episode.2
若松が握っていた箸はするりと手から抜けて畳に落ちた。彼の身体は震え、顔は蒼白し、混乱のために声が出なかった。
しかし彼の目の前にいる子どもはそんなことを気にもせず、目を輝かせて弁当を見つめる。
「きっ、きみは…」
やっとのこと若松の喉から出た声は少し掠れていて震えていた。子どもは顔を上げて、若松を見つめる。
「いづる」
「い、いづる、くん?」
「ん」
少し大人しめのいづるという子どもに害はなさそうだと判断し、若松は自分を落ち着かせた。いづるは平安時代の狩衣のようなものを着ているが、その方面に詳しくない若松には青緑の派手な着物くらいにしか思っていなかった。いづるの黒髪には綺麗な金に輝く髪飾りがつけられ、それに気付いた若松がその髪飾りに手を伸ばしたときだった。
「いてっ」
髪飾りに指が触れるか触れないか、というところで火花が散った。いづるも驚いた表情で若松を見つめる。
「いたい?」
「え、あ、大丈夫、だよ」
ほら、と若松が指を動かすと、いづるはよかった、と微笑む。ホラー耐性のない若松は、いづるがどこから入ってきたとか幽霊の類のものであるとか、いづるの幼い笑顔を見ると全て飛んでいってしまった。
__親戚の小さい子どもを相手していると思えば…。
未だ痺れる指先を摩りながら、若松は箸を拾って弁当を再び食べ始めた。唐揚げを箸で掴んで食べようとすると、服の裾が引っ張られる感覚がした。そちらを見ると若松の隣にちんまりといづるが座り、弁当を見つめていた。
「…いづるくん、食べる?」
「いいの?」
「いいよ。なに食べたい?」
「…ん、おにくの」
「ああ、はいはい」
唐揚げのことだろうかといづるの小さな口に運ぶと、いづるは小さな口を最大限に開けてかぶりつく。さすがに一口では食べきれないようだが、いづるはとても嬉しそうだ。
「コンビニのだけど、おいしいかな」
「おいし」
「そう?よかった」
久しぶりに誰かとごはんを食べたこと、いづるの笑顔を見たことで、若松はいづるをもう警戒などしなかった。
弁当を二人で食べ終え、機嫌の良いいづると、そんないづるにも慣れた若松の距離はすっかり近いものとなっていた。いづるを膝の上に乗せて、いづるの小さな指をやわやわと若松がいじっていたときだ。
乱暴にドアを叩く音が部屋に響いた。
若松としてはただでさて古い木造アパートなのだから、乱暴に叩くとドアが壊れてしまうのではないかとヒヤヒヤしていた。この付近に若松の知り合いは住んでいないはずだ。訪ねてくる人間など限られるが、今は午後8時すぎ。いづるを寝かせようと思っていたが、このままではいづるが泣き出してしまう。
重い腰を上げ、玄関に向かうと、いづるが若松の脚にべったりとくっついてきた。
「待ってください、今開けますから!」
ドアの向こう側にいる人間に向かって彼がそう言えば、ドアを叩く音が止んだ。
ゆっくりと若松がドアノブを回し、ドアを開ける。そこに現れたのは金髪の男だった。若松よりは年上だろうが、外見は二十代前半といったところだろうか。彼のつり上がった目は若松を睨んだ。
「こんばんは」
「あ、こ、こんばんは…」
彼の威圧に震える若松は足元にある小さな存在を必死に隠した。
「俺、ここらへんで退治屋やってる者なんですけど。刀、とか知りませんかね」
「刀、ですか?」
「はい。刀。今日とか、刀の話聞いたりは?」
「いえ…」
__でも、刀なら……。
若松は夕方に拾い、持ち帰ってきてしまった刀を思い出し、それを置いた場所を見やる。
が、そこには何もなく、若松はあれ、と首を傾げた。
「夕方に日本刀拾って…さっきまでそこにあったんですけど…」
若松の話を聞いて金髪の青年は舌打ちをした。彼の態度にいちいち震える若松の汗ばむ手をいづるがきゅっ、と掴んだ。
「じゃあ、小さい、変わった格好の男の子は見ませんでしたか?」
「…男の子…」
その声に反応するかのようにいづるは若松の手をさらに強く握る。
ちらりと若松はいづるを見るが、いづるの反応からしてそこまで金髪の青年と親しそうには見えなかった。
__でも、この子の親だったりしたら…
「います、よね?ここに」
「え」
「刀。いや、男の子が。この部屋から気配するんですよ。斐鶴の」
「…いづ、る…」
「聞き覚えありますよね。斐鶴はウチの子なんで、返していただけると嬉しいんですけど」
青年は低い声で若松を脅す。
「斐鶴、どこだ。手、離して悪かった。もう暗いから帰るぞ」
若松に交渉するのは無駄だと踏んだのか、青年はいづる_斐鶴の名を呼んだ。
「おうち帰ろう、斐鶴。望月がプリン作ったって言ってたぞ。一緒に帰って食べよう。斐鶴」
青年の言葉に斐鶴が少しだけ若松の後ろから顔を出した。
「斐鶴!」
「りいちろ…」
青年は斐鶴の顔を見ると嬉しそうに顔を綻ばせ、斐鶴と目線を合わせるように屈んだ。
「帰ろ?な?影吉も待ってる」
先程とは打って変わって、爽やかな笑顔を青年は浮かべているが、斐鶴は未だに若松の手を握ったままだった。
「…や」
「え?」
青年の眉間に皺が寄る。斐鶴は青年の機嫌が悪くなったことを感じたのか大きな瞳を潤ませながらも、それでも帰らないと首を横に振った。
「ここにいるもん。おうち、かえんない」
「いづるくん?」
いづるの頑固さに青年はまた舌打ちをする。
「…斐鶴!いい加減にしなさい!刀に戻してもいいのか!?」
「やあだあ!」
「じゃあ一緒に帰ろ?」
「いやあ!」
「本当に刀に戻すぞ!斐鶴!言う事聞きなさい!」
__…刀?
若松は二人の会話についていけなくなり、駄々を捏ね、泣き始めた斐鶴を抱き上げて背中を摩りながら青年に訊ねた。
「あの、刀に戻すってどういう?」
「あ?つか、斐鶴返せ」
青年は若松を睨み、立ち上がった。
「刀ってなんですか?この子は、何なんですか?」
斐鶴を抱き締める腕が震える。正直、若松はわかっていた。突然小さな男の子が現れ、拾ったはずの刀はない。それでも青年の口から否定の言葉がほしかった。
「斐鶴は俺の刀だ」
嘘だと若松が口にする前に、青年が嘘ではない、と斐鶴を見る。
「ここで話すのも面倒だから俺の家に来い」
「…え?」
「これから用事でもあんの?」
「ない、ですけど」
若松の喉が急激に乾燥していった。