1 美術室の肖像画
「竹崎くん、ごめんね。忙しいのに手伝ってもらって」
申し訳なさそうな、隣から少し高めの少女の声が聞こえる。誠次郎は、針金とペンキの缶が入ったビニール袋を持ち直しながら、斜め下に視線を移した。
思いの外近くに彼女の黒い髪が見え、言葉を紡ごうとしていた唇が震えた。
「……いや、気にしなくていい。学級委員だし、これくらいしないとな。それに、田中さんをこんな炎天下の中一人で買い出しに行かせたら、加藤さんに殺されてしまうよ」
言い訳じみた響きで、半分本気でもう一人の学級委員の名前を出す。気持ち早口になってしまったかと思ったが、理和は気にした風もなくありがとうと微笑んで視線を元に戻した。
本当に言いたかった言葉は言わなくてよかったと胸を撫で下ろす。
この時ばかりは、練習熱心で遊ぶ時間がほとんどなくてつまらないバスケ部の幼馴染、各務徳市に、感謝しなくもなかった。
誠次郎、智博、理和が教室に到着してみれば彼らが所属している二年D組は四分の一の十人弱が集まっていた。
今日は大道具作成日である。針金やペンキが足りなくなっていたはずだから、買い出し係が一つ丘を越えた場所にあるホームセンターへと出動する。
日々の買い出し係は当番制にしていて、今日は理和と誠次郎の幼馴染である各務徳市の担当だった。
しかし、バスケ部に顔を出した後にこちらに来るはずだった徳市がいつまで経っても現れず、理和を一人で行かせるわけにもいかないと、学級委員である誠次郎に白羽の矢が立ったのだ。
案の定、徳市から先輩にしごかれて遅れるとメールが来て、誠次郎は苦笑交じりに大丈夫だよと返しておいた。
自分にとっては、いい機会だったからだ。
視線を前に戻せば、アスファルトの坂道に陽炎が揺らめいているのが見える。歩くだけで汗が全身から滴り落ちるような感覚に陥る。
その光景が目に焼き付くようだし、制服の白シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
つまりは、とても暑いのだ。
「冷房が、恋しいな」
ぽつりと呟けば、理和がどこか驚いたようにこちらを振り仰いだ。
何がおかしいのか、笑っている。持っているお菓子の入ったビニール袋が揺れた。
「そうだね、ほんとに。皆にアイス買っていった方が良いかな」
今頃、教室で大道具の準備をしているだろうクラスメイトたちを思い浮かべる。誠次郎はペンキの入っている袋の他に、スポーツドリンクとブレンド茶2リットルのペットボトルが一本ずつ入っている袋も持っている。
とりあえず、全員お茶は持ってきていたようだし、日中はこれで乗り切れるだろうと算段をつける。
今日は十人も満たない参加人数だから、きっと足りるはずだ。
「いい考えだが、それは今日終わった後のお楽しみにしておこう」
日々の小遣いをやりくりする高校生には適度なおやつになるだろう。にやっと笑って誠次郎が言えば、いい考え、と、理和も笑って頷いた。
そして、あ、と、何かに気付いたような声を上げる。
「そういえば、竹崎君、高展入賞おめでとう」
「え、ありがとう……知ってたんだな」
不意打ちの祝いの言葉に、誠次郎は驚いた。
美術部のコンクールなど、運動部や吹奏楽部の大会に比べたら地味なもので、ほとんどの生徒は存在すら知らないかもしれない。
夏の初め、高展もとい高校生美術展覧会が行われた。全国の高校生が制作した美術品を一同に集め、出来栄えを競い合うものだ。
もっとも熾烈を極める絵画・油絵部門で、誠次郎の油絵は見事入賞を果たした。
「うん。『奇跡』だっけ。去年の冬からしばらく音楽室前の廊下に飾られてたでしょ? 見なくなったなあって思って、先生に聞いたの」
夏休み前から入賞の事知ってたんだけど、なんか皆の前だと言いづらくて。お祝い遅くなってごめんね。
理和が苦笑しながら話しているのを、誠次郎はどこか遠くに聞いていた。
『奇跡』は、家族の肖像だ。
顔ははっきりと描かなかった。父親が息子を抱き上げ、母親が寄り添っている、どこにでもあるような幸せな光景を切り取ったもの。
油絵の技術を身に着けて、何枚か描き上げた後にやっと描き留められた、誠次郎にとっての宝物だ。
