プロローグ 日常風景
竹崎誠次郎の朝は早い。
まず、5時に起きて身支度をし、まだ太陽が昇り切らぬ内にロードワークに向かう。町内を何周か走り、山の端に光が滲んで来たら帰途につく。夏ならおよそ三十分、冬だと一時間以上走る。
その後、登校の時間に合わせて自宅の敷地内にある剣道場で汗を流し、瞑想をする。膝を正し、竹刀を脇に置いて目を瞑れば、外から鳥の囀りや、木々の葉のさざめきが聞こえてくる。
それは自然と呼吸を深くさせ、鼓動を落ち着かせる。これは、学校で穏やかに過ごしている身の誠次郎としては無くてはならない習慣だった。
誠次郎は普段の生活でこそ穏やかで冷静沈着だが、元来、気性が激しい性格だ。やや乱暴で、涙もろい。
本当に幼い頃からの幼馴染はそれを知っている為、彼が学級委員を務めているクラス内で何か不穏なことが起こると、密かに自分の様子を窺っていることを知っている。
友人らの心配を他所に、誠次郎は上手く感情を隠して解決に当たる事が出来ているが。
時に荒ぶる感情を敢えて鎮める鍛錬を、彼は怠らなかった。
(今日は、早めに切り上げようか)
今日、8月19日という日付を思い出して薄く目を開けた。
夏休みの只中。彼は休み明けに開催される学園祭の準備の為に学校に向かう。学級委員なのだから、その責務は当然の義務だった。
幸い誠次郎が所属している美術部は、基本各々が作品を作り上げさえすれば、必ず活動に参加しなくてはならないという義務はなかった為クラス活動に集中する事が出来た。
目を開き、虚空を見詰めて今日のクラスメイトの参加状況を思い返す。
今、お盆の真っ只中だから、親族の実家に里帰りしているクラスメイトが大半だ。
確か今日は男子バスケ部が遅くなるかもと言っていた。柔道部は一日武道館を使うと言っていた。
剣道部は、一日オフだから参加出来る。卓球部はダメだったな。
サッカー部と軟式野球部は一日練習。硬式野球部ボクシング部は、大会で遠征中、女子バスケ部は男子バスケ部が体育館を使っているから一日大丈夫だと。
文化部は、吹奏楽部は遠征中。美術部は言わずもがなだ。
合唱部は、女子が一人だけ、参加する。
誠次郎は知らず視線を伏せた。
誠次郎のクラスは激戦の中、体育館開催のミュージカル枠を見事手にした。
クラスで唯一の合唱部である彼女は、当然劇において重要な役を割り当てられた。
劇中において主人公を一途に愛する、ヒロインの役だった。
誠次郎やもう一人の学級委員である加藤裕子、その他男子の推薦だった。
誠次郎や裕子は、その役が脚本上最も歌うことが多い役の為、元々人前での歌唱に慣れている彼女に白羽の矢を立てた訳だが、他の男子はまた違う思惑があったようだと思い出して顔を顰める。
多少のやっかみや反対があるかと危惧したが、予想に反してクラスの満場一致だった。彼女の声は聴いていて安らぎ、ソロとなるとなお一層際立つ。
クラスが一緒になった春先に、それは皆が理解した事だ。
あれ程人の声が、耳に心地良く思ったことなど、なかった。
あれ程、もっとこの人の声を聞いていたいと、思ったことなどなかったのだ。
そこまで思い出し、誠次郎ははっと顔を上げて頭を振った。
ダメだ、いけない。折角心を落ち着けたのに、既に騒ぎ出している。
耳に手を当てる。微かに、こそばゆい気がした。
「おはようございます、兄さん」
屋敷の食堂に足を踏み入れれば、一つ年下の従弟の凛太郎が挨拶をしてきた。この、自分を見て彼の瞳の光が増す瞬間を、嬉しいと思っている事は幼馴染以外には内緒だ。
