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3 善と悪

 社会学をするつもりはないので、話を文学に戻そう。私は、村上春樹のインタビューを読んでいて、疑問を持った事がある。彼は「自分も文豪のように悪を描きたい」と言っていた。私が疑問だったのは、村上がまるで自分の中には「悪」はないかのように語った事だった。

 

 善と悪との二項対立も、大衆お好みの、整然たる価値観である。これがエンタメ作品の根幹をなしているのはわかりやすい部分である。そうしてこの善悪の対立というのも、今言った事と大きな関連がある。自分達の社会基盤が安定していると信じられ、自分達の価値観に自信がある場合、それら(自分達)を「善」と定義し、その反対にあるものを「悪」と定義する。すると、この悪を排撃する事が、善(=自分達)の価値強化へと繋がる。

 

 大衆というのは、絶えず主体を抹殺する事によって精神と肉体の健康を保っている存在である。全体の中で疼く部分があれば、それはいずれにしろ「病気」と診断される。それが天才でも犯罪者でも、どちらでも全体に反するものとして、異常の烙印を押される。一方、大衆は全体と一致しているので、健康で安定している。

 

 善が悪を撃破する、という物語は世界の単純化である。このような単純化が尊ばれるのは、人々の認識が高度ではない、磨かれていない事を意味するが、生活する上では、それでいいのである。生活は価値観にくるまれて運動していく。その際、価値観そのものを問うというのは、肯定にしろ否定にしろ、大きな負担である。「細かい事はいいんだよ。とにかく従っとけばいいんだよ」 これが大衆の底にある「声」であり、彼らの敵は右翼でも左翼でもない。考えるもの、考えるという事、それ自体が彼らの敵である。

 

 わかりやすい善悪二元論は、先程言った、戦後社会の発展、そこにあぐらをかく姿勢と親和性が高い。自分達は善である、自分達は正しい、その反対側にあるものは悪である。そう考えていくと、「普通の私達」が尊いものに見えてくる。アニメにおいては、一方で内向きの日常系、外向きには悪に対してひたすら勝ち続ける物語。この二つの方向は同じものの両面でしかない。我々がやろうとしている事は、ある一時期にできあがった価値観をひたすら強化し、そこに安住しようとする事に他ならない。悪は外側にある、と考える時、自分の中にも悪はあるのではないか、とは考えない。人間はかつて、自分達の獣性に恐れおののいたのではないか。道徳とは、自らが犯した罪の自覚から始まったのではないか。悪と善を分離する事がそもそも偽善である。この社会の腐臭は私には耐え難い。そう遠くない内に、全てはくるりと入れ替わるだろう。


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