松賀騒動異聞 第七章
第七章
「木幡さん、小川江筋をご存知ですか?」
小泉さんが私に尋ねて来た。
「ご存知ないんですか。忠興は新田開発に熱心な殿様で、小川江筋とか愛谷江筋という用水路を作り、田んぼに夏井川の水を引いて新田二万石の増収を図ったのです」
微笑みながら、更に続けた。
「では、沢村勘兵衛という侍のことは知っていますか?」
私は赤面した。
「すみません。江筋のことも、沢村なにがしも全然知りません」
小泉さんは私の返事を聞いて、いろいろとコピーを私に見せながら、説明してくれた。
小川江開鑿(開削)に関する記事:内藤侯平藩史料
(本記録は明治三十五年六月内藤藩史編修に従事した大島正武氏(旧藩士)が平地方に
出張取材したものである。本来の内藤家にある記録によったものでは無いとのこと。
昭和三十八年刊行の平市教育委員会刊の文化財調査報告(一)小川江 に記載されて
いる文章)
按るに世の伝うる所は慶安三年夏旱魃にて諸村水に乏し
郡奉行沢村勘兵衛勝為諸村を巡検し始て渠を掘るの念を起し
夏井川を引き山趾に沿い関場村より四倉村に至る長凡六里余
之れが絵図を製し食禄五百石の内三百石を返納し費用に充て川堀りに従事せん事を請い
承応元年二月十五日を以て工事を始め堀て平久保の横山に至れば山嘴江水の衝に当り
堤崩れ水漏る
勘兵衛苦慮すれも其方を得ず将に自殺せんとす
偶々大日如来岩に洞せば成らんと告ぐるを夢む
依て人夫をして岩を鑿しむれば
数萬の蛇盤結せり
勘兵衛為に蛇塚を築き大日堂を建立し
除地五石を寄附す
凡そ役する所の人夫は郡中を総べ一日幾百人と為し昼夜営作せしめ怠る者は鞭縛し或は
死刑に処す
此の如くする三年三月にして其功全く竣る水門大小十七所灌漑及ぶ所殆ど千町歩
折節讒口者あり
責むるに私に除地を寄附するを以てす
之れに依て切腹申付らる
勘兵衛慨然として云う
我一生の事業既に就る
国家に報する所無きにあらず
死とも復何ぞ憾んと絶命の歌一首を詠し
腹十文字に屠て死す
時年四十三
(筆者注記:郡奉行は藩領村を支配、統括する役目で、領内の生産力状況を全体的に把
握し、適宜、代官に指示を与える。貢租率決定など領村の仕置についての一切の権限
を持たせられていた。)
【現代語訳】
伝えられているところでは、慶安三年の夏は旱魃で村々は水が乏しかった。
郡奉行の沢村勘兵衛勝為は村々を巡検して廻る中で、渇水の状況を見て、堰を掘ろうという決意を固めた。
夏井川の水を山沿いに引き、関場村から四倉村までの長さ、大体六里あまりとなる。
この工事の絵図を描き、俸禄五百石の中から三百石を藩に返納する形でこの工事の費用を捻出し、河川の掘削工事を行うことを藩庁に請願した。
承応元年二月十五日からこの工事を始め、堀り進めて、平久保の横山に至ったところ、山裾の岩盤が邪魔をして、築いた堤を崩し、水が漏れだすという事故が起こった。
勘兵衛はいろいろと対策を施し、対応に苦慮したがどうにもうまく行かず、自殺まで考えた。
たまたま、大日如来が現われ、岩をくり抜き洞門を通せば解決すると告げる夢を見た。
それで、人夫を使って岩をくり抜こうとしたところ、数万という蛇が集結、屯していた。
そのため、勘兵衛は蛇塚を築いて、さらに大日堂を建立し、その堂に除地(租税免除の土地)として五石を寄進した。
この工事で使役した人夫は日あたり数百人という人数で郡内から集め、昼夜交代で工事を行い、怠ける者に対しては鞭で打ったり、死罪に処した。
このようにして、三年と三ヶ月という期間で工事は完成した。
