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ごめんね、お母さん

作者: 松島 圭(本名・成尾五邦)


ごめんね、お母さん



第一章 


            1


 A市北郊のなだらかな丘の斜面に、住宅街が広がっている。

 縦横に走る道に沿って、大小の住宅が建ち並んでいた。

 その住宅群を出外ではずれた坂の下に、木造の小さなアパートがある。

 藤井母娘ふじいおやこは、二月ふたつき半ほど前、このアパートに引っ越して来た。

 二DKの賃貸フラットが、一階に四つ、二階に四つあって、一階の西日の当たる二DKが、母娘おやこの生活の場だ。

 中学二年生の藤井幸恵ふじいさちえは、体が小さい割に、頭が大きい。

 髪の毛は、茶色がかって、縮れ毛だ。 

 少しでも見栄みばえをよくしようと、毎朝、学校に行く前に、クシやドライヤーを使って、いろいろ、涙ぐましい努力をする。幸恵の努力が報われることはない。茶色がかった髪の毛や、縮れ毛は、生まれつきなのだ。

 母親の美枝子みえこは、新しい働き口を見つけて、働いている。出勤が午後三時と遅い代わりに、帰宅も遅い。アパートに帰って来るのは、いつも、深夜だ。

 幸恵は父親の顔を知らない。

 美枝子も父親の話をしたことがない。

 小学校の入学式の前の日に、ランドセルを背負った幸恵を見て、一度だけ、さっちゃんはお父さんに似てしまったんだね、と言ったことがある。

 美枝子は、帰宅がいくら遅くなっても、幸恵より早く起きる。

 通学用の服を整え、その日学校に持っていくものを見てやり、朝食を食べさせ、アパートを出た幸恵の姿が、四つ角を曲がって、見えなくなるまで見送る。

 幸恵は、美枝子の前では、元気の良い明るい顔を作って見せる。

 美枝子が見ている間は、時々、母親の方を振り返りながら、普通に歩く。

 四つ角を曲がった途端とたんに、ベソをかいたような涙顔になる。

 歩きが遅くなる。

 学校へ行きたくないので、立ち止まったり、途中の橋の上で川面かわもをみつめていたりして、アパートから一キロメートルも離れていない学校へ着くのに、時間がかかる。

 時には、反対の方角へ向かう道を歩いていることもある。

 途中に小さな神社やしろがあるからだ。

 人気ひとけのない境内けいだいに入り、社殿の前の石段に座って、うつむいて、泣きじゃくっていたりする。

 寄り道をしない日も、どうしても、足の運びが遅くなる。

 従って、毎日のように、遅刻している。

 一時間目や、二時間目が始まってから、教室に入る日もある。

 その日も、教室の入り口に着いた時には、朝のショートホームルームが終わりかけていた。

 死にたいくらいつらい思いをこらえて、教室の入り口の戸をそっと開けて、ずと中に入る。

 教卓の前に立っていた担任の五十嵐美紀いがらしみきが、幸恵に顔を向けるや、

 「あら、今日は早かったのね」

 と、言った。思わず出た言葉だった。

 学級の生徒たちが、どっと笑った。

 五十嵐も、つい、一緒に笑ってしまった。

 幸恵は顔をあげることができない。

 目にいっぱい涙をためて、項垂うなだれて、消えてなくなりたいと思う。

 五十風は、国語の教師で、他のクラスの一時間目の授業のことが気になっている。幸恵の遅刻はいつものことなので、かまっていられない。幸恵の指導を後回しにして、急ぎ足で出て行ってしまう。

 その日も、幸恵のつらい一日が始まる。

 五十嵐がいなくなると、三,四人の生徒たちが、幸恵の机の周りに寄ってきた。

 永吉明美ながよしあけみが、五十嵐の口まねをする。

 「あら、今日は早かったのね、おほ、ほほ、感心、感心」

 生徒たちが、どっと笑う。

 調子に乗った野崎聡子のざきさとこが、意地の悪い声で、幸恵の顔をのぞき込むようにして、言う。

 「あんた、髪の毛を染めて、パーマかけてんじゃない? 校則で禁止になってんの知ってんでしょう? キモイよ。帰んなよ。なんなら、あたしたちがハサミで切ってあげてもいいんだよ」

 教室の後の方の席で、けたたましく笑っていた瀬戸口浩平せとぐちこうへいが、すかさず、

 「頭でっかちで、短足だから、坊主頭が似合うじゃん!」

 と、ふざけた声をあげたので、教室中が、また、どっと笑った。

 幸恵は、うつむいて、歯を食いしばって、涙をポロポロ流している。

 廊下側の窓際まどぎわの席に座っていた生田香織いくたかおりが見かねて、突然、立ち上がって、黄色い声を張り上げる。

 「あんたたち、あんまりじゃない! 藤井さんは九月に転校してきたばかりじゃないの! かわいそうだと思わないの!」

 野崎聡子が、生田にあざけるような顔を向けて、喰ってかかる。

 「かおり、あんた、学級委員だと思って、いい気になるんじゃないよ。転校してきたからって、茶髪に染めて、パーマかけていいってもんじゃないだろ! 短足の味方して、自分だけいい顔しようなんて許さないよ!」

 野崎や永吉や瀬戸口とことかまえたら、どういう仕打ちが待っているかわからない。

 生田は、泣きそうな顔をして、座ってしまった。

 学級担任の五十嵐美紀は、教師歴三年目で、学級担任は初めてだった。

 十人並みの容貌ようぼうだが、プロポーションの良さと若さが、それを補って、生徒たちに人気があった。溌剌はつらつとした若さに加えて、責任感が強くて、ヤル気があった。

 かと言って、教育の現場では、それが、必ずしも、プラスに働くとは限らない。

 五十嵐は、自分の学級に遅刻の常習者がいることが頭から離れない。

 担任としての力量不足がさらされているような気がするのだ。

 なぜ遅刻するのか、と、幸恵を厳しく問いつめたことが何度もある。

 いつも、幸恵は答えない。

 泪目なみだめになって、俯いて、かたくなに黙っている。

 幸恵の母親とは、なかなか、連絡が取れない。

 なんとか連絡が取れても、学校には遅れないように送り出しています、という答えしか返って来ない。

 母親の美枝子にしてみれば、事実、その通りなのだから、他に言いようがないのだ。

 五十嵐は、思いりや憐憫れんびんの情は人一倍ある、と自分では思っている。SF映画で見たETに似ている女子生徒をうとましく思うようになっている心の中の動きが、自分でも、説明がつかない。

