第2話 黒い素肌か白い化粧か【前編】
その任務を受けたとき、久々の快感を感じた。まるで処女に自分の裸を見せつけ、驚き畏怖し、これからの行いを想像して理解するのに躊躇う女のその反応をじっくりと見たときのように。
こんなことをすればどうなるか。世界がひっくり返るかもしれないが、自分の鬱憤を晴らすにはこれ以上、最高級の舞台がないことは間違いなかった。
2020年 初頭 尖閣諸島
「こちらは日本国海上保安庁である。ここは日本国の領海内であり、直ちに貴船の離脱を要求する」
PL巡視船『ざんぱ』は、航行する中華人民共和国の国旗を掲げ航行する調査船に向け中国語で警告を発していた。
尖閣諸島が国有化されてから10年近くが経つが、今だにこの状況は変わらない。むしろ、酷くなっている。
2010年代後半から失速した中国経済であるが、それでも何とか国家としての体裁を中国は成していた。それでも各自地区の、特にウイグルやチベットが独立を宣言し、武装警察や人民解放軍を派遣して鎮圧するという事態が頻発していた。
また、いくら国家としての体裁が成していても旧ソ連の末期やロシアの最初がそうであったように、経済的問題が発生している今の中国に心から仕える人間がいるかどうか疑問でもあった。
だからこそ、中国共産党指導部は国威発揚と外部へ国民の目を向けされるためにも、対外行動が年々と強烈化しており、フィリピンやベトナムと小競り合いが発生したこともあった。
それでも大規模な紛争に発展しないのは一方から見ればそれでも中国が強大な軍事国家であり、また中国も長期的な紛争が起こせるほど余裕がないためでもあった。
それでも現場にしてみれば十分恐ろしかった。しかも、今まである程度の自制があったのにそれが無くなっているのだ。おまけに多くの人民が経済的困窮に堕ちている。
「どうせ失うものなんてない」と言って、突然一軍人が命令無視の独断でボタンを押したとしても何ら不思議はない。だから、『ざんぱ』の乗組員も日々緊張の毎日を送っていた。
唯一の救いは相手が海洋調査船で非武装であることだ。
『ざんぱ』船長が対水上レーダーに新たな反応の報告を受けたのは調査船が接続水域外に離脱してから直ぐだった。反応が大きく、先ほどの調査船よりも大型の船であることが伺える。僚船のPL『くにがみ』からも連絡が来た。
と、指揮船を務めるPLH巡視船『おきなわ』船長から『くにがみ』に対して接近が指示される。
今頃『おきなわ』搭載のS-76Dヘリコプターに緊急発進が発令されたことだろう。それとも付近を飛行しているであろうファルコン900が先か。
暫くすると、遠くにいる『おきなわ』の甲板からヘリが発艦(船?)するのが見えた。そして、船橋に出た『ざんぱ』船長の耳には金属音に似たジェット機の音が聞こえていた。それがファルコン900であることは、この海域に何度も来ている船長には容易に識別がついた。きっと対水上レーダーには接近する『くにがみ』が映っているだろう。完璧であった。
仮に新たな方角から別な船舶が来れば『ざんぱ』が対処する。それでも足りなければ後方に控えている別な巡視船が対処する。それでもダメなら石垣に待機している巡視船艇や航空機を派遣すれば良い。少なくとも国有化当時よりは現在の尖閣警備体制は完璧であった。
何気なく、『ざんぱ』船長が『くにがみ』がいるであろう方向に双眼鏡を向けた時、その方向から強烈な光が見えた。我が目を疑い一度双眼鏡から目を離すが、さらにその光景ははっきりと見て取れた。
凄まじい閃光、大きく破裂する火球、大きくブチ上がる水柱、もくもくと上がる黒煙。そして遅れて響く爆発音と何かを連続して発砲する音.....。
いつも現場にいながらも、どこか忘れて久しい現実。起こり得る事態であるのに否定してしまう感覚。
想像が付かなかった「実戦」は、今受け入れ難いその光景と共に『ざんぱ』船長の目に焼き付けられていた。
「こちら『ちゅらわし1号』!、目標は大型の軍艦、『くにがみ』に向け発砲、これより退避する。ぬわっ!」と無線が絶叫を上げた。
謎の軍艦は容赦が無かった。慌てて退避しようとするファルコン900に発砲し、無情にも突き刺さる機銃弾、きらめく金属片。船内無線に響く断絶魔。
赤い火球と化したファルコンから二度と音声が発せられることは無かった。
30分後 第11管区海上保安本部(那覇)
巡視船一隻と航空機一機が失われ、やむなく尖閣諸島近海から全ての巡視船艇と航空機を退避させたのは間違いなかったと第11管区海上保安本部本部長は思った。
第一報を聞いたとき、すぐに決断したのは自分達の手に余るだけでなく、もはや「領海警備」どころの騒ぎではないからだ。こっちは武装をしていてもせいぜい機関砲程度の相手を想像しているのに、あっちは大口径砲の軍艦なんて民間人が武装した軍人に小石を持って挑むようなものだ。
あとは自衛隊に匙を投げる。それが本部長、そして霞ヶ関の本部の方針であった。
の、はずであった。