造った水門は大小合わせて十七ヶ所、灌漑が及んだ土地は千町歩といったところであった。
この時、讒言する者が居た。
その者は、勘兵衛が個人の判断で除地を寄進したと責めた。
そのため、勘兵衛は切腹を仰せ付けられた。
切腹に際して、勘兵衛は昂然たる意気を示してこのように語った。
我が一生の事業は既に終わり、ここに完成した、
国に報いるところ、無いわけではない、
ここで死すことに何の惑いも無い、と言い、辞世の句を一首詠みあげた上で、腹を十文字にかっさばいて死んだ。
享年四十三
諸根樟一著「磐城郷土史」からの抜粋
江筋の義人 沢村勝為
勝為は通称を勘兵衛と称し、平城主内藤政長の臣にして始め三百石の知行を受け、後ち
政長の子、忠興の代に至りて五百石に進み、郡宰の職を勤めた士である。人となり廉恥
を重んじ、忠孝仁義の志厚く、且つ其の領民を利する為に、承応年中、小川江を開鑿し
又続いて愛谷江をも掘鑿せんとするに、讒者の為に反って刑戮の惨に遭い、寺前一片の
煙となり了りしが、彼れの世を益したる洪大なる行為と彼れの至誠の人格は、我が磐城
の江筋の開鑿恩人として永遠に伝うる要あらん。
勘兵衛磐前郡の郡宰となりてより鋭意事に従い、頗る治績あり。然るに管内の耕田灌漑の便を欠き、農民ともすれば旱害に苦しむ。勘兵衛、地形を熟視し渠を穿つの志を立て、
藩主に請うに自家の食禄五百石の内三百石を返上して以て資に充て、工を起こさん事を以てす。藩主之を諸臣にはかる。皆曰く可なりと、乃ち許さる。勘兵衛大に喜び、直ちに工を起す、實に承応元年二月の事なりき。
勘兵衛寝食を忘れて奮励工を督し、拮据経営する事三年にして工全く成る、名づけて小川江堰と云う。夏井川の上流を堰して之を渠に導き、小川・平窪・神谷・草野・大浦・
大野・赤井等の諸村を過ぎて四倉に到って海に入る。流程七里余、山を掘る事二、水門大小十七、灌漑の及ぶところ一千余町歩、遺沢百世に洽し。
初め、勘兵衛の工を督して渠を鑿するや、平久保に至る山嘴夏井川の衝に当り、堤崩れ水漏る。勘兵衛苦心すれど成らず、一夜枕上に佛あり、曰く、岩に洞せば即ち成らんと、告ぐるを夢む。翌日、其の言に従いて岩を穿つ、時に蛇群数萬、盤結するに逢い、塚を築きて之を埋め、利安寺を建て附するに余地五石を以てす。工全く竣るや、奸侫の徒、其の功を嫉み、口を私に除地を附するに籍りて大に之を藩主の讒す、藩主遂に死を賜う。
勘兵衛慨然として曰く、志既に成る、死何ぞ憾むに足らんやと、従容屠腹して死す、実に明暦元年七月なり。(切腹場所は平町字大館西岳寺、七月四日、時年四十三)
小川渠の灌漑に浴する一町七ヶ村の民、深く勘兵衛を徳とし、明治九年十二月、官に請うて地を神谷に卜し、社を建てて勘兵衛の霊を祀り、沢村神社と号す、崇敬甚だ厚し。
明治三十四年十一月、一町七ヶ村の水利組合会の決議に依り、金千五百円を拠出して之を後裔に贈り、以て其の徳に報ゆ。
(当時、勝為は此の江筋開鑿中は、農民及び漁夫等昼夜各所に数百人の人夫を割り当て
て使役し、若しも工役を怠り或は罷業するものある時は、城主より死刑囚を下げ受け
て使役夫に装わせ、彼等が作業場の面前にて手討にし、或は絶目、死罪等の刑に処し
て、一昼夜交代の激烈な労役を課した、とも云われている。)
また、辞世として、次の句が残されている。
「君が為め 民家の為めは 勝為の 名は末代に 菩提ともなれ」
【現代語訳】
江筋の義人 沢村勝為