 五十嵐は、スナックづとめの母親に子どものしつけがまともにできるはずがない、と思い始めている。

 こんなに遅刻が多いのはあなただけじゃないの、と叱りつける。

 学校にいつも遅れて来るような人が、勉強できるわけないのよ、などと皮肉を言う。

 あなたがこの学級クラスに入ってくるまでは、こんなに遅刻する生徒は一人もいなかったのよ、などと、つい、声を荒げる。

 生徒たちも、それを聞いている。

 幸恵は、なんとなく、五十嵐が嫌いだ。

 髪の毛のことは五十嵐に言えるようなことではない。

 短足とか、頭でっかち、とか言われて、毎日、いじめられていることも訴える気がしない。

 五十風に言ったら、かえって、いじめがひどくなるような気がするのだ。

 幸恵は、大好きな母親の美枝子をもう泣かせたくない、どんなに辛いことがあっても、自分が我慢がまんするしかない、と思いめている。

 前の学校でもいじめられて、母娘おやこで泣いた。

 転校も三度目だ。

 美枝子は、そのたびに仕事を変えて、今度は、夜のおつとめを始めている。


              2


 その日、三時間目の授業は体育だった。

 担当の高倉は、きたえあげた体に、中年の脂肪太りが加わって、頭を短く刈り込んだ精悍せいかん風貌ふうぼう相俟あいまって、言動に迫力があった。容赦なく生徒を叱りつけ、体罰もさないので、特に男子生徒は怖がっていた。

