七十八秒の紅茶
――温もりをくれた自販機は錆びついてしまっていた。
懐かしむとともに、淡い苦味を感じた。
コンビニやスーパーを探してもない、あの自販機だけにしかない紅茶を、彼女はもう飲むことができないのだ。
かじかんだ手で落とさないように大事に持って、彼女が飲みやすい温度になるまで待つ。ただそれだけのことが幸せだった。
猫舌の彼女は買ったばかりの紅茶を飲むことできずにいた。冷えた僕の手に移る熱が心地よくて。彼女の温もりをもらっているような気がして。
僕がゆっくり数えて七十八。それが彼女の適温だった。
紅茶を渡せば、彼女は頬を緩ませ喜々としてそれを受け取る。
――きみの冷ました温度がちょうどいい。
そう言って小さく笑う姿は白雪を彩るさざんかのように艶やかだった。かじかんだ僕の手は温まっていて、でも、それ以上に頬は熱かった。
こくりこくりと紅茶を飲む彼女を、僕はただ待っていた。人気のない公園の、ところどころ色の剥げたベンチに座って。何をするわけじゃなくても、愛しい時間は流れていた。何をするわけじゃないからこそ、きっと僕は満たされていた。彼女もそうであったらいいと思うけれど、それを知る術はどこにもなくて。
紅茶を飲み終えた彼女は僕を見て頷きを一つ。それが帰る合図だった。他愛もない話、学校の授業だとか、部活だとか、誰それの恋愛事情だとか。そんなくだらない、けれど大切な時間だった。
冬の冷たくも澄んだ空気は、熱くなっている僕には心地良かった。温まっていた僕の右手は段々と冷えていくけれど、左手は冷めぬままで。左右非対称の温度がまた幸せの温もりを心にもたらしてくれる。
くだらない話はたったの十数分でいつも終わりを迎える。遠回りをしたかったけれど、それは我侭だった。でも、彼女はそんな僕のことなんてお見通しだった。
――また、あした。
白い息をはきながら彼女は柔らかにそう告げる。
また明日もあるんだと、僕に約束してくれるような言葉。一瞬にして高揚する気持ちは我ながら単純だとは思うけれど、そんなものなんだろう。
――また、あした。
それは僕の勘違いなんかじゃなくて、本当に約束の言葉だったのだ。それを知ったのは「また、あした」が消えた次の日だった。
一人になった帰り道、公園に寄ることもなくなったから僕の帰宅時間は数分早くなった。けれども、その数分は僕にとってどれだけ大切なものだったのだろうか。心には小さくとも癒えることのない穴が空いていて、そこからは幾重にも織り込まれた感情が止めどなく流れ落ちていた。
きっといつしか、流れ落ち枯れ果ててしまったら忘れてしまうのだろう。そうすればきっと、穴も塞がるのだろう。
けれど、けれども、この穴をまだ塞ぎたくはなくて、まだ枯れ果てさせることなんか嫌で。
錆びついた自販機はまだ動いていた。硬貨を数枚入れてホットの紅茶を買う。あの甘ったるい紅茶を。
落とさないように、失くさないように、抱き締めるように持つ。
ゆっくり数えて七十八。
そうして少し冷めた紅茶を一口飲んだ。
――甘ったるいはずの紅茶は淡い苦味を帯びていた。