勝為は通称を勘兵衛と称していた。平城主・内藤政長の家臣で始めは三百石の知行を受けていたが、後になって、政長の子、忠興の代になって加増され五百石となり、郡奉行という職を務めた武士であった。その人となりは、廉恥を重んじ、忠孝仁義の志も篤く、且つ領民に利益をもたらすことを目的として、承応年間において、小川江を開鑿し、また引き続き、愛谷江も掘削しようとしたが、讒言によって刑死することとなってしまった。しかし、沢村が地域に対して行った貢献と人格の至誠さは我が磐城の江筋開鑿の恩人として永遠に顕彰されるべきである。
勘兵衛は磐前郡の郡奉行となって鋭意仕事を行い、大きな業績を残した。しかし、管轄している耕田は灌漑の便が悪く、農民は旱害に苦しむことが多かった。勘兵衛は地形をじっくりと視察し、堰を開鑿するという志を立て、藩主に、自分の食禄五百石に中から三百石を返上して、その三百石を資金にして開鑿工事を行うということで工事の許可を求めた。藩主は勘兵衛の申し出を家臣に諮った。家臣たちは許可しましょうと言い、藩主は工事実施を許可した。勘兵衛は大いに喜び、直ちに工事を起こした。それは承応元年二月のことであった。勘兵衛は寝食を忘れて工事監督に奮励した。工事を始めてから、三年で工事は全て完成した。その灌漑用水は小川江堰と名付けられた。夏井川の上流に堰を設けて、水を用水溝に導き、小川・平窪・神谷・草野・大浦・大野・赤井といった村々を通って四倉まで流れて海に入る。用水の流れる距離は七里あまりで、この間、山を掘ること二ヶ所、水門は大小合わせて十七ヵ所、灌漑の及ぶところは一千町歩あまり、この恩恵は後世に繋がるものであった。
しかし、当初は、勘兵衛が工事を監督して用水溝の掘削を始めたところ、平久保の山裾が夏井川と接するところにあり、築いた堤が崩れ、水が漏れた。勘兵衛がいろいろと苦心したがどうもうまく行かなかった。或る夜、夢の中に仏様が現われた。その仏様は勘兵衛に、岩に洞門を掘って用水路とすれば解決すると告げた。翌日、夢に見た仏様の言葉に従って、岩に洞門を掘ろうとした。しかし、蛇が数万匹も群を成して至るところに居たので、工事の前に塚を築いてこの蛇の群を埋め、利安寺という寺を建て、除地五石を寄進した。しかし、工事が全て完成するや否や、悪心を抱いた奸侫のやからが勘兵衛の功を嫉み、除地を個人的に寄進したとして藩主に讒言した。藩主もとうとう勘兵衛に切腹を命じた。勘兵衛は昂然とした態度で、志はもう既に達した、死は悲しみ恨むことではないと言い、従容として切腹して果てた。これは、明暦元年(一六五五年)七月のことであった。[切腹場所は平町字大館西岳寺、七月四日、亨年四十三]
小川江筋灌漑の恩恵に浴している一町七ヶ村の民は深く勘兵衛を徳として、明治九年十二月、官庁に請願して、卜して土地を神谷に決め、そこに神社を建てて勘兵衛の霊を祀り、沢村神社と名付けた。その神社に対する崇敬は非常に篤いものであった。
明治三十四年十一月、一町七ヶ村の水利組合会の決議により、金千五百円を拠出して、勘兵衛の子孫に贈り、その徳に報いた。
鈴木光四郎著「磐城平藩政史」からの抜粋
磐城平藩は新田開墾によって増収をはかるため、小川江筋・愛谷江筋の開発に藩をあげて努力した。水田の多量造成の基礎は、大規模な用水路の開発である。・・・
内藤氏入部以降、平藩領内に開かれた小川江筋は、近世初期の大用水路開発の典型的なものである。平藩領内の主要河川である夏井川は、河床が低く平地に直接に水を揚げることは、当時の技術では不可能であった。よって、上流に堰をつくり、新しい用水路に水を引き入れ、その用水路の各所に水門を設け、そこから水を平地に落すのである。小川江筋は夏井川河口から十八キロ遡った下小川関場に堰を設け、そこより用水路を山沿いに延々と引き廻し、各所に水門を設けて、そこより、さらに小用水路に水を落し、それを引いて水田を作った。・・・