 高倉の姿が遠くに見えただけで、騒いでいた生徒たちが、あわてて整列して、シーンと静まりかえる。

 その日は、スポーツテストの一環で、先ず、五十メートル走と走り幅跳びを、男女が交互に実施することになっていた。

 幸恵は、体育が苦手で、嫌いだ。何か理由を言って、見学にしてもらおうと思うが、高倉に申し出る勇気がない。雨が降って座学になればいい、と、いつも思う。

 その日は、朝から曇り空で、ひそかに期待していたのだが、空は明るくなる一方だった。

 女子は、最初は、五十メートル走だった。

 二人一組で、幸恵は、最初の組で走った。

 ゴールに入ったときは、もう一人の生徒から十五,六メートルほども遅れたが、走りきってほっとした。

 身長が一番低い幸恵は、走り幅跳びも女子の一番目だった。

 十数メートルほどの助走路の先に、着地点の砂場がある。

 幸恵は一生懸命だった。

 それが裏目うらめに出る。

 スタートして、五、六メートルも走らぬうちに、足がもつれて、転んでしまう。

 近くで見ていた生徒たちが、一斉に笑った。

 「短足だから、仕方がねえや」

 と、ふざけた声をあげたのは、瀬戸口浩平だ。

 幸恵は、もう一回助走して、踏み切り板まで走る。

 飛べずに転んでしまい、すぐ目の前の砂場にも届かない。

 「短足で、頭でっかちだから、走り幅跳びはムリじゃん」

 と、受けをねらって言ったのは柳田秀明やなぎたひであきだ。

 瀬戸口と柳田が傍に来て、体をよじるようにして、腹をかかえて笑う。

 幸恵は、砂場に駆け込んで、砂をつかんで、瀬戸口に投げつけた。

 さらに、もう一回砂をつかんで、柳田にも投げつけた。

 突然の奇襲だった。

 幸恵がこんな逆襲に出たことはない。

 瀬戸口も柳田も、油断していたので、顔に飛んできた砂を避けきれない。

 目や口に砂が入ったらしく、顔をゆがめて、唾をペッペッと吐きながら、目をこする。

 この様子を少し離れたところから見ていた高倉が、すぐに、やって来て、

 「いらんこと言って、馬鹿にして笑うからだぞ。藤井は一生懸命やってんだから、おまえらが悪い」

 と、言いながら、瀬戸口と柳田の頭を、げんこつの背で、強くたたいた。

 瀬戸口も、柳田も、痛そうに坊主頭をさすりながら、悔しそうな顔をしたが、高倉の前で、幸恵に手出しはできない。

 体育の時間は、その後は、何も起こらなかった。

 幸恵は学校にいること自体が耐え難い苦痛だ。

 中でも、昼食時間がいやだった。

 昼食時間には、仲のよい友だち同士が、机を寄せ合って、給食を食べる。

 幸恵は、一緒に机を寄せて食べる相手がいない。

 泪目になって、いつも、一人で食べる。

 転校して来た頃は、生田香織と生田に声をかけられた数人が一緒に食べていた。

 しかし、生田にも、仲間はずれにされてまで、幸恵の味方をするほどの勇気はない。

 永吉や野崎のグループにいやみを言われ、それが本格的な嫌がらせに発展する気配けはいが見え始めてから、生田も一緒に食べなくなった。

 生田と同じ思いをしている生徒は他にもいたはずだが、同じ理由で、見て見ぬふりをしているようだった。

 幸恵が給食当番のときは、幸恵がご飯や汁物をごうとすると、おたまやシャモジを取り上げて、勝手に、自分で、食器を満たす生徒たちがいる。

 五十嵐も、給食当番を手伝うのだが、自分も忙しいので、それに熱中していて、そういう状況に気づいていない。

 昼食時間の後、五時間目の授業が始まる前は、掃除の時間になる。

 幸恵は掃除の時間もいやだ。

 意地悪をされることが多いからだ。

 その日も、幸恵が教室の床を掃いていると、野崎聡子が、幸恵の足に自分の持ったホウキをわざとぶつけて、幸恵に顔も向けずに言う。

 「モタモタしてんじゃないよ。短足だから、掃除も遅いんだから」

 幸恵は、泪目になって、うつむいて、ホウキを動かし続けているしかない。

 幸恵は、六時間目まで授業が終わると、いつも、終礼が終わるの待ちかねるようにして、教室を出る。

 その日、幸恵は、机の中やカバンの中の整理に、いつもより、手間取った。

 体育服や書道の道具があったからだ。

 その間に、担任の五十嵐は、教室から姿を消していた。

 幸恵が教室を出ようとすると、瀬戸口と柳田が、教室の後方の出入り口に、待ちかまえていた。

 瀬戸口が右足をドアのレールの上に出したので、幸恵はそれに足を取られて、廊下にのめって倒れた。

 右手にカバンを持ち、左手には副教材や体育服を入れる補助バッグを持っていたので、手でかばうことができない。

 ぶざまにうつ伏せに倒れて、鼻柱はなばしらを床にぶつけた。

 「あは、はは、短足でも転ぶんじゃ」

 「頭が重いんじゃ、あは、はは」

 幸恵は頭の中が真っ白になった。

 鼻の痛みも感じない。

 立ち上がって、瀬戸口にむしゃぶりついていく。

 声をあげて泣きながら、両手で、瀬戸口の胸のあたりをむちゃくちゃにたたく。

 柳田が面白がって、

 「お、短足がおこったぞ」

 瀬戸口が、ものも言わずに、幸恵を両手で突き飛ばした。

 本気で力を入れたらしく、幸恵は、仰向あおむけに倒れて、後頭部を床に激しくぶつけた。

 その様子を見ていた生徒たちがいたのだが、教師に知らせに走ろうとするものはいない。

 瀬戸口は学年のワルで通っている。

 チクったら何をされるかわからない。

 柳田は、瀬戸口にいつもくっついていて、虎の威を借る狐のようなやつだ。

 生田香織も、教室の中にいたのだが、やはり、動けずにいた。

 生田の目から涙が溢れ出ていた。

 瀬戸口は、見ていた生徒たちに、

 「短足の味方して、チクったりしやがったら、ぶっ殺すぞ!」

 と、中学生とは思えない物騒ぶっそうな捨て台詞ぜりふを残して、柳田とそそくさと姿を消した。


              3


 幸恵は、学校からアパートに帰り着くと、裏口にまわる。

 持たされているのは、アパートの裏口の鍵だ。

 裏口を開けると、台所の上がり口のマットの下に表口の鍵が隠してある。

 幸恵は、その鍵を持って、玄関に回って、ドアを開けて、中に入る。

 土間に入って、狭い板敷いたじきの近くの障子を開けると、そこがすぐ居間だ。

 母親の美枝子は、幸恵が学校から帰る頃に、家にいることはほとんどない。

 夜遅く、それも、幸恵が眠り込んでいるときに帰って来る。

 幸恵は、靴を蹴飛けとばすようにして脱いで、居間にい上がると、カバンと補助バッグを投げ出して、畳に顔をうつぶせて、声を出して、泣いた。

 こうやって、何回、泣いたろう。

 泣いても、死んでしまいたい、という思いは消えないのだが、アパートの居間には、美枝子のぬくもりが残っている。

 幸恵が涙に濡れた顔を上げると、目の前のテーブル代わりに使っている小さなコタツ台の上に、母親のメモが置いてある。

 美枝子は、このメモを忘れたことがない。

 広告チラシの裏面を使って、黒のマジックペンで書いたものだ。

 幸恵は、目に涙をめて、腹這はらばいのまま、コタツ台ににじり寄って、両ヒジをタタミについて、首を伸ばして、コタツ台にアゴを乗せる。

 丸みをびた字が、家に帰り着いたことを幸恵に教えてくれる。

 「お帰りなさい。今日はどうだった? おいしいケーキ買っといたから、学校から帰って来たら、食べてね。さっちゃんが好きなハンバーグ作っといたよ。お夕食の時間になったら、冷蔵庫から出して、ごはんと一緒に電子レンジで温めてね。ごはんをいっぱい食べて、お野菜も食べるのよ。牛乳も飲んでね。今日も遅くなると思うけど、戸締まりを忘れないでね。いつも一人にして、ごめんね」

 幸恵の頭の中で、美枝子の顔が笑いかける。

 幸恵は少し元気が出てくる。

 美枝子は、三十歳台の半ばを過ぎていて、家にいる時はやつれているように見えるが、化粧をすると、小柄でせている分、若々しく見える。見栄みばえがするので、幸恵とは、とても、母娘おやことは思えない。保護者参観の時など、幸恵は、美枝子を誇らしく思うことがある。

 幸恵は、美枝子を悲しませたくないので、このまちに引っ越して来てからは、学校でいじめられていることを話していない。

 幸恵は、コタツ台の上に置いてある、ケーキの入った小さな白い紙箱を開ける気になれない。

 頭の中に、瀬戸口や柳田、野崎や永吉の意地の悪い顔が浮かぶ。

 朝の教室で笑われた時の、瀬戸口のひときわ耳に響く笑い声と、頭でっかちで、短足だから、坊主頭がいいじゃん、と言った、大きな声が耳の中に残っていた。転校してきたばかりの幸恵のことを、頭でっかち、短足、と言い始めたのも瀬戸口だった。

