プロローグ2
あともう1話くらいプロローグが続きそうです。
母親は私を高校になど行かせる気はさらさらなく、卒業したらすぐに家を出ていくように、と中学の入学式の日に母は言った。
中卒で働ける仕事に碌なものはないと母を見て学んでいたので、入試で成績が上位に入れば奨学金が貰える制度を導入しており、且つ寮もあるという打ってつけの私立高校を見つけて受験した。
勉強漬けの日々が功をなし、無事首席で合格。寮に入れる日の前日には少ない荷物と、邪魔な娘がようやく居なくなると上機嫌な母親が珍しくくれた交通費を持ち、なんの愛着もない家と一応血の繋がりがある女を一瞥して扉を閉めた。
交通費だけでもくれたことに感謝しながら荷物を背負って駅へ向かう。
バスを乗り継ぎ旅路を進み、もうだいぶ学校に近づいた。寮の近くに止まる路線バスの一人席に座りながら外を眺める。
私の他にお客さんはおらず、のんびりと流れ行く景色を見ながら、一つあくびをした。
通り過ぎたビニールハウスの中には緑の苗が行儀よく並んでいる。田んぼに張ってある水に、トンボが反射して映っていた。
またしばらくすると、畑を耕す男性とバケツを運ぶ小さな男の子が目に入った。男の子は楽しそうに笑っていて、父親なのであろうその男性も、幸せそうに微笑んでいた。
とうの昔に諦めていたのに無意識のうちに羨ましいと思っていたのか、なんだか胸が締め付けられるような感覚に陥り、目を逸らした。
それから十分ほどただ外を眺めていたら、目的のバス停に停車した。ちょうどここが終点だったみたいだ。
歩いて寮に向かい、入り口の扉を開けて静かに中に入る。寮は綺麗な木造の建物だった。少し古めかしいのだが、それがなんとも心地の良い雰囲気を醸し出している。管理人さんの話だと、残念ながら近々ここは取り壊される予定らしい。まあ、私立のお嬢様たちからしたらここは随分寂れた建物に見えるのかもしれない。
私の家より何倍も綺麗だというのにここが無くなるなんて、もったいない。
部屋は、2階の奥の角の部屋だった。どうやら全部で4階まであるらしい。1階には食堂や家事部屋があり、2階、3階、4階と階が上がるごとに学年が上がっていくみたいだ。
家に届いた入学説明書には南側の日当たりの良い部屋が割り当てられていたはずだが、何故か渡されたのは1番北の端にある部屋の鍵である。一応管理人に確認してみるが、
「夏でも過ごしやすいだろうからその部屋に変えただけよ。さっさと行きな。私は忙しいんだ。」
と言う。怒ったように席を立ち、奥の部屋に入ってしまったので、誰もいない受付に礼を言ってから階段を上る。
壁にかけてある写真や絵を眺めながら長い廊下をゆっくりと歩き、1番奥の部屋に入る。扉を開けるとキィ、と少し音がなった。
部屋に置かれているベッドに感動したのは言うまでもない。今まで布団もなく、寝るところは薄いカーペットの上だった私にとって、これほど柔らかい寝具を使うのは初めてだった。
しばらくベッドに寝転がっていたが、早めに準備を済ませてしまおうとタンスを開け、家から持ってきた服をしまった。家から持ってきたと言っても私の持ち物は全てリュックに収まるほどの量だったから、一段目の引き出ししか使わなかった。バイトを始めてお金を稼げるようになったら、好きな服を街に買いに行こうか。
窓のガラスが曇って外が見えなかったので、窓を開けてベランダに出る。少し向こうに道路があり、その奥には田んぼが広がっていた。触れられる距離には桜の木がある。
冷たい風が吹いて、半袖の露出した腕に針のように突き刺さり、身震いした。これが世の中で言う“過ごしやすい”か…。だいぶ寒いし、近くに桜の木があるから毛虫に悩まされそうだ。楽しみなのはもうすぐ咲くであろう桜の花だけだな。
部屋のところどころが薄く埃をかぶっていて、しばらく誰も住んでいなかったことが窺えた。恐らく掃除もきちんとしていなかったのだろう。シーツだけを綺麗にしただけみたいだ。
それでも、嬉しい気持ちは変わらない。
母親に罵声を浴びさせられる事のない、私だけの空間をようやく手に入れたのだ。
きっと、ここでは落ち着いた幸せな日々を過ごせるだろう。ベッドに座り、ホッと息を吐く。
疲れたのだろうか、夕飯を食べる前に寝てしまった。
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翌日、入学式までに少しでも綺麗になろうと寮にある大浴場に入ったのだが、まだ上の学年がいる時間だった。
まあいいか、特に知り合いはいないし。そう思った私は浴場のドアを開けた。一瞬静まり返った気がしたが、あまり気に留めずにシャワーのところまで歩いて座った。髪を洗うために石鹸じゃなくてシャンプーが使えることに驚いて、しばらく洗っていなくて汚い髪を一生懸命こすっていた。
「…ひゃっ」
いきなり冷水を後ろからかけられ、驚いて後ろを振り返る。最初のそれを合図にバシャバシャと何度もかけられて呼吸がうまく出来ない。途切れ途切れに息を吸おうとするものの、必死の抵抗も虚しく水を吸いこんでしまい、ゴホゴホと咽せた。
ようやくそれがおさまって目を開けると、半円を描き壁のように立ちふさがる上級生たちが桶を手に持っていた。初めて桶が武器に見えた瞬間である。
「上級生が入っているこの時間帯は下の学年は入らないっていうのがこの寮のルールなの。そんなことも知らないの?それに…ふふっ、きったないわね。溝鼠みたい。」
周りから嘲笑が漏れる。どこかで見慣れた状況に、辟易とした。
「さっさと出て行きなさいよ。お前みたいな薄汚いゴミなんてこの学校に似合わないわ。管理人が言ってた気味の悪い子って、お前のことだったのね。
…あら、恨むなら学校を恨みなさいよ。ほんと、貧乏人を入れる制度なんか作るからこんなことになるのよ。」
ああ…思い出した。新しい生活に上機嫌になっていたので忘れていたのだ。いや、忘れようとしていただけかもしれない。
少しだけ、期待をしていた。
他にあった奨学金制度と寮がある学校の中でもここを選んだのは、学校の偏差値が比較的高かったからだ。
賢い人間ならば人を虐めようとはしないだろう。
と、思っていた。
急に今、そんな甘い考えをしていた自分が情けなくなってくる。
こういう人の悪意は、金持ちも貧乏人も、頭の良し悪しも関係ないのかもしれない。
わかっていたじゃないか。
経験してきただろう。
いつだってどんな人間だって、誰も自分を救おうとしないじゃないか。
忘れようとしていた。
現実から目を逸らしていた。
きっと、私は一生孤独なのだ。
罵声と投げつけられる椅子を背に、フラフラと浴場を出て、逃げるように部屋まで走ってドアをバタンと閉める。
そのまま座り込んで、しばらく動けなくなった。
視界が、小刻みに揺れていた。