寛永十年(一六三三)磐城平藩主内藤忠興は、関奉行安田靭負を証人として、下小川村庄屋忠右衛門、弥右衛門、長左衛門、与左衛門、小右衛門、与三兵へ、惣百姓中を代表者として灌漑用の小堀を寺の境内を借用して掘りたいからお許し願いたい、この替地に新田二反歩を差し上げると長福寺に申し込んだ。
それから五年後の寛永十五年(一六三八)に小川大堰が竣工した。
普請奉行として、沢村勘兵衛、今泉又兵衛(二百五十石)の名前がある。
沢村勘兵衛は当時三百石取りであった。
寛永二十一年(一六四四)、藩は平窪地区の新江の開発に着手した。
寛文五年(一六六五)に小川江筋が竣工した。寛永十年の着工から実に三十二年後のことである。
寛文十一年(一六七一)になると、小川江筋の拡張工事が施工された。近藤惣兵衛(義概の家老、五百五十石)、上田外記の連署で長福寺に再度申し入れを行った。
従来の説は、明暦二年(一六五六)にいわき市草野光明寺の歓順という僧によって書か
れた「小川江筋由緒書」が基礎となっていたが、昭和三十八年に長福寺史料が発見された
ことによって、見直されることとなった。
沢村勘兵衛は実在しなかったのでは、という説もあったが、この長福寺史料によって、
普請奉行として沢村勘兵衛は実在したこと、しかも、部下の責任を負って自刃したことが
判明した。
(昭和三十三年に発見された内藤忠興の書簡は、沢村勘兵衛の部下であった太兵衛なる
者の不正行為を責め、勘兵衛もまた、その責を負うべきものである、と述べている。その
書簡の大要は、勘兵衛が部下太兵衛の不正な行為に対して郡奉行としてあるまじきにつき、
「ふちはなし」(扶持放し:禄高没収の意か?)にするといったもの。)
また、勘兵衛は検地の失敗の責任を問われたものとも解釈されている。
いわき地方史研究会編集「いわきの歴史」に次のような文章がある。
領内下舟尾村から訴人があって、勘兵衛の部下の太兵衛に不正のかどがあり、扶持放し申すべしとある。また、太兵衛は縄張りに不正があったとの、大光院百姓からも訴えがあったので、扶持放し申すべく、勘兵衛を罷免せよとのことである。・・・
勘兵衛は検地の失敗と、部下の不正の責を負って、罷免されたことが明らかになった。
この小川江筋の開発により、二万石の新田が開発され、従来の七万石に追加されること
となった。
いわき市発行の「いわきの人物誌(上)」に依れば、沢村勘兵衛関連記述は以下のように
なっている。
沢村勘兵衛は、正しい名前は直勝と云う。
現在の平上平窪に三百石の土地を貰っていた。
父親は、沢村仲といい、九鬼家に仕えていた。
兄は沢村甚五左衛門重勝と云い、同じく政長に仕えた。甚五左衛門も町奉行で三百石で
あったが、やがて郡奉行となり、好間江筋(愛谷江筋となる)
寛永十年(一六三三) 下小川村の夏井川に、江筋のための堰がつくられた。
寛永十八年(一六四一)勘兵衛が郡奉行になり、この江筋を掘り進めることに努力した。
この江筋が小川江と呼ばれるようになる。
寛永二十一年(一六四四)小川江の工事が始まった。
正保二年(一六四五)勘兵衛は江筋の安全を祈り、上平窪村横山に大日如来を祀り、
修験宗の如来寺を開いた。
慶安二年(一六四九)忠興に郡奉行の職を辞めさせられた。
慶安五年(一六五二)中断していた小川江筋の工事が再開されたのはこの年以後
明暦元年(一六五五)七月十四日 勘兵衛が切腹を命ぜられる。
じゃんがら念仏踊りは勘兵衛の霊を慰めるために農民が踊ったの