 体育の時間の瀬戸口や柳田のあざけり笑い、ことに、帰りぎわの瀬戸口の仕打ちを思い出すと、涙が止まらない。

 柳田は、瀬戸口に調子を合わているだけだ、と思う。

 野崎も永吉も許せないが、瀬戸口だけはぜったいに許せない、と思う。

 美枝子に、もう、心配させたくない。

 幸恵が転校したのは、もう、三回目だ。

 小学校の時も、いじめられた。

 それを幸恵は、泣きながら、美枝子に訴えた。

 美枝子は、毎日のように、学校に行ったり、キョウイクイインカイに行ったりした。

 それでも、いじめがやまないとわかると、五、六十キロも離れた別の地方都市まちのアパートに引っ越した。

 その近くの小学校には、なんとか、無事に通った。

 中学校に入ると、また、いじめられるようになった。

 つい一年ほど前のことだ。

 幸恵は、学校に行かずに、何日も、泣いていた。

 小学校の時よりも、お母さんは、もっと大変だった、と、幸恵なりにわかっている。幸恵のために、この地方都市まちに引っ越して来ることになったんだ、お母さんは、ちゃんとした会社のお勤めをやめて、夜のお仕事をするようになったんだ、と、幸恵は思う。

 引っ越して来て、まだ、二ヶ月も経っていない。

 お母さんがかわいそうだ、転校するたびに何日も一緒に泣いたんだ、もう、お母さんを泣かせたくない、と思う。

 幸恵は、コタツ台の前に座り込んだまま、項垂うなだれて、考え込む。


           4


 幸恵は、夜の十時になる前に、淡紅色のパジャマを上だけ脱いで、灰色の下地に赤い花模様のついた長袖の普段着の上着に着替える。

 夜の十時を過ぎたころ、アパートを出た。

 美枝子が帰って来るまでには、まだ、二時間ほど時間があった。

 東の空に星が出ている。

 月は見えない。

 住宅の建ち並んだ道に人影はない。

 ところどころに、街路灯が立っている。

 十月もなかばを過ぎたばかりだが、夜がけてくると、やはり肌寒はださむい。

 ゆるやかな坂道の両側に、五メートルほどの間隔を置いて、黒々と葉を繁らせた並木が先の方まで続いている。

 坂道の歩道を四、五十メートルほど上ると、三叉路がある。

 そこを、左に進む。

 その道を百メートルほど行くと、四つ角がある。

 その四つ角のところで、右に折れて、さらに七,八十メートル歩くと、小さな公園がある。

 幸恵が、 公園に沿った右側の道を少し歩いたとき、後の方から、不意ふいに、男の声が聞こえた。

 「何してんの? こんな時間に一人で出歩いちゃいけないよ」

 幸恵はびっくりした。

 心臓がのどから飛び出しそうになる。

 振り返ると、公園にさしかかるあたりの道に、通勤カバンらしいものを右手に持った中年の男が立っていた。

 黒く見える背広を着て、ネクタイをしている。

 公園の水銀灯が、男の顔の左半分を、照らしている。

 悪い人ではないらしい、と思っても、幸恵の心臓の動悸は静まらない。

 「きみの家はこの近くかい?」

 男は、同じ所に立ち止まったまま、聞いてくる。

 近寄ると、幸恵が怖がる、と思っているらしい。

「・・・いえ・・・はい・・・ すぐ、そこ・・・」

 幸恵は、おずおずと、前方を指さす。

「じゃあ、すぐ、家に入るんだよ」

 男は、そう言うと、左手を振って、バイバイのような仕草をし、公園の手前から左に向かって歩き出す。

 時々、幸恵の方に顔を向ける。

 男を安心させるために、駆け足になる。

 幸恵は、公園の左側の道を行き過ぎて、五,六軒先の右側に、瀬戸口の家があるのを知っていた。

 瀬戸口浩平が学校からいなくなればいい、そのためには、瀬戸口の家がなくなってしまえばいい、と、突拍子とっぴょうしもないことを考えて、夜道を歩いて来たのだ。

 他に幸恵にできるどんな方法があるというのだ。

 幸恵は、火事の現場を見たこともないし、あとを見たこともない。火事で家が焼けてしまうということは、そこに住んでいる人がいなくなることだ。幸恵は、火事という事態を、そういう風にしか考えていない。

 幸恵は、引っ越して来た頃、休日になると、美枝子と一緒に、この公園の周辺までよく散歩に来ていた。その頃、偶々《たまたま》、坊主頭の中学生が、自転車を引いて、このあたりの家に入るのを見かけたことがあった。公園の近くから見たのだから、ちょっと距離があったが、それでも見紛みまがうはずはなかった。

 道の右側だけでなく、念のために、両側の表札を見て歩く。

 街路灯の明かりが届いているので、見えにくい表札はない。

 瀬戸口の家は、すぐに見つかった。

 門扉がついた二階建ての家だ。

 カーテンを引いた一階の窓の隙間すきまから、明かりが漏れている。

 二階の右側の窓のカーテンの隙間からも、明かりが漏れている。

 一階の光りがチラチラ動くのは、まだ、テレビをつけているのだろう。

 門扉の周辺は一メートル半ほどの高さのブロック塀だ。

 それ以外の家の正面は、五十センチほどの高さのブロック塀で、その上に、一メートルほどの高さの黒っぽい柵が埋め込んであって、柵の内側には、葉を繁らせたレッドロビンがびっしり植わっている。

