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5 価値観の定在化に伴う文学の難しさ

 文学は善悪の彼岸だと今言ったが、これは人間の営為を全て含みこもうとする努力である。作家が、世界から外れた目を持たなければならないのは、彼が世界を捉えようとするからだ。世界に組み込まれている人間に、世界は決して見えない。安定した社会基盤、そこから現れてきた価値観に組み込まれている人間に、それら全てを相対化する事はできない。社会のある基盤の上に現れた価値観、それに組み込まれて物を見ている人間は、実は狭い世界しか見ていないのだが、彼がそれを知る事は決してない。現代の倦怠とも言える、暇潰し、趣味的とも言えるアートもどきは、自分達の根底にあるものを思考できぬ故に、思考や表現が表面に流れていった結果起こる。しかし、社会基盤そのものが崩壊していっているのもまた自明であろう。

 

 ドストエフスキーやトルストイといった偉大な作家は、時代の過渡期に現れた。彼らがいかに天才だったとはいえ、彼らを百年後のロシア、百年前のロシアに移し替えるのは無茶な話だろう。やはり天才を生む好時期というのはあるのだ。ドストエフスキーやトルストイは、いずれも革命家的な相貌を持っている。作家だから精神的革命かもしれないが、自分達が道徳から生活から何かを作り出さなければならぬという極端な使命を持っているように見える。ここにはロシアが高度に洗練されていなかった社会だというのも影を落としている。彼らは健康な政治を持たず、科学も持たず、検閲制度が幅を利かす中で、自分達の思想を文学に乗せて世界に吐き出さざるを得なかった。そこにロシア文学の過剰性がある。

 

 私は時代の過渡期は、世界を捉えるのに好都合な一時期であると考えたい。時代とか社会に裂け目ができて、そこに過去と未来が凝集している。そこから光が満ち溢れている。そのような一時期に、天才は深く降りていって、人間とか世界そのものを明るく照らすのだ。安定した社会、正しい答えがはっきりしている時には、その答えをなぞる事だけが正解だ。そうした社会において、文学は善と悪、秩序と非秩序のような二項対立で十分だ。娯楽は常に、自らを喰っていく精神の病を知らぬ大衆に向けられて作られている。娯楽は決して考えさない。考える事は自分を相対化する事だ。自分を相対化するとは、自分の全存在を見る事だ。だがそんなものを望む大衆がどこにいるだろうか? 大衆はいつの時代でも安らかに眠りたいのだ。覚醒こそが大衆の敵だ。

 

 文学は内面を分化していく過程で、善悪の彼岸に至り、善をも悪をも成す人間を描いていく…その際、内面を分化させ、世界を描くには理由がいるだろう。動機、根拠、目的といったものが必要になる。そうしたものはどこから生まれるのか。時代が混乱し、何が善か悪か、見えなくなった時代にこそ、人間というもの全相貌が見えるのではないか。人間という存在が一瞬映る時代がある。こうした時代には、人間を捉える必要がある。人間の善悪、その徳性そのものについて考えざるを得なくなる。既定の価値観は瓦解しており、一からそれを作らねばならないからだ。

 

 人々は時代とか歴史の方向によって、既存の価値観を信じ込まさせられている為に、文学はただ技術の見せ合いっこ、必要とされるのは小手先の有能さだけという事になる。しかし、ありがたくもーーあるいは不幸にも、自然はこの社会、現代の社会の基盤を徹底的に打ち壊そうとしている。我々に考え始めなければならない時があるとしたら、「今ここ」であろう。村上春樹が作品内に散りばめる、消費社会の判を押された固有名詞の群はその内に、注釈が必要な意味不明の文字に変わる。その時、人はもう一度そもそも文学とは何か、いやそもそも人間と何か、世界とは何かを考えざるを得ない。自分達の人生の先行きについて途方に暮れなければならない。それに伴って、人間の発達した認識形式である「文学」も真剣に掘り下げる必要のある一議題となろう。

 

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