が始まりとも云われている。
寛文五年(一六六五)小川江の竣工
いわき地方史研究会編「いわきの歴史」
小川江
平藩は内藤氏の入部後、新田開墾による増収をはかるために、用水路の開発に努力した。
その代表的な用水路が、小川江と愛谷江である。
小川江は、近世初期の大用水路開発の、典型的なものである。
平藩領内の主要河川である夏井川は、川床が低く平地に直接に水を揚げることは、当時
の技術では不可能であった。
小川江は夏井川河口から十八キロメートル遡った、下小川関場(堰竣工後に関場と呼ば
れる)に堰を設け、そこより用水路を山沿いに延々と引き廻し、各所に水門を設けて、
さらに小用水路に水を落し、それを引いて水田を作った。
この水路がいかにして作られたかは、明暦二年(一六五六)に領内泉崎村(平泉崎)光
明寺の僧歓順の筆録した『小川江筋由緒書』が長い間引用されていた。それによると、
僧歓順にすすめられた藩の郡奉行沢村勘兵衛勝為が俸禄三百石を返上し、三年三か月の
年月を要して、江筋を完成したと説明されてきた。しかるに、昭和三十八年、いわき市
小川町の草野正辰氏宅から、長福寺文書の一部である、小川江開発の文書が発見された。
長福寺の境内 寛永十年(一六三三)
下小川村関普請について、長福寺の境内に水道を通したいが、この替地に新田二 反を進上したい。寺中を損ずる時は百姓が一致して普請にあたらせる。領主のお 国替あろうとも、新田二反を進上することとしたい、と下小川村庄屋六名が長福 寺惣百姓中に申し出ている。また、関奉行証人安田靭負が添印をしている。
替地の問題 寛永二十一年(一六四四)
このたび平窪新江を通すために、寺中に水道を掘ったが適当な替地がなかったので、
長荒の田を三反をさしつかわすと、年寄りどもが申しているが、この田を必ず相渡す
ように藩からも申付けた、と今泉又兵衛と沢村勘兵衛が連署している。
水路の完成 寛永十五年(一六三八)に水路の一部が完成したことは、次の資料がこれ
を示している。
小川大堰初年号之事
寛永十五寅年成就
普請奉行沢村勘兵衛今泉又兵衛両人相勤当時堰長五十二間幅十五間有之
小川江筋之内大室切貫
小川江筋大室村より末寛文五巳年広く成る其節村々夫食貸有之
沢村勘兵衛の切腹
『小川江筋由緒書』によると、勘兵衛は平窪村横山に蛇塚を築き、一宇を建立して大
日如来をまつり利安寺と号した。この利安寺建立に際して、領主の許可なくして除地
五石を寄進した責を問われ、明暦元年(一六五五)七月十四日、城西の西岳寺におい
て切腹を命ぜられた。時に、四十歳とある。昭和三十三年に藩主内藤忠興自筆の書翰
が発見された。忠興から藩の重役にあてた書状である。これによれば、領内下舟尾村
(常磐下船尾町)から訴人があって、勘兵衛の部下の太兵衛に不正のかどがあり、扶
持はなし申すべしとある。また、太兵衛は縄張りに不正があったとの、大光院百姓か
らも訴えがあったので、扶持はなし申すべく、勘兵衛を罷免せよとのことである。
勘兵衛の切腹については、除地寄進説、寺領無断施工説、讒訴説、キリシタン信仰説、
架空人物説などを生んだが、忠興の書翰によって、勘兵衛は検地の失敗と、部下の不
正の責を負って、罷免されたことが明らかになった。
この磐城には、じゃんがら念仏踊りという、一種独特な郷土芸能がある。
このじゃんがら念仏踊りは、沢村勘兵衛が切腹した明暦元年(一六五五年)の翌年の明暦二年(一六五六年)の盆に、沢村勘兵衛の霊を慰めるために踊られたのが最初であるという説もあり、切腹の原因は別にして、当時の百姓たちが沢村勘兵衛に感謝を捧げたということは間違い無いものと思われる。