 家の左側に、ブロックを積んで作った車庫がある。屋根はあるが、シャッタ

ーはついていない。白い普通車が入っている。

 幸恵は、胸をドキドキさせながら、首を縮め、すくめた肩を震わせながら、瀬戸口の家の周辺を歩く。

 両隣の家との境目と家の裏側は、やはり、門扉の周辺と同じ高さのブロック塀で囲まれていた。

 家の裏側は小路こみちに面していて、通用口らしい板戸がついているが、外からは開かない。

 かと言って、正面の門扉を開けて、入ることはできない。

 そんな勇気はない。

 左右と裏のブロック塀は幸恵の背丈より高く、乗り越えることなどとてもできない。

 何度目かに家の正面に戻って来た時、離れた外灯の近くに、人影が動いたような気がした。

 幸恵は車庫に駆け込んだ。

 車の影に隠れて、息をひそめた。

 胸の動悸が止まらない。

 恐くてたまらない。

 体が、ガタガタ、震えた。

 庭の中に入ることさえできない、と思う。

 しかし、瀬戸口に仕返しをしたい、という思いは消えていない。

 幸恵は、ガタガタ震えながら、車の後部トランクの後にしゃがみ込んだまま、あたりを見回した。

 車庫の入り口のあたりと違って、車庫の奥には、外灯の明かりは届かない。

 何か置いてあるようだが、それが、何なのかわからない。

 幸恵の上着の胸のポケットには、美枝子がガスレンジの着火装置が故障した時に使う百円ライターが入っている。

 これで、瀬戸口の家を火事にしよう、と思って、アパートを出てきたのだ。

 幸恵は、ライターをポケットから取り出す。 

 火をつけようとするが、暗いし、手が震えている上に、着火装置が固いので、なかなか火がつかない。

 おなじことを繰り返す。

 やっと、火がついた。

 車庫の中が、ボーッと、明るくなる。

 しゃがんだまま、見回すと、左側の車庫のブロックの壁に押しつけるようにして、青いポリタンクが二つ、並べて置いてある。

 着火装置が固いので、そう長くは火をつけたままにしていられない。

 ポリタンクの置いてある位置がわかったので、その一つに左手を伸ばして押してみた。

 軽く押したくらいでは動かない。

 満タンのような手応てごたえだ。

幸恵は、ライターを胸のポケットに戻しておいて、立ち上がる。

 ポリタンクの上部の取っ手に右手を入れて、持ち上げてみる。

 重いが、持ち上がらないことはない。

 ポリタンクを下ろして、フタを回す。

 フタを外すと、いきなり、灯油の臭いが鼻を打った。

 灯油の臭いは知っている。

 幸恵は、冬、寒い日に、美枝子に言われて、ポリタンクからストーブに灯油を移したことが何度もある。

 フタを外したままのポリタンクを傾ける。

 黒い液体が、車の下に向かって、ドクドクと流れ出る。

 灯油の強い臭いが鼻を打つ。

 ポリタンクが軽くなると、それを両手で持ち上げて逆さにして、空になるまで黒い液体を流し続ける。

 いているズック靴の底がれて、足の裏までみ込んでくる。

 ポケットから、また、ライターを取り出す。

 今度は、二,三回で、火がつく。

 足下の黒い液体にライターの火を近づける。

 何度もやってるうちに、液体に火が移る。

 コンクリートの床に、チロチロと、青白い火が広がり始める。

 幸恵は、ライターをポケットにしまって、車とブロックの壁の間の狭い空間に体を移し、背中と両方の手のひらを後の壁に押しつけて、呆然ぼうぜんと青白い炎を見つめている。

 炎が車の下一面に広がり始める。

 幸恵は、恐くなって、車庫を走り出る。

 もう、後を振り返らない。


            5


 幸恵がアパートに駆け込んだとき、美枝子はまだ帰っていない。

 居間も、次の六畳間も、明かりがついている。

 明かりをつけたままにして、アパートを出たのだ。

 白いズック靴が、灯油で、れている。

 素足すあしに履いているので、気持ちが悪い。

 靴を土間に脱いだままにして、居間の上がり口にある狭い板縁に上がる。

 足裏あしうらの形に濡れたあとがつく。

 板縁の左側に、二つ折りにした白い雑巾ぞうきんが置いてある。

 立ったまま、足をく。

 台所に行って、ガスレンジのそばに、ライターを返す。

 六畳間に入る。

 二人分の布団が敷いてある。

 自分の布団ばかりでなく、美枝子の分まで敷いてあげる、

 それが、いつもの幸恵の習慣だ。

 上着もパジャマに着替えて、床に就く。

 灯油が臭う。

 朝が来なければいいのに、と思う。

 眠れない。

 それでも、じっと天井を見つめたままでいると、頭が朦朧もうろうとしてきて、眠りに入りかける。

 消防自動車のけたたましいサイレンの音がする。

 一台や二台の音ではない。

 アパートや近所の住宅から人が走り出て、騒ぎ声が大きくなる。

 幸恵は眠ってしまう。

 美枝子にり起こされるまで、幸恵は眠っていた。

 「さっちゃん、さっちゃん」

 「・・・・・」

 幸恵は寝ぼけまなこを開ける。

 「起こしてゴメンね。帰ってきて、ドアを開けたら、灯油の臭いがしたのよ。どこから臭うのかな、と思って、よく調べてみたら、あなたの靴だったわ。お靴が灯油で濡れてたわ。どうしてお靴に灯油がついてるの? それに、お布団からも、灯油の臭いがするような気がするわ」

 「・・・わかんない」

 幸恵は、寝床に半身を起こし、寝ぼけまなこをこすりながら答える。

 化粧と香水のほのかな香りが心地よい。

 夜遅く帰ってきた時の、幸恵を安心させる、母親の臭いだ。

 「そう? おかしいわね。ストーブを使ってたのは、四月までだったし・・・土間のすみに置いてあるポリタンクには、半分くらい灯油が残ってるけど・・・あの灯油をどうかしたの?」