毎回それを言うと、ブラコンかと笑われる。実の兄弟じゃないと真面目に返答したら苦笑された。
「おはよう。父さんも渚沙伯母様も、おはようございます」
お辞儀をして、正面の席に座る父、光次郎とその斜め前に座っている凛太郎の母親の渚沙に挨拶をする。
「おはよう」
「おはよう、誠次郎さん。さ、早くお座りなさい。朝食が冷めますよ」
「はい」
渚沙ににこやかに促されて誠次郎は父の斜め前、渚沙の正面の椅子に座った。白いテーブルクロスの上に載っているのは、湯気立ち上る和食だった。
見れば、三人ともまったく箸をつけていない。待っていてくれたのだと気付いて、自然眉根を寄せた。
「申し訳ありません、待っていて下さったんですね」
謝罪をすれば、光次郎が首を横に振った。
「謝罪の必要はないぞ、渚沙さんがうるさくてな」
「あら、ご飯は皆で食べた方が良いでしょう? きっと美味しいですわ」
「母さんは、見た目通りに頑固ですからね」
「凛太郎?」
げんなりとした声音を発した光次郎に渚沙が微笑んで反論し、凛太郎のフォローにもなっていない言葉を更に笑みを深めて制し、誠次郎に向き直った。
さすが竹崎家の女当主である。と、若干引きながら誠次郎は思う。
「それにしても珍しいですね。誠次郎さんが朝食の時間に遅れるなんて」
味噌汁に箸をつけながら、渚沙が素朴な疑問を投げ掛けてきた。
既に鮭の切り身をほぐしていた誠次郎は改めて渚沙を見詰め返した。
「いえ……少し、考え事をしていたら、剣道場の方が長引いてしまいまして」
未熟なのがお恥ずかしい限りです。と言えば、渚沙は笑って首を振った。
「まだ高校二年生ですもの。色々と悩みもあるわよね」
多感な年ごろですもの。分かるわ。神妙に頷き、渚沙はほうれん草の御浸しを口にする。
「なんだ、何か悩みでもあるのか」
話題が去った気配を感じてほっとしたのも束の間、光次郎が心配そうに息子の顔を覗き込んできた。
この父親、四年前に母が亡くなってから過保護になっていやしないか。
あまり触れて欲しくない内心だが、父の心配も分からないでもないから曖昧に微笑んだ。
「そんな、大したことじゃありませんよ。最近は学園祭の準備で忙しいので、その進捗が気になっているくらいです」
嘘は言っていない。心を乱した理由はそれではないが、言葉を足していないだけだ。
渚沙の意味深な微笑みと、凛太郎の含み笑いを黙殺して、そうかと呟いた父に力強く頷いておいた。
「それはそうと誠次郎。今日が何の日か分かっていると思うがよろしく頼むよ」
「はい。承知しています。いつもの生花店に予約してから、学校に向かいますよ」
父の言葉を受け、再び誠次郎は頷いた。
今日は、叔母の仁美と伯父で凛太郎の父である和太郎の命日だ。二人とも、事故で亡くなった。
その花を、誠次郎が毎年用意しているのだ。光次郎は顎をさすり息をついて、凛太郎を見る。
「どうも、花選びは私や凛太郎くんではセンスがないと叱られるからね」
「どうしてあんな色合いで買ってくるのか、理解に苦しみます」
渚沙がすぱっと切って捨てる。凛太郎が味噌汁を飲み干して笑った。
「その点、兄さんは美術部ですからね。センスは抜群ですよ」
正常、奇抜共にね。凛太郎の言葉に、渚沙も満足気に笑った。
「そうね。和太郎によく似てる」
彼女の夫である和太郎も、美術全般を得意としていたようだ。現に彼が寄贈した絵画が、彼の母校であり誠次郎、凛太郎が通う高校に複数存在している。
その言葉に表情を強張らせながら、やはり曖昧に微笑んだ。