昔のじゃんがら念仏踊りに関しては、明治時代に書かれた大須賀筠軒著「歳時民俗記」という文献がある。(引用文献:夏井芳徳著「ぢゃんがらの夏」)
【 本文 】
ぢゃんがら念佛トハ即念佛躍ニテ、男女環列、鉦ヲ敲キ、鼓ヲ撃ツ。
鼓者両、三人、中央ニアリ。
白布頭ヲ約シ、袖ヲ括ル。
之ヲ白鉢巻、白手繦トイフ。
鼓ヲ腹下ニ着ケ、頭ヲ傾ケ、腰ヲ屈メ、撥ヲ舞シ、曲撃ス。鉦者数名、打粧鼓者ニ同ジク、鉦架ヲ左肩ニシ、丁子木ヲ以テ摩敲ス。
鼓ノ数ヲ幾からトイヒ、鉦ヲ敲クヲきるトイフ。
踏舞スル者、之ニ雑リ、鼓者ヲ環リ、鱗次輪行ス。
鉦鼓ニ緩急アリ。
其急ナルヤ、走馬燈ヲ観ル如ク、張三李四、手ヲ振テ走ル。
其緩ナルヤ、一斉ニ唱ヘテ曰ク、なァーはァーはァーなァーはァーはァーめェーへェーへェーめェーへェーへェー。
媚舞巧踏、手ヲ拍テ節ヲ為ス。
所謂じんくおどりニ類似シテ非ナルモノナリ。
其中、男ニシテ女粧スル者アリ。
女ニシテ男粧スル者アリ。
或ハ裸體ニシテ犢鼻褌ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ犢鼻ニ結ビ、後者モ亦こん端ヲ尾垂スルアリ。
或ハ菰莚ヲ鎧トシ、蓮葉ヲ兜トシ、箒、擂木等ヲ以テ大小刀トシ、假面ヲ蒙リ、武者ニ扮スル者アリ。
務テ新ヲ競ヒ、笑ヲ釣ル。
其醜態目スルニ忍ビザルモノアリ。
此ぢゃんがら念佛ハ、獨リ盂蘭盆ノ節ノミナラズ、各神社佛閣ノ宵祭リニモ躍ル。
或ハ開帳、入佛供養、大般若會等ニモ躍ル。
領主ノ法事執行ノ時モ其菩提寺ニ来リ、堂前ニテ躍ル。
當坐ニ酒肴ヲ賜フ。
但、盆中ト宵祭ノ外ハ、男女粧ヲ異ニスル如キ醜態ハナカリシ。
縣治以来、其弊害アルヲ察シ、禁ゼラレタリ。
今ヤ稍々舊ニ復スル模様ナリトゾ。
【 意訳 】・・・夏井芳徳氏の現代訳を参考にさせて戴いた。
誤りがあれば、それは全てこの物語の作者の責に帰する。
じゃんがら念仏はすなわち念仏踊りであり、同じくらいの人数の男女が列をつくったり、輪になったり、鉦を敲いたり、太鼓を敲いたりするものである。
太鼓を敲く者は二人か三人で、踊りの中央に位置する。
白い布を頭に巻いて結び、やはり白い襷で袖を括る。
これを白鉢巻、白手甲と云う。
太鼓を下腹部のところに付け、頭を傾け、腰を屈めたりして、撥を舞うように扱って太鼓を曲打ちする。
鉦を鳴らす者は数名おり、太鼓を鳴らす者と同じ装いをして、鉦架を左肩に掛け、丁子木で鉦を摩るように鳴らす。
太鼓の数を何「から」と言い、鉦を敲くことを、鉦を「きる」、と言う。
踊る人々はこの太鼓と鉦を敲く者たちに混ざり、太鼓を敲く者のまわりを取り巻くようにして、魚の鱗のような輪をつくって踊る。
鉦、太鼓の調子には緩急がある。
早い速度で忙しく敲き鳴らされる時は走馬灯を見るようなもので、踊り手たちは手を振りながら走るように踊る。
鉦・太鼓の調子がゆっくりになると、みんな一斉に、なァーはァーはァーなァーはァーはァーめェーへェーへェーめェーへェーへェー、と唱える。
媚を売るかのようにしなやかに色っぽく舞い、巧みに足をさばき、手拍子を打って節をつける。
この踊りはいわゆる、甚句踊りと似ているようであるが、異なる種類の踊りである。
踊り手の中には、女装する男も居るし、男装して踊る女も居る。
中には、褌一本の裸体となり、褌の端をお尻に垂らし、その端を後ろの人の褌に結びつける。
その後ろの人も褌の端をお尻に垂らし、同じようにして列をつくる。
