薬屋左近
梅雨の前触れの雨が続いていた。左近は三日月岩の横の掘っ立て小屋に寝そべっていた。
「また雨か。何という天の巡り合わせだろうな。浴衣が乾かない。『おまえに嫁は与えない』と言われているみたいだ」
義弟にも妹にも内緒で青池に来た。浴衣が無ければ帰ればいいし、あっても帰るかもしれない。このしきたりの思惑を知りたいだけだ、掘っ立て小屋に探りを入れて、気が済めば帰ればいい、そんな気持ちでいた。
だが、池の水面に漂う浴衣を見た途端、左近は続行を決意した。
その浴衣は紺地に白抜きの紫陽花だった。胸元と裾に煩くない程度に紅い額紫陽花が配してある。その品の良さと季節感が気に入った。
左近は、「三十も過ぎてしまった自分にはもう少し大人っぽい柄の相手が良かろうか」とも思うが、「相手も婿を探してのことなのだから、全くの小娘というわけではあるまい」などと思い巡らした。
勝実の例からいって、池の水はしっかり乾かさないと危ない。火山性の強酸性水なのだろうと予想している。浴衣を水から引き上げたときも、扇型に枝分かれした木切れを何本も使い、素手で触らないように、岩の上を引き摺らないように入念に扱った。
浴衣は綺麗に仕立てられていたが、針目は少々のたのたしていた。何故か銀糸が使ってあり、運針のぎこちなさが目立つ。
――可愛らしい。
母親に習いながら慣れない裁縫をする姿などを想像してみるのも一興だった。
左近はまず小屋の周りを調べ、焚き木を集めて火を熾した。倒れかけの掘っ立て小屋に囲炉裏があったのは幸いだ。
裏の登り坂のほとりには湧き水があり十薬が咲いていたので、「お茶にでもするか」と天日干しした。
後は持ってきた本を読みながら浴衣が乾くのを待てばいいと思ったのだが、二日目からは雨だ。
「これではいつご本人に会えるやら。まあ、三十年心揺さぶられる相手に出会えなかったのだ。この二、三日で焦っても意味はない」
そう思いながらも恐怖心が欠片もないと言えば嘘になる。
「この小屋に手掛かりがあるのだと思っていた」
もし仮に明日、浴衣が乾いたとしても、左近はいったいどうしたらいいのかわからないのだ。御山には自分の村以外に、北、東、西村がある。三日月岩の上に延べてある浴衣はいったいどの村から来たのだろう?
この小屋に村名と住所なり、道順なりを記した書きつけでもあると予想していた。
小屋の裏の坂を上がれば頂上はすぐそこらしいが、どちらの村に降りればいいのか? そこに道標でもあり、目的の村名に紫陽花の花でもあしらってあるのだろうか?
「白の単衣の女性」を見つけるまで、村々をしらみつぶしに歩けということなのか?
「所帯を持つのにこんなに度胸と体力が要るものだろうか?」
独り言をいっては苦笑いし、お茶を口に含んでは読書を続ける。念のために持ってきていた煎餅をかじる。たまに小屋を出て、浴衣が池に落ちていないか確かめる。そんな時間を過ごしていた。