事は大体言ったわけだが、もう少し付け加えたい事を思いついた。それについて書いておきたい。
日本人にとって一番理解し難い事というのは、国家や社会というものを相対化して考える事だろう。日本人にとっては国家=神なのだから、それを相対化して見る事は、体制に反する事になる。ある点で我々は盲目的に信じる事を強制される。そのポイントを、目を見開いて見て、その後に肯定したとしても彼は罰せられるだろう。なぜならここでは、盲目的に肯定する事が本質であり、目を開ける事はその時点で間違いだからである。
ショーペンハウアーは、国家というのはエゴイズムに反するものではない、むしろ各自のエゴイズムの集結として生まれてくると言っていたが、その通りだろう。ショーペンハウアー系列の哲学者であるニーチェも、法というのも一種の力だとどこかで言っていた。私はこうした視線は、世界のあらゆるものを相対化して、知性の冷徹な目で見て顧みない西欧精神というものを感じるし、こういう冷徹さ、厳しさをこそ見習うべきだと思っている。
国家や法といったものを絶対的なものとみなす事に我々はなれているが、各自のエゴイズムの調整としてあるというのは考えてみれば穏当な意見であるだろう。それぞれの人間の意志、本能、欲望といったものが、他者を排除しない程度において満足させられる位置はどこにあるか。こうした点に国家や社会の本質がある。
しかしながら、犯罪者だってエゴイズムで動いているのではないかと言えば、確かにそういう事になってしまう。自分の欲望の為に、多人数を殺す犯罪者は、我々とは違い、自分の幸福の為に他人を侵害する事を何とも思わなかった人物である。我々が彼を非難するのは容易に見えるが、我々の中に「意志」というものがある以上、犯罪者と我々の違いは他人を排除してまで自分の意志を満足させようとしたか否か、という点に限られている。そうして、我々の心の奥底を見れば、他人を排除してまで自分自身を満足させたいという欲求がないだろうか。我々が過剰に犯罪者を叩くのは、自分が我慢している事を、我慢せずにやりきった事に対するルサンチマンの感情が関与していないだろうか。
もちろん、こう言って犯罪者を擁護したいわけではない。ただ、犯罪者も同じ人間であろうと思うという事だ。だから、先からのように、自分の中を覗き込めばそこに悪はある、と私は言っている。
国家や法律というのも、各自の利害からできている以上、自国と他国の利害が紛糾し、それによって戦争が起こるという事もある。それが聖戦と名付けられたり、絶対的な相貌を帯びる事はむしろ普通だが、そこでも我々は、自分達の内部にあるものを外部に投げ出し、それを絶対化するという精神機構を見出すのである。
こうした精神機構が宗教的なものなのは言うまでもない。重要な事は、しかしこの絶対性も全て、我々の卑小な相対性から生じているという認識を持つ事にある。文学が教えてくれるのは正にその事ではないだろうか。それは我々を絶対化させ、神化させてくれるような神話を生み出す事ではなく、人間が人間であるという事を教えてくれるものであるべきではないか。そうして今ここで言う「人間」とはそれだけで善悪の彼岸に位置している。なぜなら、善も悪も人間が生み出した概念に過ぎないが、それを生み出した人間そのものはその彼岸に留まっているからである。観念は存在に辿り着かない。そうして存在に辿り着いた観念は、凡庸な我々にはむしろ不可思議な呪文のような(難しい哲学書のように)ものに見えるだろう。あらゆる偉大な書物が、一見すると不合理な、矛盾に満ちたものに見えるのは何故なのか。それは存在から発した観念が再び存在に回帰し、存在に触れる時、もはや観念である事をやめるからだ。
法や国家といったものも当然、人間が作ったものだから、絶対的なものではない。文学が、法や国家といったもの、あらゆる社会機構に頭を下げながら人々に満足を与えるもの、人々が見出したいと思っているものを見いださせるものだとしたら、そこに何の超越性があるだろうか。それは人々の、大衆の欲望のトートロジーであり、どこにも行きようのない円環機構でしかない。
文学が善悪の彼岸にあるとは、文学は人間を掴む過程で、人間が絶対化し、固定化していったものを、人間存在の本質性を主張する事によってなぎ倒していくという事になるだろう。だから偉大な文学は反社会性を含むが、実の所、反社会性も社会性と同じものから発しているという事を言うにすぎない。不正が正になる世の中というのは存在するが、その場合、犯罪は逆に正義となる。ところが、このレジスタンス活動も、国家による抑圧の運動も、同じ源から発している力のせめぎあいでしかない。