また、中には、菰・莚を鎧のように着、蓮の葉を兜とし、且つ箒とか擂粉木などを大小の刀に見立てて腰に差し、お面を被って、武士の扮装をする者も居る。
あい争って、新奇さを衒い、人々の笑いを取ろうとする。
あまりの醜態さ故に、見るに忍び難いものも見受けられる。
このじゃんがら念仏は、盂蘭盆の時にだけ踊られるものでは無く、各神社仏閣の宵祭りにも踊られる。
その他、ご開帳、入仏供養、大般若会などでも踊られる。
殿様の法事が行われる時には、菩提寺に人々が集まり、お堂の前で踊る。
その時は、踊った人々に酒肴が振舞われる。
但し、盂蘭盆と宵祭りを除けば、女装・男装といったような醜態振りは無かった。
明治の世になって、じゃんがらを弊習として、その弊害が指摘され、禁止となった。
しかし、現在ではやや昔に戻り始めてきたようだ。
明治六年一月に、当時の磐前県が出したぢゃんがらの禁令がある。(上で言う禁止のこと)
磐城国の風俗、旧来念仏躍と相唱え、夏秋の際、仏名を称え、太鼓を打、男女打群れ、
夜を侵して遊行し、中には如何の醜態有之哉の由、文明の今日有間敷、弊習に付、管内
一般本年より、右念仏躍禁心申付候条、少年児女に至る迄、兼て相達置可申事。
鈴木光四郎著「歴史散歩 いわき 今と昔」からの抜粋
磐城じゃんがら念仏踊り
祐天上人は磐城じゃんがら念仏踊りの開祖といわれている。上人は石城地方の人々が宗教心のうすいことを憂い、農民に娯楽を与え仏教を普及し、思想善導を目的として工夫したという。この念仏踊りは、福島県の石城地方と九州平戸に残っている。
提灯をさげた世話人に引率された十余名の青年会員が、揃いのユカタ、白ハチマキ、白ダスキ、白タビ姿で中央に太鼓を打つ者三名、白い毛のバチを両手に持って、姿振り美しく太鼓をたたき、他の者は鉦を切り輪になって進む。
太鼓には「南無阿弥陀仏」と書かれた布に包まれている。
まず、念仏踊りがはじまり、その合間に
磐城平で 見せたいものは
桜ツツジと じゃんがら踊り
が唄われ、更につづいて
盆でば 米のめし オツケでばナス汁
十六ササゲの ヨゴシは どうだ
と唄われ、その間に「ナーハーハイモーモー ホーメーヘーヘイ」の調子のよい歌が続く。これは、「南無阿弥陀仏」を音楽的に直したものといわれている。この前歌には、深い意義があるといわれている。即ちお盆に白米のメシとナス汁やササゲ豆のヨゴシを食べて栄養をとることができるのは、仏教を信仰しているためであるという素朴な農民の喜びを示している。同時に封建社会の農民が、稲作をしていても白米を食べることが許されない苦しみを乗り越えて、年に一度許される最大のご馳走であることも想像されて、涙ぐましい農民の耐乏生活の一面が、うかがわれるのである。この前踊りが終ると、鼓手の動きと共に鉦を切る若者の輪踊りがつづく。
「じゃんがら」の名称については、自安我楽説もあるが、鉦を切る音から出たものであろう。毎年、盆の十三日には石城地方の各村々で、十四、十五日には平市を中心に行われている。
いわき市史の中の一節:
六月十四、十五日は夏祭りの始まりで、波立薬師でじゃんがら念仏踊りで夜を過ごす。
(途中、略)
七月二十九日が赤井嶽薬師、縁結びと安産を願う男女で夕刻から明け方までお山は人で埋まる。じゃんがら念仏踊りの輪が出来、夜明けまでこの輪はくずれない。踊りのなかで男に袖を引かれた女はその男と交わりを結ばなければならない。しかし、それはその一夜だけのこととして済んだ。なかにはその一時の縁が生涯の縁となることもあったという。
