3 あなたの言葉が欲しい
『言葉は、鎖だ』
これはなんだろう。深く深く沈んでいく体にまとわりつく何か、誰かの記憶が頭の中を回っている。
白い手の海を抜け、夜の校舎、竹崎の家、花霧大社、すべてを潜り堕ちていく。
柔らかいベッドに、白の天井。傍らのテーブルには花が飾られ、目覚まし時計も置かれている。
そして誠次郎にそっくりの少年と、それに引っ付いている大人しそうな少年と。
もう一人。溌剌とした笑顔の少年。
少年の笑顔が、特別眩しく見えた。
『君は、知らない。君の言葉が、どれだけ目映く、かけがえなく、重いものか』
「今日は調子がよさそうだね、仁美」
落ち着いた声が響く。それに答えるように頷けば、点滴につながれた白い腕が見えた。
ああ、そうか、この体は、仁美なのだ。
では、この目の前で微笑んでいる誠次郎そっくりの少年は、和太郎なのだろうか。
大人しそうな少年は、光次郎。じゃあ、この、笑顔が特別眩しく見える少年は。
「諒太お兄さん。こんにちは」
「こんにちは、仁美ちゃん」
瞬間、仁美の胸が痛くなる。病気のせいか。
いや、違う。
智博は今まで感じた事など無かったが、何となく分かった。
泣きたくなるような、喜びにも溢れたそれは、紛れもなく恋だった。
「あと二年すれば高校生だもの。頑張ってるんだ」
そう、外に出て、あなたと共に歩みたい。
例え今は叶えられない状態の夢だとしても、決してあきらめない。
視線は真っ直ぐ諒太に向けられ、その視線を受け止めながら、彼は再び微笑んだ。
彼の表情に、いちいち反応してしまう。
時に浮かれ、時に沈む、その感情の動きさえ、愛おしかった。
さまざまな思いを乗せたのだろう仁美の言葉を聞き届けて、兄二人は視線を交わして苦笑した。
「仁美は頑張り屋さんだからなぁ。勉強でもなんでも」
「頑張るのは良いが、無茶はしないように。懸命と無謀は違う」
光次郎と和太郎が口々に言うのを聞き流し、夢想する。
幼い頃から、ずっと夢見ていた。友達と一緒に、お出掛けしたり、勉強したり、運動したり。
きっと楽しいに違いない。嫌な事も沢山あるだろうけれど、それもきっと、生きているという事だと仁美は思う。
目一杯勉強をして、看護師になりたい。
その隣に、あなたにいて欲しい。
しかし、それは今のところ叶わない。分かっている。
なんとしても、両親を説得せねばならないのだ。
『それは、俺の心に泥のように纏わりつき、羽のように軽くさせる』
視界が暗転する。
「私、あなたが好きです」
心臓がばくばくと、煩くてかなわない。頬が、熱い。
どこかの公園だろうか。見覚えのある公園だ。
夕方と言う時間帯なのに、珍しく誰もいない。そこで、仁美と諒太はベンチに座っている。彼の手には、何かの参考書が開かれていた。
二人きりだった。
目の前の端整な顔立ちの青年はゆっくりと目を見開いて、小さく口を開いた。
数瞬後、何かを堪えるように顔を顰め、首を横に振った。
「……ごめん。君は、俺と一緒じゃ、幸せになれない」
何も言えなかった。頭は真っ白になり、目の奥が熱くなっていく。
でも、泣かなかった。去っていく背中を見詰めながら、心が再び燃え上がる。
「仁美」
声を掛けられる。振り返れば、誠次郎が、いや、和太郎が目を細めて立っていた。
その視線は、どこか責めるような光を孕んでいる。
「和太郎、兄さん」
「諒太に、迷惑を掛けるんじゃない」
冷たい言葉だった。仁美は兄を睨み上げる。
「兄さんには関係ない。兄さんは、渚沙さんと結婚するんでしょ? 長男だから。末の子で女の私が、親が決めた結婚を強要される言われはない」
士さんには、悪いけど。
瞬間、和太郎の視線が揺れた気がした。それを黙殺して、仁美は兄から視線を外した。
「……光次郎兄さんは、良いわね。千尋さんの事、本当に好きみたいだもの」
「……お前も、そうなるかもしれない」
苦し紛れの慰めだと、分かった。まるで、許婚以外に好きな人を想ってはいけないと言われている気がした。
何も答えない仁美に、和太郎は何を思ったのか溜息を吐いて隣に座った。
「仁美。お前の心の在り様を責めているわけじゃない。お前の気持ちは、分かっているつもりだ」
「…………」
微かに、仁美が動揺したのが分かる。何故か切なさが胸中に広がって、兄に視線を戻した。
「しかし、何事にも順序というものがある。お前は愚かしくも、諒太に頼ろうとしただろう」
和太郎の容赦のない一言に、仁美は言葉を詰まらせた。
確かに、一緒に両親の元へ行ってもらえたら、と、思ったことは否定出来なかった。
「分かっているだろう。父さんと、母さんは、好いた男を連れて行ったところで話を聞いてくれるような人じゃない。むしろ、お前自身を侮り絶対に許してはくれない。自分自身で説得してみせろ。諒太にお前を受け入れてもらえるのは、それからだ」
和太郎の真剣な瞳に、頷き返した。
分かっている。和太郎は分かっているのだ。仁美の気持ちが。
……何が、分かっていると言うのか。智博は思う。
仁美の心中に、和太郎に対する共感と、どこか共犯めいた感情が芽生えたのが分かった。
『そんな大事なものを、俺などに渡すものじゃない』
「その男が、我らが竹崎の家に、何をもたらすと言うのだ」