それを、彼女が気にかけてくれていた事が嬉しかった。
まだ一年生の頃、クラスの違う彼女がその絵をじっくりと鑑賞している所を、誠次郎は一度だけ見たことがあった。
その時から、誠次郎は理和の姿を見つけると自然と目で追っている。
「竹崎君? 大丈夫?」
「……っ! ああ、すまない。ぼーっとしてた」
生返事だったからか、理和が心配そうに誠次郎を覗き込んで顔の前で手を振った。
存外近い距離に、誠次郎は軽く仰け反って不自然にならない程度に距離を取る。
「暑いもんね。飲み物も持とうか?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
理和の気遣いを誠次郎はやんわりと断り、彼女から視線を外して頬に手の甲を充てる。
手の甲が、ひんやりと冷たく感じた。
それぞれの部活動の調子とかアイスを買いに行く店はどこがいいかとか、他愛のない話をしていたらいつの間にか学校に到着していた。
丁度昼時なのか、校庭から響いていた野球部の声はぱたりと止んでいた。そこらじゅうから聞こえる蝉の声に混ざって、国道を走る車の音が耳に届くだけだ。
時間が経つのは本当に早いなと思いながら、ふと用事を思い出して誠次郎は理和に振り返った。
「田中さん。暑い中申し訳ないんだが、美術棟に寄ってもいいだろうか」
理和がタオルで顔を拭きながら、きょとんと眼を瞬かせる。
「うん、いいよ。何か忘れ物?」
丁度、秋のコンクールの作品を家で描いていると話したばかりだから、家で使う為の道具を取りに行くと思ったのだろう。
誠次郎は首を振って、ペンキの入った袋を持ち上げた。
「いや、備品を借りる許可をもらったから、取りに行こうかと思ってね」
「そうだったんだね、わざわざありがとう」
クラスの為に手を尽くしている誠次郎に、理和は笑って礼を述べる。二人は美術棟へ向かった。
美術棟は、一般的な校舎から少し離れた場所に立っている。一応、校舎とは渡り廊下でつながっているが、教室や中庭からは特別教室を隔てており、一度校舎に入れば改めて向かうには少々不便な場所にあった。
一階は美術室と技術室。二階は合唱部と吹奏楽部が使う第一音楽室、第二音楽室になっている。
美術棟と並列して山側に、二階建ての図書室が見える。本が日焼けしないよう注意している為か、南側の窓にはカーテンが引かれていて中は見えなかった。
その向こうには武道館があるはずだが、ここからは屋根の端しか見えない。
美術棟一階の引き戸を開けると、誰かと鉢合わせして足を止める。
一段高い所にいる相手を見上げると、それは隣のクラスの担任で数学担当の、水野だった。
「竹崎」
「先生。こんにちは」
誠次郎は驚いたが、反射的に挨拶をした。水野は誠次郎の父である、竹崎光次郎の友人だ。
水野も驚いているようで口元を引き攣らせて頷いた。
「なんだ。何か忘れ物か?」
「いえ、刷毛を借りる許可をもらったのでそれを取りに」
大道具作製に使うので。という言葉に水野は納得したのか頷いた。
「そうか。D組はミュージカルだったか」
「はい。小さな筆しか用意出来なかったので、谷口先生に頼んだんです」
刷毛だったのか。
確かに、せっかくダンボールで草やら何やら作っても小さな筆で塗っていると、すぐ筆がダメになってしまうから刷毛はありがたい。刷毛はそれなりの値段だから予算で買える代物ではない。
理和は後ろで合点がいきながら成り行きを見守っている。
「ぜひ、先生も見に来てください」
「楽しみにしてるよ。光次郎にも、よろしく伝えておいてくれ」
「はい」
水野が脇へよければ、二人が靴を脱いで美術棟へ上がり込む。会釈をして、美術棟をあとにする水野を見送った。
そして、二人は示し合わせたかのように顔を見合わせた。
「何してたんだろうな、先生は」
「……さあ……」
水野は、確かサッカー部の顧問だったはずだ。なのに何故、この美術棟にいたのか。
誠次郎は美術室の扉を開ける。中は木漏れ日が差し込むだけで、ひやりと涼しかった。
目当てのものを見つけて、足を踏み入れた。
「私も、入って大丈夫?」
遠慮がちに理和が言う。本来、美術室には美術部員と選択科目で美術を選んでいる者しか入らない。