「史書に依れば、沢村勘兵衛は明暦元年七月十四日に切腹して果てた、ということになっています。翌年の明暦二年(一六五六年)七月十四日の祥月命日に勘兵衛の霊を慰めるために踊られた念仏踊りが磐城名物のじゃんがら念仏踊りの発祥であれば、とてもロマンティックな話なんですが、果たしてどうでしょうかねえ。それはそうとして、沢村勘兵衛は松賀族之助と同時代の人なんです。沢村が切腹した明暦元年における関係者の年齢を言えば、忠興は五十四歳で、世子の義概が三十七歳、義概次男の義英は江戸で生まれたばかりの赤ん坊で、族之助は義概より十歳若いとすれば、二十七歳の青年藩士です。内藤氏としては磐城平に来てから、三十年と少し過ぎた程度で、まあ藩としては創世記の方ですね。忠興はなかなか新田開発に熱心な殿様で、検地表高七万石の領地をもっと増やしたかったんでしょう、沢村たちに命じて、小川江筋・愛谷江筋と呼ばれる灌漑用水路を積極的に造らせて二万石ほど増収させたという話です。地形的には元々、夏井川の流域が新田としては有力な地域だったのですが、あいにく、夏井川は低地を流れており、水を引き揚げることは物理的に出来ない地形でした。そこで、夏井川の上流、つまり水位の高いところから延々と水路を導いて新田候補地に水を引いてくるという大がかりな用水路開発を目論んだわけです。沢村勘兵衛にはいろいろな伝説があります。五百石の俸禄から三百石を返上して工事費用を捻出したという美談はどうも真実では無かったようで、伝説では勘兵衛は相当美化されています。忠興自筆の書が発見されて、勘兵衛切腹の理由が明らかになったわけで、勘兵衛美談の伝説は少し色褪せてしまったのですが、まあ、それにしても当時の殿様はいともたやすく家臣を切腹させてしまうのですな。殿様自筆の書ではあっても、書かれている内容が真実とは限りませんよ。まさに、讒言によって、殿様がそう信じてしまえば、当時は、はい、それまでよ、なんですから。まさに、家臣の生殺与奪の権限を握っている殿様は絶対的な存在なんですから。讒言だったとしても、殿様が真実だと信じて、一度命を下せば、誰も逆らえず、その命に服するしかないわけです。沢村の罪が真実であろうと、本当は讒言であったとしても、沢村勘兵衛は従容として切腹し、死後に美しい伝説が残ったというわけです。讒言、嫌な言葉ですね。ここに、丁度、電子辞書がありますので、言葉の意味を再確認してみましょう。広辞苑に依れば、讒言、人をおとしいれるため、事実をまげ、また、いつわって、(目上の人に)その人を悪く言うこと、また、その言葉、と記載されています。でも、こればかりじゃない。事実をまげたり、いつわらなくとも、事実をきちんと確認しないで、いわゆる噂、風評、世評、風説を意図的に上に流すという場合も讒言の範疇に含めるべきと思います。木幡さんも会社を退職されるまでの三十年という会社生活の中で結構この種のことを経験しているんじゃないですか。私も何回か、経験していますよ。かと言って、お前は讒言したことが無いのか、と詰問されれば、絶対無いとは言えぬ、もどかしさがあり、内心忸怩たるものがありますね。事実をまげたり、いつわるといった嘘つき行為では無く、私が後に追加した噂・風評を意図的に流したという観点で過去の自分を検証した場合ですけれど。他人が功績を上げて、自分を追い抜いて出世していく、という状況をニコニコと見るほど、男の器量は大きくは無いものですからね。いつか、見ていろ、という感情が自然です。この観点から、沢村勘兵衛事件のみならず、松賀族之助時代の浅香事件、小姓騒動、正元・伊織時代の松賀騒動を見直すことも大切と思っています」