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肖像画  作者: くたち
第二章『一生』
14/17

5 君の言葉は欲しくない



『言葉とは、魔法だ』


 いつでも、彼女の存在は眩しかった。

「なぁ諒太。仁美のお見舞い、行くか?」

 光次郎に誘われれば、二つ返事で了承した。

流れる艶やかな黒髪、病的に美しく白い肌。少し薄暗い病室の中でも、彼女の美しさが損なわれることは無く、俺の目に焼き付くように映っていた。

 いつから、彼女を異性として意識したのか、それは覚えていない。

ただ言える事は、彼女に兄二人と同様許婚というものがいて、その存在を知った時、この上なく落ち込んだ事が記憶にある。

 それから俺は、彼女への気持ちを、言葉を、心の一番深い所に閉じ込めた。


『あなたは知らない。あなたの言葉が、どれだけ私に生きる元気を、希望を、喜びを与えてくれるかを』


 これほど誰かを、大事にしたのは初めてだった。

彼女が傷付かないように、いつか、外に出る事が出来るようになった時、隣にいる大切な人と笑い合えるように、友人二人と一緒に、伝え続けた。

「外に出たら、どこか行きたい所はあるかい」

 尋ねれば、少し考える素振りを見せて、満面の笑みを浮かべてくれる。

その姿が、可愛かった。

「諒太お兄さんがいてくれれば、どこでも楽しいよ」

 眩暈を、覚えた。

その言葉は、まるで呪いのようだった。俺には、重すぎた。

彼女は、名家の令嬢。俺は一般的な、ごく普通の家庭に生まれた、何の取り柄もない男だった。

 彼女は分かっていない。彼女を幸せに出来るのは、路端の草などではなく、洗練され、優しく、美しく整えられた花なのだと。

「路端の草にも、薬になるものはあるよ」

光次郎が、真剣な表情で言った。それに、俺は曖昧に笑って流すしかなかった。

彼に、何が分かると言うのだろう。

 彼の妻になる予定の女性は、慎ましやかな美しい人だった。光次郎は、一目で恋に落ち、彼女もそんな彼を笑顔で受け入れた。二人は相思相愛だったのだ。

「薬か、医者になるのもいいかもな」

「諒太!」

 それ以上、彼の言葉を聞かないように、俺は静かに、心の最奥の封印を固くしたのだ。


『それは、私の心に花のような明るさをもたらし、月のような寂しさをもたらす』


 高校一年生の時、初めて、彼女の許嫁に会った。

一つ年上の、和太郎さんと同じ年齢の人。物腰は柔らかで、年下の俺にも礼儀正しい好青年だった。

彼は彼女の見舞いに来たらしい。病室の扉の前で鉢合わせた俺と彼は、良ければと病院の屋上で話をすることになった。

「彼女は、嫌がっているでしょう」

 何が、とは、聞かなかった。寂しそうな彼の横顔がつらかったからだ。

「別に、嫌われているわけではないようですが、他に、好きな人がいるのだと」

 和太郎さんから聞きました。

彼の言葉に、何も答えられなかった。それは、俺の事を言っているのか。そう問い返すことすら。

 俺は、彼女に明確な言葉を与えていない。彼女も、俺に明確な言葉をくれた事は無かった。

欲しいとも、思っていない。

 それから、お互い他愛のない会話をした。学校や部活の事。趣味や、家族の話。

 特に家族の話をする時、彼の瞳は輝いていた。家族を大切にする男なのだと、すぐに分かった。俺はほっとすると同時に、どこかいたたまれない感情に駆られた。

「僕は、なかなかこちらに来る事が出来ません。仁美さんの事、よろしくお願いします」

 こんな俺にも、頭を下げる事が出来る人。ああ、あの子はちゃんと愛されているのだと、身につまされた。

分かっていた事だが、元々、俺の心が入り込む余地などなかったのだ。

余計、惨めになった。

 諦めたはずだ。彼女へ想いを告げる事も、彼女と、一生共にいたいと願う事も、諦めた、はずだったのに。

 俺の浅ましさが、呪わしかった。


『あなたの大切な言葉を、私は欲しい』


 高校二年生になった。

彼女は無事、高校に入学できた。

 まだ、体調が思わしくない時が度々あるようだけれど、それでも、友達ができ、勉強も頑張って、楽しく日々を過ごしているようだった。

 幼い頃から語っていた夢。父母には決して言えないと言っていた願い。

それを叶えようと、彼女は奮闘していた。

夏休みの、最中の事だった。

「看護師になるには、医療関係の専門学校に行かなくてはならないね」

「専門、学校……」

 それを聞けば、彼女は表情を翳らせた。俺は、参考書を片手に、その横顔を見詰める。

「焦らなくてもいいよ。まだ時間はある。ゆっくり、説得すればいい」

「応援、してくれる?」

 彼女の、縋るような視線を受け止めて、頷いた。

