7 惜しみなく愛している
一応、ここで『一生』終了です。あれ、結局仁美叔母さんと諒太おじさんのあれこれそれ程書けなかった気がする。
「今の、何……」
涙を流しながら、頭を押さえて裕子が呟く。
徳市も、額縁を取り外す作業を止めて、白昼夢の余韻が収まるのを待っていた。
今のは、間違いなく水野の記憶だ。
彼は、仁美が死ぬ場面に立ち会っていた。
それを、止める事もしなかったのだ。
「くそ、なんでそうなるかな……」
徳市は作業を再開しながら呟く。やるせなくて、裕子同様涙が出てきそうだった。
好きなら、言えばよかったのだ。資格とか、権利とか、そんな小難しく考えずに、素直に伝えれば良かった。
きっと、そうすれば、仁美は死なずに済んだのだ。
彼女は妥協して譲歩して、彼の心が欲しかったから。
「……っ外れないな、これ」
額縁を叩いて、徳市は改めて水彩画を見た。
新緑の中、一人の少女が歌を歌っている。陽の光が柔らかく、少女の横顔を照らしていた。
不自然に立派な額縁。裕子はこの中に肖像画が隠されていると推測して、徳市が額縁を外そうと試みた。
しかし、画用紙は額縁と上手く噛み合っているのか、素手では取れそうにない。
「……理科室には、工具は無いし……」
「ねえ、ちょっと外見て」
徳市が行き詰ったと言うように天井を仰いだ時、裕子が外を指差した。
示された方向を見て、徳市は首を傾げた。
教室棟が、月光に照らされて白く輝いている。
仄赤く輝いていた中庭を見れば、光は消え腕も芝生に戻っていた。
窓の外を這っていた黒い半透明の影も、扉を引っ掻く音も、消え失せている。
「……どういう事」
「さっきの怪異現象は、仁美さんが暴走したから起こったものなのよね」
裕子が唐突に、呟く。それに面喰らいながら、徳市は頷いた。
「まあ、多分あの様子だと」
彼女の平時の状態を知っているわけではないが、誠次郎たち三人を追い掛け始めた彼女を見る限り、あれは明らかに怒っていた。
その状態の彼女が、異世界に影響を及ぼしていても、なんら不思議ではない。
「さっきの水野の記憶を、仁美さんも見たんじゃないかしら」
だから、白昼夢中の仁美の独白から思うに、彼の心が間接的にでも知られたから怪異現象が収まった。
裕子が言いたい事は分かった。しかし徳市は、その推測に対して眉を顰める。
「それもあるかもだけど、どうかなぁ。ああいうの、本人から直接聞きたいもんじゃないかな」
「……あんた女々しいわね、知ってるけど」
「ひどい! そんな事ない!」
裕子が無表情で言う言葉に涙目で反論した。
「とにかく! もしかしたら、また何か起こる前触れかもだし、迂闊に動かない方が良いよって事!」
「…………まあ確かに」
徳市の言葉に裕子は素直に頷いた。
思わぬ反応に、逆に徳市が動揺する。
いつもだったら、完膚なきまでに反論されるのに。
「……えっ、えっと、い……いいの?」
しどろもどろに答える徳市を、呆れたように裕子が見詰め返した。
「いいもなにも、一理あるからよ。何よ、あんたの言う事に、私が何でもかんでも反論するって思ってるの?」
心外だわ。
不貞腐れたように裕子が呟けば、徳市は何故か胸の奥が熱くなるのを感じた。
こんな時に不謹慎だが、思いの外、自分の事を見てくれているようで、ほっとした。
「じゃあ、スレッドで聞いてみようか」
徳市は気を取り直して、携帯電話を開く。時計を見れば、九時を回っている。
この時間が現実世界の時間と同じかも定かではないが、学園祭の準備時間から考えておよそ半日、学校から出られていないことになる。
「……もうそろそろ、親が心配しだす頃ね。」
大事にならなければいいが…と、裕子が呟くのに同意して頷きながら、徳市はスレッドに目を通す。
前のスレッドは、すべて埋まっていて新たなスレッドが立てられているようだ。
最後、校舎裏へ逃げていくのを確認した誠次郎たちは、古いスレッドにも顔を出してはいなかった。
一抹の不安を感じながら、旧スレッドを改めて追っていく。
「スレッドの様子から言って、時間の流れは同じっぽいね」
「ええ、体感的にも、この時間くらいね」
裕子は頷いて、スレッドが表示されている画面を覗き込む。
「……なんか、不思議な気分」
「え?」
唐突に呟いた裕子の言葉に、徳市は顔を上げた。
