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4 包括する文学


 今まで書いてきた事を総計するなら、戦後にできあがった社会基盤の上に、現代の様々な枝葉末節的なものが現れているという事だ。私は、社会や、常識人が文学を鼻で笑うとしてもそれはかなり正当であると考えている。というのは、現代の文学は、確かに現代の価値観に何の揺さぶりもかけられないし、大した思考力もないし、意味もないのであって、それであるのならばエンターテイメント作品の方が遥かに技術的にレベルが高く、しかも面白い。常識人、一般大衆が文学を軽蔑するのは当然とも言える。というのは文学は存在しないからである。現代文学が消えて困るのは、それに依拠している現代の作家連と、そこに連なりたい作家の卵、それから出版社の文芸部門の人達だけだろう。彼らが、現代の文学が消える事に同意すればすぐに文学の装いは消えてしまうだろう。残念ながら、本当に文学を愛する人達も、別段大きな損失を感じる事もないだろう。

 

 このような状況だからこそ、文学というものがそもそも何かと本質に戻って考える必要がある…と私は考えている。それで、この文章ではベルクソンのラインで考えてみたいという事だ。で、どのラインで考えていっても、やはり文学は「善悪の彼岸」だという事がはっきりすると思う。ドストエフスキーは「私は悪が存在しない事よりも、悪が可能であり、なおかつ悪を選択しない事を良しとしたい」と書簡で言っていたと思う。これは非常に意味深長な言葉である。ドストエフスキーが悪を人間の属性として認めた事、犯罪者も人間だと知った事(彼自身が犯罪者になって)、それだけでも文学の根底は善悪の彼岸であり、善と悪を共に人間の要素として存在する事を認める事を意味しているように思う。文学は悪と善を包み込む。…という事は部分的には、悪の肯定を含みこむという事であろう。しかし、これ以上はもはや善悪の概念では仕分け不可能である。人間の中にある獣性と理性の問題として捉えていかねばならない。

 

 …話がずれた。ベルクソンに戻ろう。ベルクソンは最初に言った通りに、悲劇を作者の内面が分化していく過程として捉えていた。その場合、分化で得られた物は、善ばかりとは限らない。悪も存在する。作家が悪を描けるのは、作家自身の内部に悪の芽があるからであり、それを自覚的に捉えるからだ。今の作家らが「悪を描く」と言いつつ、外面的な、弱々しい、ステレオタイプな悪しか描けないのは、彼らが自分の内面を深く覗き込まないからだろう。彼らは自分を善の側、常識の側にあると思い込もうとする。自分の中に悪は存在しないと思っている。その為に、悪を描く事ができない。悪は外面的なものではない。それは人間の本質の一部を構成している。

 

 シェイクスピアの作品を読むと、主人公が悪人である場合が多々ある。また、悪人でなくても悪を成す場合が多い。というのは、人間の理性は有限であり、どれだけ善であろうとしても悪に陥ったり、悪行を成したりしてしまうというのが感じられていたからだろうし、自分の中の悪の方向に沈み込んでいけば、賢い人間でもたやすく悪の連鎖に落ち込んでいくと予感されていたからだろう。悪も善も自分の中にあり、それらが様々なキャラクターに分化していく。

 

 自分の中にある悪とか善に思いを凝らすだけの人物であれば、それは単に観念的な、引きこもり的な人物として終わるだろうが、それ(作者)が分化していく過程において、善悪の彼岸に文学は達する。文学はそうして、つまり作者が自分の中の深淵を外部化、客観化していく過程において世界を包み込む。世界の観察というより、世界に存在する諸対象を、自らの内面の具現化の道具として扱う。ここに文学の雄大さ、また文学が個性化を狙うと共に普遍的になっていく契機があるのではないだろうか。

 

 私は偉大な文学とか、哲学とかを自分なりに調べてみたが、そこで現代人がそう思いたがるように、また叫びたがるように、善と悪の境界線をきっちりと分けて、自分達は善の側にあり、相手側は悪であり、それは安定しているというような考えにはほとんど出くわさなかった。しかし、そうした考えは過去になかったわけではない。むしろ、それは時代時代の通俗的思考として、各時代に偏在していたのではないか。今は右翼的なものが盛んであるが、彼らの主張は一時期の左翼に非常によく似ているように見える。左から右、右から左に転向した知識人というのは数多いが、転向が容易に可能であるというのは、構造的にはよく似ているとは言えないか。

 

 通俗的な思考は、各時代に生まれては消え、生まれては消えてきたが為に、その時代、その時々の「今」においては表面的に目新しい、新奇なものに感じられたのではないだろうか。そういう事はありうると思うし、人々が騒ぐものの中にそうしたものがたっぷり含まれているのは普通の事だと思う。それらは新しいのではない。ただ過去から未来に生き残る力がなかった為に、絶えず発生しては消えるという運命を辿っているに過ぎない。

 


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