冷たく言い放たれた言葉に、返す言葉は無かった。
父の受け答えは、驚くほど現実的で、呆れるほど実利的だった。
もたらすもの。未来など分かるわけがない。智博は胸中に焦りが広がっていくのを感じていた。
「諒太は、優秀な男です。父さん、母さん。きっと、将来」
「あなたは黙っていなさい。和太郎!」
仁美が心配だったのだろう。同席していた和太郎が口を噤んでしまった仁美に代わって言葉を継げようとしたら、母親に激しい口調で遮られた。
和太郎も、口を閉じるしかなかった。
話は終わりだと言わんばかりに、居間から二人は出ていく。
それを、兄妹は見送ることしかできなかった。
「……仁美」
気遣わしげに、和太郎が仁美を見下ろした。
仁美は目に涙を溜め、兄を見上げた。頑張って、笑顔を浮かべている。
「大丈夫よ兄さん。課題は分かったわ。あとは、論拠を詰めていけばいいんだもの」
「……そうだな」
妹の気丈な様子に、和太郎も安心したように瞳を細めた。
仁美の結婚の時期が早まり仁美の誕生日になったと知ったのは、それから一週間後、八月十九日の事だった。
『君は知らない。君の言葉がどれだけ大切なものか。それは俺ではないあの人の為にある』
「どうしてそんな勝手な事をするの!」
声を荒げて、今にも泣き叫びそうな程の剣幕で、彼女は父親に詰め寄った。
早々に籍を入れる話を聞いた。その時の彼女の怒りようは、筆舌に尽くしがたい。
そんな娘の様子を歯牙にもかけない様子で、父親は冷徹にも言い放った。
「お前の体調を慮っての対処だ。また最近、体調が思わしくないのだろう。向こうの家は環境の良い病院でもあるし、そこで療養なさい」
「絶対に嫌!」
会えなくなる。
彼に、触れられなくなる。あの笑顔が、見られなくなる。
それが何より恐ろしいのだと、彼女は初めて知った。
あの告白から、多少ぎこちなくはなったがこちらが普通に接すれば、以前と変わらない様子で彼は笑ってくれた。
それに仁美はほっとした。
その矢先にこれである。
「父さん、急すぎやしませんか。今までだって仁美の体調が思わしくなかった時はあったけど、何も籍まで入れて相手方の病院に行かせようとしなくても」
「光次郎、お前には関係ない事だ」
「関係なくはありません。妹なんですから」
父親の言葉に、光次郎が目尻を吊り上げて食って掛かった。
仁美には分かっていた。これが、諒太と自分を遠ざける為の措置なのだと。
まだ世間に馴染みきっていない仁美を学校から切り離すのは、恐らく容易い。
これまでの約束が、早まっただけ。双方の家に、なんの問題もなかった。
「この町の病院は、街中にあって空気が良くない。療養するなら、空気のきれいな、自然豊かな場所でなくては駄目だと聞いてな。丁度先方の病院は、自然豊かで空気汚染の少ない場所にあると思い出して、転院すると同時に籍も入れようという話になったんだよ」
諭すように父が光次郎に言う。光次郎は、納得していないような表情をしているが、何も言わなかった。
「もういい……私に構わないで」
仁美はそう言い、外に飛び出していった。
『君の言葉は、何よりも大切なもの。それは俺を窒息させ、押しつぶし、容易く殺してしまう』
「仁美ちゃん、どうしたんだ。血相変えて」
諒太は、クラスメイトと一緒に学校で学園祭の準備をしていたらしい。
一人で材料を買っている所を見付けて、仁美は諒太と学校に戻ってきた。話がしたいからと、黙って屋上へと連れていく。
泣きはらした瞳で、諒太を見詰め返した。
「私、私ね。明日、士さんと籍を入れる事になったの」
息が、止まった気がした。
諒太は告白した時と同じように、目を見開いた。
そしてゆっくりと目を伏せる。
「急だな。また、どうして」
絞り出す様な声に、仁美の胸が熱くなる。
惜しんで、くれているのか。まだ、希望はあるだろうか。
「相手方の家は、病院経営をしているの。私の療養も兼ねて……」
「そうか……おめでとう、と言うべきかな」
病気も良くなるし、君は幸せになれる。
そんな言葉、聞きたくない。
仁美は顔を上げて、泣きそうな表情の彼を睨んだ。
「違う。私が欲しい言葉はそんな言葉じゃないの」
諒太が唇を引き結ぶ。
彼も分かっているんだろう。自分の気持ちにも、気が付いている。
しかし、諒太は首を横に振るしかない事も。
「俺には、君にそう言うしかない」
「分かってる」
だから。
「私を連れて行って」
いつの間にか、仁美は屋上の縁に立っていた。振り返り、驚愕に目を見開いている諒太を見返した。
「何してるんだ……戻れ」
「あなたと一緒に、生きていたいの」
愛しい彼に手を伸ばす。風の音が強く、黒髪を靡かせた。
あなたと一緒にいられないなら、せめて、あなたの心が欲しい。
私を連れて行って。
あなたの、心の内に。
『もしも、もしも俺に』
「仁美、俺には無理だ……!」
目も眩むような絶望。とうとう涙を流した彼の瞳から目を逸らす事無く、縁を蹴る。
『君と同じ言葉を告げてもいい権利があるなら』
これで、彼は私の事を忘れないだろうか。忘れ、られないだろうか。
私は、あなたの心にいられる?
ああ、月が綺麗だ。
屋上に残された智博は手を伸ばす。手を伸ばすことすら出来なかった男の代わりに。
『その重みに殺され、死んでしまってもいい』