裕子は中庭に面する窓と反対側の窓の外を見詰めている。そこからは、職員室や校長室がある本舎や美術棟の端が見える。
月が煌々と輝いていた。
「この、書き込みしてくれてる人たちには私たちの事は関係ないでしょ? でも、心配して、応援してくれてるんだなって」
時折、笑いを織り交ぜながら励ましてくれる。
結局は他人事だから、こうしてふざけながら軽いノリで徳市たちに語り掛けてくることが出来るのだろうが、この軽快なテンポに何度救われた事か。
例えふざけ半分だとしても、画面の向こうには血の通った生身の人間が、自分たちを案じ、相談に乗ってくれているのだと思えば、たった五人でこの苦境に立たされていても少しは余裕を持っていられる。
このうちの何人かは、同じことを思ってくれているのだろう。
画面の向こうで、自分と同じ生身の人間が、生死の境を彷徨っているのだと。
「……そうだね」
徳市は神妙な表情で同意し、スレッドを読み切った。
新たなスレッドに向かい、中身を確認する。
少しだけ現状がまとめられており、それを読み切った時、新たな書き込みがされた所だった。
コテハンが、モブ眼鏡。
「智博……無事だったんだ……」
徳市は大きく溜息を吐き、肩から力が抜けるのを感じた。
無意識に、緊張して体を強張らせていたらしい。
よかった。
遠めから、意識がないようだったからどうなる事かと思っていたが、問題なかったようだ。
スレッド上で無事を喜び合いながら、黙々と今の状況を書き込む。
肖像画らしき絵画を発見した事。校舎内外の環境が再び変化した事。
「……やっぱり、肖像画を確認すべきだよなぁ……」
頭を抱えて徳市が言う。
破けばいいとか、切り取ればいいとか、スレッド上で案が出ているがやはり凛太郎の父が生前描いた作品だ。
そんな事を言っている場合ではないかもしれないが、不用意に傷付けたくはない。
「……カッターか何かで、額縁を削りましょうか」
裕子が絵画を持ち上げ、目を細めて額縁と画用紙の隙間を見詰めながら言う。
「時間は掛かるかもしれないけど、上手くやれば絵は傷付かないでしょ」
「……俺は、そうしたいな」
微かに申し訳なさそうに徳市が言うのを、裕子は鼻で笑った。
「どうせ、ここに閉じ込められてるし、三人の場所は分かっても、ここから出て行けるわけじゃなかったし……死なない限り、時間はあるわ」
言いながら、教卓や棚を漁り、実験で使用するピンセットやカッターナイフを持ってくる。
女の子って、頼もしいな。
前々から思ってはいた事だが、徳市はカッターナイフを受け取りながら笑った。
「よし、んじゃあいっちょやってやろーか!」
「絶対にここから出てやるんだから!」
その為に、出来る事をやる。
二人は力強く顔を見合わせ、さっそく作業に取り掛かった。
応接室には、重苦しい沈黙が流れていた。
光次郎は、何を思っているのか口を真一文字に引き結び目を瞑り俯いている。
瑞穂と凛太郎は今までの状況から、水野が死ななくてはならなかった事情を推測しようと考え、黙り込んでいた。
「……人の考える事は、よく分からないからなあ……」
呟いたのは、瑞穂だった。凛太郎が顔を上げ瑞穂に視線を遣る。
「病気だったとか」
「病気が苦で? わざわざ、仁美さんの命日に、彼女の肖像画の前で死ぬの?」
眉間にしわを寄せた瑞穂が反論する。凛太郎も、頷いた。
「叔母さんに関わりがあるのは明白だが、死ぬほどの理由が見当たらない」
「だよねえ。極論人が死ぬ理由なんて、人それぞれだしね……」
「もし、あの時」
突然言葉が挟み込まれる。
二人とも、光次郎を振り返った。
光次郎はゆっくりと顔を上げ、陰鬱とした暗い瞳を二人に向ける。
「……諒太が、仁美の最期を屋上で見ていたとする。君たちがその場面の当事者だったら、どうなると思う」
心と体は、どうなってしまうと思う。
低く呟かれた言葉は重く、二人は息を飲んだ。
「叔父さん、それは」
「何度も、考えた事がある。あの日から、時折様子がおかしくなるあいつの姿を見て、想定していた事だ」
凛太郎は視線を伏せ、思案する。
校舎の屋上。月が美しく、風が強い日。
心から惹かれているひとが目の前にいる。黒い長い髪が風に靡いている。
その人から、言葉をもらう。大切な言葉だ。
僕だったら、嬉しくて、彼女の手を取るだろう。しかし、彼はそうしなかった。