音楽室も同様だ。だから、気後れしているのだろう。
「構わないよ。足元には気を付けて。何が落ちてるか分からないから」
ペンキ缶に立てられている刷毛を三本ほど手に取り、理和を振り返った。
美術室には、物珍しいものがたくさんある。石膏で出来た胸像に、誰が作ったのか何を模っているのかもわからない粘土の像。壁にはいくつもの絵画が掛かっている。
水彩の風景画や、静物、動物の模写。人物の肖像。
いくつもある絵画の中で、理和は一つの肖像画の前で足を止めていた。
「何か、珍しいものでも見つけたのか?」
近付けば、その肖像画が誰に描かれたものかすぐに分かった。
美しい、少女の肖像画だ。この学校の制服を着ていて、美しい顔には眩しいほどの笑みを浮かべている。
口を噤み、誠次郎は理和の隣に立って肖像画を見上げた。
肖像画の下には、控えめに小さなプレートが貼られている。
題名には、『不変』
作者名には『竹崎和太郎』とある。
「……竹崎君の、ご親族が描いたの?」
理和が尋ねる。誠次郎は肖像画を見上げたまま、頷いた。
「ああ。凛太郎は知ってるだろう。バスケ部の」
「うん。竹崎君の弟さんで、この前お話した……」
先日、夏休みに入る前。凛太郎が誠次郎のクラスにやって来た時の事を思い出して知らず顔をしかめる。
あっているが、少し違う。だが、周りはそう認識していることが多い。
この学校で、竹崎の名を知らない人間はいない。しかし、二人の関係を正しく理解している人間は少ない。だから、理和が二人を兄弟だと思っていても仕方がないのだ。
「この絵を描いたのは凛太郎の、父親だよ。俺の父さんの兄だ」
「え…っ、兄弟じゃなかったの?」
「うん」
よく勘違いされるけどね。笑って言えば、申し訳なく思ったのか、理和が眉根を寄せた。
「気にしなくていい。不都合はないしね」
「この女の人は?」
改めて肖像画を見上げる。誠次郎もそれに倣い、再び肖像画を見上げる。
木漏れ日に揺れて、心なしか表情が沈んでいるように見える。
「和太郎伯父さんと、俺の父さんの、妹だよ」
高校の時に、死んでしまったらしいんだけどね。微かに理和が息を飲んだようだった。
「竹崎君のお父さんって、お兄さんと妹さん以外にご兄弟はいるの?」
肖像画から視線を外して、誠次郎は理和を見下ろした。
どこか真剣な表情だった彼女は、はっと相貌に焦りの色を乗せる。
「ごめんね。変なこと聞いちゃって」
「いや、大丈夫だよ。他にはいなくて三人兄妹。でも今はもう、父さん一人だ」
「え?」
「和太郎伯父さんも、亡くなってるからね」
六年前の事だ。交通事故だった。
それから、光次郎と誠次郎の親子は、和太郎の奥方に乞われて竹崎の本家に移り住み、凛太郎と本当の兄弟のように育った。
竹崎は、国内において格式高い名家の一つである。相応の資産を有し、地位も高い家柄だ。
それ故に明確な序列があるにもかかわらず、和太郎の許嫁として竹崎にやってきた凛太郎の母、渚沙は、早くに母を亡くしていた誠次郎の事も分け隔てなく本家の子として育ててくれた。
凛太郎も、本当の兄のように慕ってくれているから、周りが勘違いしても仕方のないことだった。
「そう、だったんだね」
理和が、言葉を濁らせて相槌を打った。立ち入った事まで聞いてしまったと思っているのだろう。
誠次郎は我に返って口元に笑みを浮かべる。
「すまない。いらない事まで話してしまったな」
「ううん。こちらこそ変なこと聞いてごめんなさい。刷毛は」
理和の言葉に、誠次郎はペンキ缶の袋を持ち上げる。そこに、三本の刷毛が入っているのが見えた。
「持ったよ。さあ行こうか」
木の床に映る木陰が激しく揺れた。風が強いのだろうか、ざわりと胸騒ぎがして、誠次郎は後にしようとしていた美術室を振り返る。
目の端に、制服のプリーツが揺れる。眩しい笑顔が、段々と色を無くしていく。
誰かが後ろに、立っていた気がしたのだが。
「竹崎君?」
「……ああ、今行く」
一つ息をついて、誠次郎は踵を返した。
美術室には、誰もいない。
「加藤さんひどいよ~。思いっきり叩くんだもんよ……」
「遅刻した各務君の自業自得でしょ!」
階段を下りながら、徳市が頭をさすり涙目で呟く。その言葉に耳聡く反応した加藤裕子が、間髪入れずに怒鳴り返した。
