1月1日分「ヘアピン」「電脳空間」「蛇」
元日の三題噺、のはずだったんですが、始めたのが九時半頃で、投稿が二日にずれ込んでしまいました(汗)
それにしても「ヘアピン」と「電脳空間」と「蛇」とは……
企画始まっていきなりの難題でございます。
今年は午年! 舞台は一昨年の日本、ということでお願いします(苦笑)
「電脳空間」? ……いえ、知らない子ですね。
師走。
寒空の下、嫌な時期が訪れたものだと由美子は思った。それは彼女が寒さを苦手としているからという単純な理由ではない。
由美子の心中を覆っていたのは、もう間もなく新年を迎えなければならないことに対する嫌悪――この一年間を棒に振ってしまったことに対する悔悟の念だった。
コンビニの小袋を小脇に抱え、小走りでアパートの階段を上る。木製の階段は相当年を経ているようで、由美子が段を上る度にミシミシと嫌な音を立てた。
昨年、由美子は大学への進学を果たした。ともかく東京へ行きたいというその一心で勉強をし、無事上京、その際にこのアパートでの生活を始めたのだ。
軋むアルミドアの鍵を開け、自室へと駆け込む。
見ての通りのオンボロアパートである。なかなか風情があって良いなどと嘯いていた当時の自分の姿をふと思い出し、由美子は一つ大きなため息をついた。
花の大学一年生。真っ当なキャンパスライフを送ることは出来なかった。
賃貸のオプションとして付いてきたちゃぶ台の上に、買ってきた弁当と適当な菓子類を放り出す。部屋の電気もつけぬまま直接畳に寝転がり、由美子は愛用のノートパソコンを開いた。家に帰ってすることといえば専らネットサーフィンか携帯ゲーム。一人暮らしを始めてからというもの、由美子の私生活は実家で暮らしていたとき以上に堕落していた。
疲れ切った現役女子大生の顔が、パソコンの起動待機画面に映る。
自覚は、あった。
こんな風になってしまった自分が嫌で嫌で仕方がなかった。東京へ行けば楽しい生活が待っている、そんな甘い考えが誤りだと気づいたのは入学してから随分と後のことだった。
興味のない内容の講義、活気のないサークル活動、頭の悪い連中で溢れた学舎。
けれども、いくら後悔したところで失ってしまった時間は取り返せない。 ――もう、どうなったっていいや。
由美子は半ば自暴自棄に陥り、しばらくの間大学へ行くことすら止めていた。
ノートパソコンの画面がパッと明るくなり、由美子の視界を照らし出した。画面右下のデジタル時計は、既に十時を回ったところだった。
年明けまで、残り一時間と少し。カウントダウンなんてする気にもなれない。今頃世間の人々は家族と一緒に今年一年の幸せを振り返りながら年越し蕎麦をすすっていることだろう。
帰郷、という言葉が頭をよぎった。しかし、由美子はそれをすぐに打ち消した。今の自分が実家に帰ったところで、何になるというのか。
苛立ちを抑えるべく、由美子は買ってきた菓子類に手を伸ばした。
事件が起きたのは、そのときだった。
「――え」
ノートパソコンの画面が、突然歪んだ。かと思うと、毛筆で『賀正』と綴られた表示が画面一杯に現れたのだ。『賀正』と言えば、パソコン向け年賀状作成のソフトである。
そんなものが何故、今、急に起動したのか。
そんな疑問が湧き上がったのと同時に、彼女の意識は薄暗い部屋の闇に消えた。
「……ん」
頬にザラザラとした感触を感じ、彼女は目を覚ました。冬用のジャンパーを羽織ったままの身体を起こし、辺りを見渡す。
一面の雪景色、否、何もない白の空間である。
「ここ、どこ」
事態を把握し切れていない由美子の呟きに答えたのは、背後から響く奇妙な音だった。
大気を吸い込むような、機械的な鋭い音。
「――」