何故そうしなかったのだろうか。
逃げて、いたのだろうか。
手を取らない内に、彼女は柵の向こうへ消えていこうとする。
だめだ。それだけは絶対に許されない。
僕は必ず手を伸ばす。彼女の何をも、取りこぼさないように。
彼は手を伸ばしたのだろうか。
その資格すらないと、思い込んでいたのだろうか。
間に合わず、姿が消える。
そして僕は。
「…………」
「凛ちゃん……?」
どんな表情をしていたのだろうか。
瑞穂が眼前で手を振って心配そうに凛太郎を見詰めていた。
凛太郎は小さく気付かれない程度に息を吐き、首を横に振った。
「大丈夫だ。想像して、気分が沈んだだけだ」
「確かに、落ち込むどころの話じゃないよね」
瑞穂が同意するように頷いた。
「……後を、追ったのだろうか」
報われなかった恋心を動機に照らして、凛太郎が言う。それに再び瑞穂が眉を顰めた。
「今更? もう二十六年前の事件なんだよ」
「ああ。だが、何かのきっかけがあったのかもしれない」
そのきっかけは、きっと先輩……田中理和なのだろう。
凛太郎は目を細め、夏の始め、彼女に初めて出会った日の事を思い出した。
出会い頭に突然、メールアドレスを交換したのだ。
誠次郎には良い顔をされなかったが、凛太郎はまったく後悔はしていない。
「入っても、大丈夫ですか?」
ノックと共に、遠慮がちな小さな声が聞こえてきた。
菊だ。凛太郎は光次郎を見て、彼が頷いたのを確認した後に返事をした。
「秋月、いいよ」
「失礼します」
扉から、菊が顔を覗かせた。その手に何かを持っている。
「菊ちゃん、何それ」
「写真を、持ってきたんです」
瑞穂の言葉に、近付いてきた菊が躊躇いがちに三枚の写真を差し出した。
それを受け取り、覗き込んだ瞬間、凛太郎は戦慄で背筋を寒くした。
「……田中先輩」
学生時代の父母の隣で、優しく微笑んでいる理和そっくりの少女。
そして、
「叔父さん」
「……なんだい」
恐ろしいほどに、低い声が室内に響いた。
瑞穂は目を見開き、菊は肩を震わせ一歩下がる。
その声に呼ばれた人は、臆することなく、凛太郎を見詰めたまま目を細めた。
「……まだ、隠している事があるでしょう。全部、話してください」
そうでないと、兄さんや、先輩方が助けられない。
知って、彼らに伝えなくてはいけないことが、ある。
「君や、渚沙さんのことはいいのかい」
「構いません。人命優先です。この期に及んで」
吐き捨てるように凛太郎が言い、顔を上げる。
その瞳は、潤み揺れていた。
光次郎は目元を歪めた後に、俯き一つ息を大きく吐いた。
「気付いてしまったんだね」
確信をもって光次郎が言う。凛太郎は視線を伏せた。
分かる。
いくら疎い、鈍いと言われようと、気付かないわけがない。
母と共に写真に写る、今生では見た事のないような、父の微笑み。
「兄に対する、私の唯一の秘密だった」
そして、最初で最後の、兄のわがままだった。
言い置いて、写真を懐かしそうに、光次郎は見詰める。
「その人は、田中里都子さんと言う」
その笑顔の、向けられている先を。
木を削る音が、室内に響く。
徳市と裕子の二人は黙々と、長い辺から一ミリくらいの幅で額縁を削っていた。
何分経っただろう。思った以上に集中できたためか、額縁とキャンバスが隙間で揺れた。
「! 取れそう」
「梃子で外してみよう」
金属のへらを隙間に差し込み、力を入れて押し上げる。
綺麗に噛み合っていた画用紙が小さく剥がれる音を立てて久方ぶりに空気に触れた。
「じゃ、絵を剥がすわよ」
「うん」
丁寧に歌う少女の絵を剥がしていく。
下から現れた絵を見て、二人は顔を見合わせた。
「……『私の愛する人へ 不変 一生 永遠 を捧げる』だったわよね……?」
「……言葉通りなら、まあ、えぇっと……」
気まずげに、徳市が言葉を濁した。
見てはいけないものを、見てしまった気がする。
改めて、絵画に視線を落とす。
『永遠』は、スレッドや自分たちの推察通り、肖像画だった。
月明かりに照らされた少女は、こちらに微笑みかけてくる。
それはよく見る、クラスメイトの少女と同じ表情だった。
肖像画『一生』完 肖像画『永遠』へ続く
『永遠』からは、ある種不道徳的な描写が出てくるかもですので、ご注意ください。