あの後、刷毛を手に入れた誠次郎たちのクラスは順調に大道具を作っていた。
しかし、家の用事や塾、部活などで人数が五人になってしまったところでその日の作業を切り上げる事にした。
14時30分過ぎの事だ。
「仕方ないよー。先輩たちが俺を離してくれなかったんだからさー」
「凛太郎がいると、先輩方は大人しいんだがな」
今日は俺たちみたいにクラス活動だったらしいし。と、智博が助太刀するが、裕子は一層眦を吊り上げるだけだ。
「何それ、竹崎の家だから、凛太郎くんを贔屓してるってこと? それに、言い訳はいらないんだけど」
「違うよ、竹崎の家は関係ない。あいつはまだ下っ端。でも、あいつの雰囲気とか、ゲームメイクとか、一目置かれてるから」
「つまり、徳市はいじられキャラなわけだ」
徳市の言葉に誠次郎が重ねて言う。徳市はがっくりと肩を落とした。
「まだ入部して数か月の後輩に追い抜かれそうな俺って一体」
「もう追い抜かれてんじゃねーの」
先ほどとは打って変わった智博の容赦ない言葉に徳市は返す言葉もなく溜息をついた。
「でも、いじられてるって事は各務君、先輩たちに好かれてるんだね」
理和が苦笑しながらフォローを添えれば、徳市がばっと振り返り彼女を見上げた。
あまりの勢いに、理和は少したじろぐ。
「さすが田中さん、分かってる!!」
「調子に乗るなよ駄犬」
智博が振り返った徳市にデコピンを食らわす。不意打ちに徳市は額を抑えて手すりにもたれかかって悶絶した。
「危ないぞお前ら」
誠次郎が三人を振り返って言えば、徳市と智博は、はーいと仲良く返事をして再び階段を降りはじめた。
幼馴染って良いなあ、と、理和は思いつつ二人に続いて階段を降りれば、昇降口で立ち止まっている四人に気付く。
「どうかしたの?」
「田中先輩?」
声がした方を見れば、誠次郎の弟、ではなく、従弟の竹崎凛太郎が立っていた。それと、彼の友達の早稲瑞穂と、もう一人、見知らぬ少女。三人とも手には靴を持っていて、今から帰るところだと分かる。
「凛も、もう終わったのか」
「はい。少し神社に寄ってから帰るので遅くなると、母さんに伝えてもらってもいいですか」
「構わないが、気を付けて帰るようにな」
「分かっています」
話をしている二人を、退屈そうに瑞穂が見詰めている。きらきらと昼の陽光を金の髪が反射して、綺麗だ。憂いを含んだ表情が、男に見えないほど美しく思えて、いつの間にか視線がそちらに流れていた。
「早稲も、凛を頼むよ」
「言われずともですよ、センパイ」
言葉を掛ければ、そっけない返事が返ってきて凛太郎が瑞穂を睨む。
これはいつもの事で、誠次郎は苦笑した。
どうやら、この美少年は誠次郎の事が好きではないらしい、という事だ。小学生の頃からの仲で、それは最初から変わらなかった。
「先輩」
「秋月、どうかしたか」
美術部の後輩の、秋月菊が誠次郎を見上げていた。肩からは大きなキャンバスを入れる袋を提げている。
「絵の事で、またお聞きしたい事があるんですが、明後日は学校にいらっしゃいますか?」
「うん、登校する予定だ。構わない、いつでも相談においで」
「菊ちゃーん、帰ろー」
外で、凛太郎と瑞穂が菊を待っている。瑞穂が大声で彼女を呼んだ。
菊は一度二人を振り返り、誠次郎にお辞儀をすると急いで昇降口から出て行った。
「さて、俺らも帰るか」
「帰りにアイスを買っていこう。暑いからね」
「おー!! いいね! 俺、アイスモナカ食べたい。チョコ入ってるやつ」
「えーかき氷だろー、なあ」
誠ちゃん、という智博の言葉は、激しい叩きつけるような音にかき消された。
皆体を震わせて正面を見詰める。ガラス戸が、閉まっていた。
横を見れば、残り三つある扉が全部閉まっている。
「は、なんだ? いたずらか?」
誠次郎が扉の取っ手に手を掛け開こうとした。が、鍵も掛かっていないのにびくともしない。
何故だ。どうして。
「え、なんで、なんで開かないのよ!」
裕子や理和も扉に寄ってくる。唇を戦慄かせて、裕子が扉から後ずさりした。
凛太郎がこちらに走り寄って来た。誠次郎と同じように扉を開こうとしたが無理なようだ。