 「ううん」

 意識がはっきり目覚めてくると同時に、車庫に流した灯油に火をつけた時の恐怖感がよみがえってくる。

 幸恵は、肩をすくめるようにして、ガタガタ体を震わせ始める。

 美枝子は幸恵の枕元の目覚まし時計に目をやる。

 午前一時前になっている。

 「あ、ごめん、ごめん。こんな時間になってしまってるわ。それに寒そうね。もういいから、寝なさい。明日の朝でもいいことなんだから」

 美枝子は、幼い子にするように、幸恵の肩に手をやって寝かせる。

 首元まで掛け布団をかけてやり、優しい手つきで、布団の乱れを直してやる。

 幸恵は、なかなか、寝つけない。

 美枝子は、洗面所で化粧を落とす、台所でコトコト音をさせる、それから寝間着に着替えて、寝ている幸恵の顔をのぞき込むようにしてから、床に就く。

 その間、幸恵は眠っていない。

 眠ったふりをしている。

 朝になって、美枝子に灯油のことを聞かれても、答えることができない、と思う。

 あの消防自動車は何だったのかな。

 明日、瀬戸口は、学校に来るかな。

 瀬戸口は来なくても、野崎や永吉や柳田がいる。

 やっぱり、学校に行きたくないな。

 あんなところに行くくらいなら死んだ方がいい、朝が来なければいいのに、と思う。

 同じようなことを、何度も、クルクル考えているうちに、眠ってしまう。

 「さっちゃん、もう起きないと、学校に遅れるわよ」

 幸恵は美枝子に揺り起こされる。

 美枝子は、もうみかん色のワンピースに着替えて、白い前掛けをけている。

 幸恵が目を覚ますと、いつも、コタツ台の上に幸恵のための朝食の準備ができている。美枝子は、いくら帰宅が遅くなっても、これが母親のすることだ、と思っている。幸恵は学校から帰ってもひとりぼっち、夜も一緒に過ごしてやれない。美枝子は、いつも、心の中でびている。少しでもつぐなおうとして、朝、精一杯のことをする。

 幸恵を育てるために、意に沿わない夜の仕事をしているが、幸恵を学校に送り出してから、一寝入ひとねいりする時間はある。

 幸恵は、いつもは、美枝子に起こされると、すぐに起きる。

 学校に行く前に気になるのは、髪の毛だ。

 毎朝、洗面所の鏡をのぞき込みながら、なんとか見栄えをよくしようと、時間をかけて、涙目になって、懸命に髪の毛をいじる。

 その朝、さすがに、幸恵は起きたくなかった。

 美枝子に悪いと思うが、どうしても、学校に行きたくない。

 寝床の中でグズグズしていると、美枝子が枕元に来て、座る。

 「遅れるよ。どうしたの?」

 「・・・頭が痛い」

 「そう言えば、ブルブル震えていたわね。きっと、風邪をひいたんだわ」

 美枝子が、幸恵のひたいに、水を使ったばかりの右手を当てる。

 「・・・ちょっと、熱があるようだわ。・・・今日、学校、お休みする?」

 幸恵は、ほっとして、少し頭を動かして、うなずく仕草をする。

 こんなに簡単に学校を休めるとは思っていない。

 どんなに辛くても、学校には行かないといけない、と思っている。

 「お食事は?」

 「・・・食べたくない」

 美枝子が、心配そうに、幸恵の顔をのぞき込む。

 美枝子は、ほとんど寝ていないので、青白い顔をしている。

 「・・・風邪のお薬飲んでおこうか」

 美枝子は、すぐに立ち上がって、風邪薬とぬるま湯の入ったコップを乗せたお盆を持ってくる。

 「お薬飲んでおいた方がいいわ。さっちゃんには、このお薬がよくくのよ。これ飲んで休んでいれば、きっと、すぐなおると思うわ」

 幸恵は半身を起こして、素直に、薬を飲む。

 これで学校行かなくていいかな、と思う。

 「これでいいわ。お食事は気分がよくなってから食べたらいいわ。今日は、学校、お休みね。また、横になりなさい」

 幸恵は横になる。

 美枝子が掛け布団をかけてやってから、また、心配そうに顔をのぞき込む。

 幸恵は美枝子がそばにいるだけでうれしい。

 掛け布団に顔を埋める。

 美枝子に見守られていることに安心して、目をつぶる。

 しばらくすると、激しい眠気ねむけが襲ってくる。

 昨夜は、美枝子が帰る前も、帰って来てからも、ほとんど眠っていない。

 幸恵は眠ってしまう。


           6


 どれくらい眠ったろう。

 幸恵は、男の声を、夢うつつに聞いた。

 その声は、アパートの入り口の方から、聞こえてくる。

 「お忙しいところ、すみません。A署のものですが、ちょっとお時間をいただいてよろしいですか? この上の公園の近くで、昨夜、火事があったものですから、この近辺の聞き込みをしております」

 幸恵は、火事と聞いて、一度に目が覚める。

 心臓の動悸が速くなる。

 美枝子が驚いたような声をあげる。

 「えー! ほんとですか。そう言えば、昨夜ゆうべ、私がここに帰って来る時、消防自動車が何台も下りて来ましたわ」

 「そんな時間にお帰りでしたか。消防車が現場を引き上げ始めたのは、確か、午前〇時を過ぎていたと思うんですが・・・」

 「夜が遅い仕事をしているものですから・・・。それにしても、お気の毒だわ。大きな火事だったんですか」

 幸恵は、胸をドキドキさせながら、聞き耳を立てる。

 「車庫が焼けて、中に入っていた乗用車がスラップになりました。夜の十時半頃の出火で、人目のない車庫なので、気づくのが遅れて、通報までに時間がかかったようです。消防車の出動が遅れたんですが、住宅に燃え移るような事態にはなっておりません。ただ、車庫はブロックを積み上げたもので、破片が吹っ飛んで、車庫の持ち主の瀬戸口さんの家の西側の壁を直撃しています。車の燃料タンクが爆発したんでしょうな。車庫のこわれ方から見て、爆発の威力はかなりのものだったものと思われます」