振り返った先にいたのは、巨大な白蛇だった。尾の先が見えないほどに長い体躯に、反り立つ鎌首。身体中を覆う鱗はどれも光沢に溢れ、並大抵の刃では貫き通せないであろう硬度を鑑みさせた。視界全てを覆い尽くす、白。唯一燃え上がるような赤を携えた灼眼は眼光鋭く、由美子の姿を捉えて離さない。
神話に出てくるような大蛇の登場に、由美子は悲鳴を上げることすら忘れていた。
白い大蛇はこれまた赤い舌をチロチロと出しながら、しばらく由美子の姿をじっと見つめていた。対して由美子はまさに蛇に睨まれた蛙のごとく、何も出来ずにただ唖然と立ち尽くすばかりである。
そんな時間がどれくらい続いただろうか。
突如、大蛇は空気を揺らめかせ、ぐわんと鎌首を思い切りもたげた。
――やられる。
動物的な直感か、由美子は思わず目を閉じた。
しかし、何の音沙汰もない。
恐る恐る由美子が目を開けると、大蛇の二つの鼻孔がずうっと迫ってきている。本来であれば細いはずの幅広く長い舌が、身体を縮こまらせた由美子の目の前にまで器用に伸びてきた。
それだけで由美子は卒倒しそうになったが、辛うじて耐えた。
真っ赤な舌の上に乗せられた、ピンク色の一物に気づいたからだった。
見覚えのある、小さな桜柄のヘアピン。大蛇の両眼が、それを取るよう訴えているような気がして、由美子は慌てて手を伸ばした。
由美子がヘアピンを受け取るや、大蛇は再び鎌首をぐわんと揺り動かして、元の彫像のような体勢に戻った。
「このヘアピン……」
大学試験の前日、由美子の両親が合格祈願として買って来てくれたものだった。
由美子の家は、元々あまり裕福ではなかった。両親は共働きで、由美子にはいつも仕事をしている印象ばかりが残っていた。日々の生活が満足に送れれば、それで良いという程度の家計。ましてや、娘を東京の私立大学へと進学させる余裕はないはずだった。
けれども、由美子の両親はそれを止めなかった。相当、無理をしたのだろうと思う。仕送りの金額が徐々に減っている理由も、由美子は薄々分かっていた。
「……っ」
――自分は、なんてバカなんだろう。
次々に溢れ出る様々な想いが、由美子の目元を濡らし始めた。慌ててジャンパーの袖で目元を拭っても、涙はおかしいほどにとめどなく湧き出てくる。
一度爆発した感情は彼女の嗚咽を誘い、次第にそれを慟哭へと変えていった。
もう、抑え切れなかった。
広大な空間の中で、一人の少女が一年分の涙を流すのを、巨大な白蛇がじっと見守っていた。
由美子が次に目を覚ましたのは、チュンチュンという雀の鳴き声のせいだった。
どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。頬に伝わる畳の感触が、自らの現在位置を知らせてくれた。
重い頭をゆっくりと上げ、はっきりとしない頭のまま由美子は呟く。
「……夢?」
しかし、それは違った。ぼんやりと泳がせていた由美子の視線が、床に転がった小さなヘアピンを捉えた。
一瞬で意識が冴え渡り、由美子はそれを拾い上げた。
桜の花が彩られた小さなヘアピン。安そうな、どこでも手に入りそうなヘアピン。
「……父さん、母さん」
何気なく、そのヘアピンをボサボサに乱れた前髪につけてみた。指先に伝うパチンという感触が懐かしい。
由美子は立ち上がり、洗面台へと向かった。
その途中で気がついた、玄関のポストから溢れて冷たいアスファルトに落とされた数枚の官製ハガキ。
由美子はそのうちの一枚を拾い上げた。
『身体には気をつけるように』と綴られた太い筆文字。
『また顔見せに帰っておいで』と綴られた柔らかい筆文字。
『あけましておめでとう』と印刷されたゴシック文字の隣で、イラストタッチの大きな白蛇がニッコリと微笑んで踊っていた。