そして突然目を見開くと、猛然とガラスを叩き始め、何かを叫び始めた。
おかしい、声すら聞こえないなんて。
五人ともども軽いパニックに陥る。校舎内へ戻ろうと、振り返った裕子は目を瞠り、喉をひきつらせた。
「ぃ…っあああああああああああああ!!」
ひきつらせた喉からは、人の声とは思えない音が迸る。
裕子の悲鳴に四人が振り返る前に、耳鳴りを伴う頭痛に襲われ蹲る。
長い時間、途切れることなく耳鳴りがしていたように思う。
それがさざ波のように、来た時と同じように突然遠くなっていった。
「だ…いじょうぶ、か? 加藤さん……」
一番に回復した智博が、頭を押さえたまま辺りを見回す。
そこには、誰もいなかった。ただ一人、自分が掴んでいる、倒れこんでいる誠次郎を除いて。
「せ、誠ちゃん……? どうしたんだよ、おい、起きろよ!」
仰向けにすれば、真っ白な肌色の幼馴染の顔が見え、一気に血の気が引いた。
屈みこんで、肩を揺すり頬を叩いても、返事はない。
外を見ても、凛太郎たちはいつの間にかいなくなっている。
扉は相変わらず開かない。
救急車を呼ぼうと震える手で携帯電話を開いたが、通じなかった。
息はしているようで、ほっと胸を撫で下ろす間もなく、智博は途方に暮れた。
一体、何が起こっているんだ。
しかし、今はそれより、意識不明の幼馴染だ。
智博は誠次郎を背負うと、校庭に近い保健室へと足を踏み出した。
一方、凛太郎たちは、激しい音に一斉に昇降口へ振り返った。
自分たちと先輩たちを隔てて、ガラス戸がすべて閉まっている。
なんだ、どうしたんだ。
一瞬でそれが異様な光景だと理解した凛太郎は、すぐに兄たちの元へ駆け寄った。誠次郎が扉を開けようと取っ手を引っ張っているが、びくともしない。
凛太郎もそれに倣い、瑞穂も違う扉で試してみるが全く動かなかった。
「…っ凛ちゃん! あれ!」
瑞穂の言葉に、五人の奥へと目を向けた。
いつの間にか、下駄箱の奥の廊下が、薄暗く翳っていた。
凛太郎は目を見開く。
その翳りから、赤い何かに塗れた人影が現れたのだ。ゆっくり、だが真っ直ぐに、五人に近づいてくる。
それは、明らかに生きている人間ではなかった。
辛うじてこの学校の制服を着ているから人と分かるだけで、女と、分かるだけで。
瞬間、ガラス戸に思い切り拳を叩きつけていた。扉を叩きながら、がむしゃらに叫ぶ。
「兄さん! 逃げて! 早く、本宮さん、田中先輩!」
あれは、人が見てはいけないはずのものだ。
裕子が振り返り、その人影に気付いた。あげたであろう悲鳴も聞こえない。
ガラス戸が光を反射し、次の瞬間にはその世界から締め出されたかのように、五人の姿は諸共目の前から掻き消えていた。
息が、止まった。凛太郎は直感した。
五人は、閉じ込められたのだと。
扉は相変わらず開かない。それは、きっとどの扉も窓も、同様だろう。
現実への干渉が強い。これは神隠しに近い。これは、
「竹崎さん」
柔らかい声に、息を止めていた事に凛太郎は気付き、振り返った。
菊が声音とは裏腹の真剣な表情で凛太郎を見詰めている。
「何か、起こってるんですよね」
落ち着けと、言い聞かせられているような声音だった。凛太郎は静かに、扉から離れる。
「……先輩たちが、校舎に閉じ込められたようだ」
少しばかり躊躇い、凛太郎が断言する。瑞穂もいつの間にか戻ってきていた。
不思議と、先ほどの焦りが凪いだように、静かに言葉を発する事が出来た。
「どうする? こんなの、俺たちの手に負えないよ」
瑞穂が思案気に呟く。凛太郎は瑞穂を強く見返した。
「どうするも何も、助けるに決まっている。兄さんがいるんだぞ」
「ま、そうなるだろーとは思ってたけど」
唇を尖らせる瑞穂から、凛太郎は視線を外し、菊を見詰めた。
「秋月は、どうする」
「もちろん、手伝います」
「ですよね」
凛太郎の問いに菊が即答し、瑞穂が嘆息した。
こうして、満場一致で救出隊が結成されたのだった。
菊は校舎を見上げる。
いつもの学校と、様子が違うことは一目見て分かる。
校舎を満たしているもの、それがなんなのか。
今の菊には、分からなかった。
もし、読んでる方がいらっしゃったら、感想などいただけたら嬉しいです…!