 警察の人は、ドアの中に入れてもらっていないようだが、出勤用の化粧をしているはずの美枝子の質問に親切に答えている。

 「家がこわれたんですか」

 「いや、壁に穴が開いた程度です」

 これは、別の若い男の声だ。

 「なんで車庫なんかが、そんな時間に・・・」

 「それで聞き込みに回っているところです」

 最初の年配の男の声だ。

 「今のところ、検証中で、断定的なことは言えませんが、火の気のないところだから、放火だろうと・・・。焼け跡から灯油のポリタンクが二つ見つかってます。一つは、けてしまって、ほとんど原型を留めていませんでしたが、もう一つは、ほぼ原型をとどめていて、フタの片方がはずれていましたから、こっちの方の灯油をまいてから、火をつけたものと思われます。車庫は完全にくずれていて、中の物証には期待できそうもない状況だったのですが、車庫の外の路上に、犯人が走り出た時のものと思われる靴の跡が点々と残っておりました。普通、アスファルトにそんなものが残るはずはないのですが、靴に灯油がついていた・・・靴底に灯油をつけたまま走り出た・・・まったく無防備な犯行ということになりますが、それも道理で、残された靴の跡が子どもの靴なんです」

 布団の中の幸恵は、生きた心地がしない。

 美枝子は、灯油と聞いて、ひどく驚いている様子だ。

 「・・・車庫なんかに、なんで、また、灯油が・・・」

 「そのことについては、瀬戸口さんに説明を求めました。灯油を使うボイラー式の風呂釜を使っている、それで灯油の買い置きをしている、ポリタンクはガソリンスタンドから車で持ち帰って車庫に置いたままにしておいた、二つとも満タンの状態だった、不注意だった、と、だいたい、こういうお話でした」

 「・・・・・」

 「今度の聞き込みで、火事騒ぎが起こる二、三十分ほど前に、小学校の三,四年生くらいの縮れっ毛の女の子が公園の近くを歩いているのを見かけたという情報があります」

 布団の中の幸恵は、息が止まりそうになる。

 「こんなご時世に、そんな時間に小学生の女の子が、それも、一人で歩いていたなんて、ちょっと、考えられないことなんですが、それが事実だとすれば、この女の子が、何か知っている、少なくとも、何か見ているものと思われます」

 「・・・うちには小学生はいませんよ。・・・親も不注意ですわね、そんな時間に、一人で外を出歩かせるなんて・・・どこの子だったんですか?」

 「目撃者は、その子はあの公園の近くの家の子だと言ってるんですが、まだ、見つかっておりません。それで、聞き込みの範囲を広げているところです。お宅には小学生はいないということですので、用件はすんだようなものですが、夕方になりましたら、また、聞き込みにまいります。この上の階やお隣がお留守なようなので・・・。縮れっ毛の女の子のことでも、他のことでも、何か思い出されたり、何か心当たりでもありましたら、どんな小さなことでも結構ですので、その時に、また、お聞かせください。おじゃましましたね。ありがとうございました」

 「ご苦労様です」

 美枝子は、すぐにドアを閉めて、鍵をかけ、掛け金をかける。

 目まいのような衝撃が美枝子を襲っていた。

 美枝子は、居間から、フスマを開ける。

 「さっちゃん、起きてる?」

 幸恵は、あわてて、掛け布団を顔の上に引きあげ、眠っているふりをする。

 「よく眠っていたようなので、起こさなかったけど、もう、お昼も過ぎて、一時過ぎよ。頭、まだ、痛いの?」

 美枝子は、掛け布団の動きで、幸恵が目を覚ましているのを見破っている。

 枕元に座る。

 顔にかかった部分の掛け布団を持ち上げる。

 右手を幸恵の額に手を当てる。

 「・・・お熱はないみたいだわ。もう、起きてもいいんじゃないの? 夕べも食べ残していたし、今朝も食べてないし、何か食べないといけないわ」

 美枝子は、縮れっ毛の女の子、という刑事のことばと、幸恵の靴の灯油のことが気になって、激しい胸騒ぎが止まらない。

 しかし、体調が悪いらしい幸恵を問いつめることはできない、と思う。

 幸恵は警察の人が来たことが恐くてたまらない。

 美枝子に優しい言葉をかけられた途端に、それが増幅する。

 美枝子を悲しませることになる、どうしよう、全身が激しく震え始める。

 掛け布団が震えているのを見て、美枝子が布団をめくる。

 美枝子は、大きく目を見開く。

 「あら、どうしたの! まだ、寒いの?」

 美枝子は、やはり何かあったのだ、と直感する。

 この子には、いつも、寂しい思いをさせている。学校に遅れないように送り出しているのに、担任は幸恵の遅刻が多いと言ってきている。転校して日も浅いのに、顔に生気がないような気がする。泣いた後のような顔をしていることがある。

 自分につきまとい、暴行した男に似てしまったこの子は、新しい学校でもやはりいじめられている、そんな確信に近い思いが急に頭をかすめる。

 今は、店のなじみ客の水口達也と、男と女の関係になってしまっている。

 昨夜も、水口と会ってから、帰って来た。

 水口と会っているときは、幸恵のことを忘れてしまっていることがある。

 美枝子は、女のさがのような自分の所行しょぎょうに、たまらなくなる。

 幸恵がいじらしくて、切なくなる。  

 幸恵を抱き起こし、幼児の頃よくそうしていたように、両腕の中に、幸恵を強く抱きしめた。

 涙があふれてきて、止まらない。

 長く長く抱きしめていたような気がする。

 幸恵は、お母さんの臭いが好きだ。

 その臭いに包まれると、なぜか、うれしくて、安心する。

 幸恵の震えが止まる。

 「お母さん、お仕事があるんでしょう? もう大丈夫だよ。頭も痛くない。ご飯食べるよ」

 幸恵は、努めて、元気のいい声で言う。

 「ほんと? 大丈夫?」

 「大丈夫だよ。心配しないで。お仕事、行っていいよ」

 美枝子は、とてもとても、仕事などしている気がしない。

 美枝子が働いているスナックは、なじみ客が多い。

 料理が上手で、客受けもいい美枝子は、店の顔と言っていい。

 まだ外の明るいうちから、店に入って来る客も多い。

 しかし、美枝子をアテにしているママやマスターやなじみ客には悪いが、仕事を休ませてもらおう、と決めていた。

 幸恵を問いつめるのは、今は、しない方がいいと思う。

 幸恵に食事をさせてから、火事の現場を見てみよう、それからいったん店に出て、マスターにことわって、休みをもらって帰ってきてから、ゆっくり話そう、あせってはいけない、と思う。

