2 戦後の価値観
私は以前からずっと不思議だったが、現在では文学というもの、芸術というものは趣味的なものでしかない。趣味的なものの戯れとしてしか存在しない。新聞の文芸欄の批評などを読んで見ればそれがすぐにわかる。全ては趣味的な、上っ面だけの扱いでしかない。要するに「こういうものを勉強すればお得ですよ、豊かになれますよ」といった類の視線しかない。読む者も書く者もそんな人達が大半だ。
そういうものを一々紐解くのも面倒であるし、十把一絡げにさせてもらうが…大まかに、私は、村上春樹・高橋源一郎・糸井重里、それらの世代のあたりからそういう価値観が本格的に出てきたように思う。もっと言えば、この世代の人の価値観がこの社会を支配しているので、それに逆らう事は、この社会そのものに逆らう事を意味するだろうが、とりあえず話を文学に絞る事にする。
さて、これらの世代の人達が形作ったものは、基本的にはカルチャーからサブカルチャーへと降りていく過程である。宮崎駿とか手塚治虫とか美空ひばりとか、色々入れてもいい。そうした人達は、確かにそれなりに芸術的に高いものも含んでいるが、それを大衆に開かれた方向へと形を整えていった。今は褒めるような言い方をしたが、同時に、それは本来的に貴族的な性質を持つ芸術・文化の外貌を剥ぎ取り、中身を骨抜きにし、大衆向きの低いものへと変えていったという事だ。これは彼らが悪いというよりも、彼らが時代の子であった事を意味すると考えたい。彼らが天才的な創造力で何かを形作ったのではなく、むしろ時代や歴史が彼らを創造したのだ。
日本は戦争で敗北した。その後、懸命な努力もあって、平和国家という事になり、戦後に経済的・物質的な繁栄を享受した。それと共に、大衆の上昇運動も起きた。そうした中で着目したいのは、価値観の定在化である。ポストモダン的な「戯れ」が価値を見出されるのは、そもそも社会の中での価値観が固定された上での事であろう。なぜなら、既定の価値観があるからこそ、そこからはみ出したり、ずらしたりするものを、意識の上っ面で、遊戯として楽しむという運動が起こる。
村上春樹の小説はそのあたりの事情をよく示している。村上春樹は、消費社会に対して本気で挑みかかる気はない。そこでの楽しさ、心地よさを背後に残しつつ、それに対して疑ってみたり、はみ出たり、冒険してみたりしながら、また最後に自分が取っておいた価値観に帰っていくのである。既に決まったものがあるからこそ、そこからのズレやはみ出しを楽しむという、思想的遊戯が現れてくる。それが可能なのは、自分達の既定の価値観に自信を抱いているからである。しかしその自信とは、戦後に作り上げられた物質的幸福であり、それ以上のものでは決してない。ここに、現代の作家がどれほど深刻ぶろうと、どこか浅い、薄っぺらいものになってしまうという原因があるのではないか。
もう少し話を拡大しよう。既定の価値観があるという事は、安定した社会基盤がある事と照応する。そこからはみ出たり、そこからずれたりするのを時に楽しむとしても、それは決して自分達の基盤を揺るがすものではない。むしろ、基盤を盤石にする為のものである。お笑い芸人の存在などもそれにあたるだろう。芸人の「ボケ」とは、「常識」「普通」からはみ出たものを演じる事だ。それを「ツッコミ」によって元に戻すのだが、それはそれを見ている我々の常識を肯定するものに感じられる。言い換えれば、お笑いは罪のない「いじめ」に似ている。いじめは、自分達の価値観や存在を認証する為に、そこから排除されたものを意図的に作り、それをみんなで攻撃する。攻撃している間は「みんな」の一体感が得られる、というからくりである。ただ芸人の場合は、いじめられる立場の存在がフィクション・芸としてやっているので、いじめとは違うだけの話だ。
要するに、現代にあるサブカル的なものの全盛というのは、我々が、自分達の社会基盤に自信がある故に生まれるものである。それらはいずれにしろ遊戯的なもの、趣味的なものであり、自分達の社会の根底とか、自分達の生そのものに対して疑ったりはしない。デカルトは全てを疑う事で近代性を確立したが、我々には「全てを疑う」という事の意味がそもそもわからない。我々の意識のある部分は局部麻酔を受けており、その箇所を意識する事はどうしてもできない。しかし、現在の状況を見れば、そうして確立された社会基盤そのものが崩壊していっているのが如実に現れているのがよくわかるだろう。だから、本来的に村上春樹らの世代が確立された価値観も「アップデート」する必要があるが、人はそういうものに目を留める気はない。奈落を見るよりは過去の栄光に浸る方が楽だからである。