更に35分後 総理官邸地下危機管理センター
会議室正面にあるスクリーンには、海上自衛隊那覇基地から緊急発進した哨戒機P-1が撮影した画像が投影されており、その画像は問題の「軍艦」をしっかりと詳細に捉えていた。
予算委員会を抜け出し集結した、もしくは各省庁から呼び出された閣僚は事実上の「NSC(国家安全保障会議)」における「緊急事態大臣会合」の体裁を成していた。既に自衛隊制服組トップの4人の幕僚長と海上保安庁長官も集合している。
「それでは始めます」と口火を切ったのは緑色の制服を着用した統合幕僚長であった。眼鏡をかけ、背の小さなその姿は近所にいる良きおじいちゃんといった風貌だ。おまけに白髪だ。
「詳細は皆様のお手元の資料を読んでいただきたいと思います」と前置きした上でレーザーポインターを持ち寄りながら話を進めた。
「海保(海上保安庁)の事情は後ほど佐藤長官からご説明して頂くこととして、すでに古谷防衛大臣から海上警備行動が発令されたため、まず佐世保基地から護衛艦3隻、現場周辺を航行していた護衛艦2隻と哨戒機3機が急行しております。この画像は現着した哨戒機が撮影したものです。また、潜水艦がすでに対象艦の後方に付いています。他に早期警戒機1機が既に展開し、更にその後方に対する監視を実施しています。なお、警備行動の範囲外としてはまず那覇の海自(海上自衛隊)1個航空群が何時でもASM(空対艦誘導弾)を搭載して、直ちに出撃できる体制を整えています。空自(航空自衛隊)は同じく那覇基地所在の第9航空団所属のF-15J戦闘機36機が30分以内に発進できます。ただ、対艦用途には使用できないので対空戦に備えて、もしくは牽制の意味合いになります。必要ならば福岡県築城基地から第8航空団のF-2A戦闘機を投入します。陸自(陸上自衛隊)は、与那国島に駐屯する地対艦ミサイル連隊がすでに命令があれば発射できる体制を整えております。以上が現在の体制です」
と、統合幕僚長が締めくくる。
「いや...さすが、我が”軍”と言ったところですかね」と、一言を述べたのは足掛け4期に渡り日本の政治家トップの椅子に座っている総理である。
「とりあえず、この体制で良しとして問題なのは"軍艦"が何故白いのか、だよ」
スクリーンに投影された画像の船の色は「白」だった。軍艦が白いなんて例がない。だからこそ、特定は早かった。
「再び失礼したします」と統合幕僚長が口を挟む。
「これは、俗に言う「軍艦」ではありません」との一言に室内がざわついた。
「それでは、この船はなんなのかね?」と質問を投げたのは官房長官である。
「次の画像を...ありがとう」
「新華社通信のサイトから入手しました画像ですが、これは中国海警局が保有する「海警2901号」と呼称される排水量1万トン越えの大型の警備艦です。主要兵装76ミリ砲、37ミリ機関砲、魚雷発射管等を備えた艦艇です。構造も軍艦構造で、構造面だけを見れば軍艦です。しかし、所属は日本の海保にあたる海警局ですが」
「だとしても佐藤長官、海保では力不足ですよね?」と総理。
短髪のいかにも海の男という風貌の海保長官は、冷静な顔つきでおもむろにマイクに手を伸ばし話し始めた。
「はい、我々の装備では全て遠距離で撃破されてしまいます。そのためここまでくれば海自さんの出動をお願いする他よりかはありません」
「わかりました」と総理。
「所属こそ海警局、つまり海上警察機関の所属ですが、海保では対処不能ならば法令上見ても問題はありません。ここで改めて命令を下したいと思います」
そういうと総理は防衛大臣、4人の自衛隊トップの顔を見た後に宣言した。
「現時刻を持って、防衛大臣が発令した海上警備行動を追認、情勢に配慮しつつ出来うる限りの毅然とした態度で対処を行ってください。最終目標は該当艦の拿捕。相手からの抵抗でやむ終えない場合は自衛隊法の海上警備行動の定めるところにより該当艦への威嚇を含めた実力行使の実施、最悪の場合撃沈を許可します。ただし、その都度官邸に情報を伝えること。以上とします」
防衛大臣が立って一礼するのと、4人の幕僚長が立って敬礼するのはほぼ同時であった。
1人、瞑想にふけていた海保長官は死んでいった保安官の顔を思い描いた。もちろん直接も、そして一度も見たことはないが、それでも想像せずにはいられなかった。
国のために命を捧げ、無情にも海に散った命。彼らが無事ならばどんな人生をこれから歩み、掴んでいったか。それを考えると涙が溢れそうであった。
泣くのはこの事件が終わって、叶うならば尖閣で泣こう。彼らに感謝し敬服するためにも。
ただ、尖閣に浮かぶ白船の化粧をした軍艦に纏わりつく邪悪な魂と同じものが、少なくとも彼らがいる永田町、そして日本全土にもいたことをこの時は知らなかった。
※画像引用
新華網日本語(新華社通信日本語版サイト)
http://jp.xinhuanet.com/2016-01/13/c_135005340.htm