「では、花も予約したいですし、もう行きますね。ごちそうさまでした」
「僕も行きます」
ゆっくりと椅子から立ち上がる凛太郎が後ろに続いた。食堂の扉を開ける前に誠次郎は従弟を見返して首を傾げる。
「早稲は待ってなくていいのか」
「もう来る頃でしょう」
凛太郎が平然と言ってのけたと同時にチャイムの古めかしい音が響いた。
この長さは、ほぼ毎朝聞いている。
「……お前、テレパシーでもあるんじゃないか」
「慣れというやつです」
やはり平然と言う凛太郎に、誠次郎は口を閉じた。
「……とりあえず、俺は少し寄り道してから行くから、お前は先に行ってろよ」
「分かりました。田中先輩によろしくお伝えください」
さっと血の気が引いた誠次郎を見て楽しげに凛太郎が扉の向こうへ消えた。誠次郎は溜息をついて後ろを振り返る。
やはり、渚沙はにやにやと笑っていて、光次郎はどこか顔色を失くして誠次郎を見ていた。
どこまで心配性なのか。
「……お騒がせしました。では、行ってまいります」
「ええ、行ってらっしゃい」
「……気を付けるんだぞ」
弾むような声と硬い声に見送られて屋敷を出る。
美しい声の少女は、田中理和という。竹崎誠次郎が、目下、恐らく、多分、片想いというものを拗らせている相手の名前である。
目当ての生花店は、誠次郎たちが住むこの花霧町一の神社、花霧大社の門前町にある。
何となく予想はしていたが、というか、あえて狙って花霧大社の前から門前町に入れば、背後からよく知る声が掛けられた。
「誠ちゃん!」
鳥居から続く石段を見上げれば、その頂から幼馴染である本宮智博が軽快な足取りで降りてくる所だった。朝日にキラリと眼鏡が光り、真っ白なシャツに黒のパンツという制服姿が爽やかだ。
「おはよー。珍しいね。通学路から外れてこっちまで来るなんて」
「おはよう。ああ、今日は花の日だから」
誠次郎が笑って言えば、智博は納得したように頷いた。
「そっか、今日は19日だもんな」
「うん」
そして当然のように一緒に並んで生花店へ向かう。
竹崎と本宮は、由緒正しい名家だ。厳しく育てられた誠次郎にとって、同じ境遇にありながらのびのび育った智博は憧れであり、羨望の対象だった。そして、大切な親友である。
他愛のない話をしていると、すぐに店先に着いた。一歩店内に踏み入れば、豊満な花の香が誠次郎の鼻をくすぐった。
「じゃあ、これで二千円ね。お代は帰りでいいから」
「分かりました。いつもありがとうございます」
不意に店の奥から届いた声に不覚にも足が止まった。どうしたと智博が店の奥を覗けば、にやーっと口元に笑みが浮かんでくる。
「田中さん、おはよ」
幼馴染の気も知らないで、智博が人好きそうな笑みを浮かべて理和に挨拶する。
一瞬驚いたように肩を揺らした彼女だったが、振り返ってすぐにその柔和な相貌を崩した。
「本宮君に竹崎君、おはよう」
「……ああ、おはよう」
落ち着いて声を発し、穏やかに微笑んだ。
内心は、必死だ。非常に焦っている。不意打ち過ぎた。それが分かっているのか、智博が可笑しそうに肩を揺らしている。
笑い袋と化している智博を不思議そうに見つめて、理和が口を開いた。
「本宮君は、そっか、花霧さんの息子さんだもんね。竹崎君はこっちにくるの、珍しいんじゃない?」
誠次郎は町の西の端に住んでいる。対して花霧大社は東寄りだ。珍しいと言えば珍しいが、誠次郎は首を傾げた。
「俺は花を頼みに来たんだ。田中さんこそ珍しいんじゃないか? 住んでいるのは確か南側だったな」