「君が、頑張る限りね」

「……ありがとう」

いつでも、応援している。支えてあげる。君が、遠くへ行く時まで。

「……私、あなたが、好きです」

 それは唐突だった。

目も眩むような、輝き。それが胸の奥で弾けて、思わず彼女を見返していた。

 彼女は緊張で表情を硬くして、じっと俺の返事を待っている。

 封じ込めていた、様々な感情が、じわりと喉に滲んだ。


ダメだ。


「……ごめん。君は、俺と一緒じゃ幸せになれない」

 出来るだけ優しく、突き放した。

後は振り返る事もせず、立ち去る。

 ダメだ、いけない。あれ以上聞いてはいけない。

彼女の言葉は、鎖だ。俺の心を、決心を、容易く揺り動かす。

君は知らない、君の言葉が、どれだけ大切なものかを。それを簡単に、俺なんかに譲り渡してはいけない。

その言葉に相応しいひとは、もっと他にいる。

 どれだけ努力をしても、俺は君を幸せに出来ない。

そんな事は、とうの昔に知っている。

アスファルトを覆う陽炎が、やはり浅ましいだけの俺を、嘲笑っているかのように揺れていた。


『あなたは知らない。あなたの言葉を私がどれだけ切望しているか。それは、私だけの為にある』


 あれから、元通りの生活に戻った。

かき乱された心は平時通りに、凪いでいた。彼女もあれ以上何も言わず、いつも通り兄たちと登校し、日々を過ごした。

しかし、それもすぐに終わることになる。

忘れもしない。八月十九日。彼女の誕生日の、前日の事だ。


『あなたの言葉は、何よりも大切なもの。それは私に安らぎを、決意を、覚悟を、あなたへの永遠の愛を教えてくれる』


 夕陽が照らす、商店街の文房具屋で買い物をしていた。

学園祭の準備をするための買い物だった。

「諒太お兄さん」

聞きなれた声が、背後から掛かり振り返った。

 そこには肩で息をした彼女が立っていた。その瞳は、泣き腫らしたように赤い。

明らかに、尋常な様子じゃなかった。

「仁美ちゃん、どうしたんだ。血相変えて」

 走ってはダメだろう。そういう俺の手を、彼女は何も言わずに取って引っ張る。

何があったのか。いつも気丈で明るい彼女が、こんな様子を見せるのは珍しかった。

 しかし、何も聞かずに手を引かれるままに後に続く。

 いつの間にか、日はとっぷりと暮れていた。誰もいない学校に到着した。

薄暗い学校は不気味だ。昇降口はまだ開いていて、そこから中に入る。

「仁美ちゃん……?」

 屋上に辿り着いた。今日は風が強い。彼女の黒く長い髪を、攫って行く。

月が良く見えた。

「……私、私ね。明日、士さんと籍を入れる事になったの」

 鈍器で殴られたような、衝撃が体中を襲った。

息を飲んだ。唇が、情けなく震える。

「……急だな、また、どうして」

 声も掠れた。まさか、これほど動揺するだなんて思わなかった。

いつか来るこの日を、俺はずっと想像してきたのだから。

その想像は、いとも簡単に越えられていったのだ。

「相手方の家は、病院経営をしているの。私の、療養も兼ねて……」

 あの人の病院だろう、想像して、きっといい病院に違いないと思う。

しかし、そんな事は、どうでもいい。

「そうか、それは、おめでとうと言うべきかな。病気も良くなるし、君は、幸せになれる」

 そうだ、彼女は幸せになれる。俺のような男に固執する事無く、優しい人と、何不自由なく、過ごす。

 いずれ、子どもも生まれ、母となり、静かに、彼と、幸せに。

俺の手ではなく、彼の手で。

想像するだけで、吐き気がした。

「違う。私が欲しい言葉はそんな言葉じゃないの」

「俺には、君にそう言うしかない」

 君は残酷だ。分かっているのに、そんな事を言う。

俺は、君に幸せになって欲しい。

……彼女の幸せとは、なんだろう。

「分かってる。私を、連れて行って」

 いつの間にか、彼女は屋上の縁に立ってこちらに向いていた。

心臓が、高鳴る。表情が強張って、その場に棒立ちになる。

「何してるんだ……戻れ……っ」

 俺は君みたいに、言葉を簡単に届けられない。

その資格がないからだ。

生まれというものや、立場というものは歴然としていて、俺では、到底飛び越えられるものではなかった。

それは、君も良く知っているだろう。


『もしも、もしも私に』


「あなたと一緒に、生きていたいの」


その言葉に答える術を、俺は一つしか知らない。


『私と同じ言葉を告げてくれると言うのなら』


「仁美、俺には、無理だ……!」


黒髪が翻る。俺の美しい人は、そのまま目の前から消え去った。


『例え、あなたと結ばれなくても、運命を受け入れる事が出来る』



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