「うん。ちょっと離れてるんだけどね」
苦笑してどうしてもここが良いからと、言葉を続けた。
「確かに、この店の花は色鮮やかで品が良いからね」
「そんな事言っても一円もまけませんからね、竹崎の坊ちゃん」
笑いながら店主が花の入ったバケツを持ってくる。恰幅の良い中年の女性だ。物怖じすることなく、微笑を浮かべ誠次郎は首を振った。
「世辞ではないよ。本当の事を言ったまでだ」
「あらまあ、嬉しいですね」
「それに、価値あるものにはそれに見合う対価を払うものだしね」
「ふふ、分かっておりますよ」
会話を続ける二人を見ながら、智博は呆気に取られている理和の隣に移動した。
「……なんだか、面白いだろ」
「えっと、面白いというか、なんかすごいね」
まず、誠次郎の発言が高校生離れしている。住む世界が違うんだなぁと、理和は改めて実感した。
その言葉に、智博は誠次郎を見詰める理和に視線を移した。
「……誠次郎って、取っ付きにくい?」
「えっ?」
質問の意図がいまいち分からず、智博を振り返った。思いがけず真剣な瞳で、息を飲む。
いつもムードメーカーで明るい智博が、あまり見せない表情だ。
「うーん、誠次郎の事、どう思ってるのかなって」
どうしてそんな事を聞いてくるのだろう。よく分からなかったが、理和はクラスメイトから視線を外す。
「……そうだね、成績も一年からずっとトップで、部活でもコンクールで賞を取って、信頼できる人柄で、見た目も良い。しかも、家柄も良いときたら、私なんかが話しかけちゃいけないな、とは思う」
「……田中さんのそういう正直な所、好きだよ」
頑張れ誠次郎、と内心エールを送る。ありがと、と微笑んで、理和は花の注文を始めた誠次郎を再び見た。
「でも」
「でも?」
彼女の瞳は真っ直ぐ澄み渡って、彼を見詰めている。
「家柄とかはどうあれ、今はクラスメイトだし。仲良くはなりたいよね」
「その心は」
「せっかく出来た縁を、自分から切るような事は絶対にするな」
っていう、お母さんの受け売り。
悪戯っぽく笑って、理和が智博を見上げた。智博は不意に頬が熱くなって視線を逸らす。
前々から密かに思っていたが、めちゃいい子だこの子。
思いを新たに、理和にそう告げれば、彼女の頬も一気に赤くなって俯いてしまった。
「待たせたね……どうかしたのか」
お互い頬の赤い二人を見て、訝し気に誠次郎が聞いてくる。智博は慌てて首を横に振った。
「なんでもないよ! 誠ちゃんの話題で盛り上がっちゃって」
ねー!と、理和に同意を求めれば、赤い顔のままコクコクと頷いた。
その言葉に、なお一層困惑気味に誠次郎は眉根を寄せる。
「なおさら聞き捨てならないんだが」
まあ、聞かれたくないなら無理には聞かないが、とぶつぶつ呟きながら誠次郎は理和に視線を移した。
「田中さん、もし良かったら一緒に学校に行かないか」
「え!?」
不意打ちの言葉に、今度は理和が驚いた。
こんな事を、わざわざ聞いてくるとは、真面目というか何と言うか。
「そんなの、同じ方向なんだから」
言外に構わないと言えば、誠次郎は一瞬呆けた顔をした後、吊り上がっている目尻が、ふっと緩んで赤みが差した気がした。
初めて見る表情に、思いがけず動揺する。
「誠ちゃん真面目だなあ」
「うるさいな」
仲良さげに肩に腕を回す智博に、誠次郎の表情はすぐに立ち消えてしまった。
見間違い、だろうか。
二人のやりとりを聞きながら、理和はくすくすと笑って足取りも軽く学校へと一緒に向かった。