 正直なことを言えば、美枝子は、幸恵が何を言い出すか、それを聞くのが恐いのだ。

 靴に灯油がついていたからといって、あの火事にさっちゃんが関わりがあるとは思えない、あんな時間に上の公園のあたりを歩いていたはずがない、それに、さっちゃんは小学生じゃないもん、刑事があれだけ捜査の情報をらしたということは、ここのアパートの子である幸恵を疑っていない証拠だ、と、美枝子は、いて、自分に言い聞かせる。


          7


 「さっちゃん、ちょっと、出かけて、すぐ帰ってくるからね。何かおいしいもの買ってくるわ。お家を出ちゃだめよ。わかった? 家にいるのよ。誰か来ても、ぜったい、ドアを開けないでね。鍵をかけとくからね」

 幸恵は、美枝子を心配させないように、元気よくうなずく。

 この子が放火犯だなんて、美枝子は胸が締めつけられて、幸恵を抱きしめる。時を改めて、水口とはきっぱり縁を切ろう、と、後悔のほぞみながら、固く決心していた。

 母の香りが、心地よく、幸恵を包み込む。

 美枝子は、戸締まりを何度も確かめて、カーテンを閉める。

 後ろ髪を引かれながら、アパートを出る。

 一人になった幸恵は、また、震え始める。

 幸恵は、美枝子を悲しませたくない、困らせたくない、と思う。

 警察の人が、夕方になったら、また来る、と言っていた。

 縮れっ毛の女の子、って、昨夜ゆうべ、公園の近くで幸恵に声をかけてきたあのおじさんが言ったんだ、と、幸恵は思う。

 縮れっ毛の女の子なんて、このあたりにいないよ。このアパートの人だって、家主の佐伯のおじちゃんやおばちゃんだって、幸恵が縮れっ毛の女の子だって知ってるよ。

 幸恵は警察の人に捕まるよ。

 車が焼けてスラップになった、車庫が崩れて家も壊れた、と言っていた。

 きっと、ベンショウしないといけないよ。

 お母さんに、そんなお金ないよ。

 幸恵がいると、お母さん、生きていけないよ、それに、あんな学校、もう、ぜったい行きたくない。

 幸恵は、自分がいなくなればいい、と思う。

 お母さんが帰って来る前に、いなくならなければいけないよ。

 幸恵は、六畳間に一つしかないタンスの引き出しを開けて、よそ行きの服を探す。

 一番気に入っているフリルの胸飾むねかざりの付いた薄緑色のワンピースが見つかる。

 幸恵、このワンピースの色が大好きなんだ。

 エメラルドグリーンだって、お母さんが教えてくれたよね。

 お母さんが生まれた奄美の海の色だ、って言ってたよね。

 奄美の海は、砂浜の近くがエメラルドグリーンで、その向こうがコバルトブルー、スナックのママも、お母さんと同じ、あやまる岬の近くがふるさなんだよね。

 だから、そのママを頼って、この町に引っ越して来たんだったね。 

 幸恵は、パジャマを脱いで、それに着替える。

 縮れっ毛を隠さないといけないな。

 同じ引き出しに幸恵の帽子も入っている。

 小学校の六年生の修学旅行のときに、お母さんがきれいなお帽子買ってくれたんだったね。色はモスグリーンといったよね。高かったんだよね。この帽子を買ってくれたときも、幸恵、とってもうれしかったよ、お母さん。

 幸恵は、その大好きな帽子をかぶる。

 土間の靴箱から、お気に入りのみ上げの若草色の靴を出す。

 これも帽子の色に合うように、と美枝子が買ってくれたものだ。

 それを履いて、しっかりと、ヒモを結ぶ。

 この町に来て、お休みが続いたとき、藺牟田池いむたいけに連れて行ってくれたよね。あの時も、この帽子をかぶって、このワンピースを着て、この靴を履いていたよね。白鳥がいたよね。白鳥の形をしたボートに乗ったね。あのお池の周りをお母さんと歩いたね。幸恵、とっても、うれしかったよ、お母さん。

 幸恵はアパートを出る。

 幸恵は、学校で、頭でっかち、短足、と言われるたびに、何度も死にたい、と思った。

 お母さんにも話そうと思った。

 でも、もう、大好きなお母さんを悲しませたくなかった。

 学校から帰る途中、二時間も大きく遠回りして、A町内を走っている日豊線の線路内に入っていたことがある。

 あの時は、通りかかったおばさんに見つかって、線路の外に連れ出されて、叱られたんだっけ。

 今度は、見つからないようにしよう、と思う。

 幸恵は、鉄道の踏切で、その踏切の近くのおばあさんが、列車にはねられて死んだ、という事実の報道のみのニュースをテレビで見ていた。

 警報機も遮断機しゃだんきもない踏切の事故で話題になったが、幸恵の頭の中には、事故の悲惨ひさんなイメージはなく、死んだ、という事実だけが残っていた。

 いつか、お母さんに、死んだらどうなるの、って聞いたことがあったね。

 お母さんは、ちょっと驚いたような顔をしたけど、死んでも天国ってところがあって、愛していれば、そこでまた必ず会えるのよ、って教えてくれたんだったね。

 一時間ほど、歩き続ける。

 お母さんがアパートに帰ってきて、幸恵がいないので、驚いているかな。

 でも、幸恵がいてはいけないんだ。

 幸恵は、やっぱり、ダメだよ、お母さん。

 東の空は薄曇り、西の空の雲がやや厚い。

 陽射ひざしはないが、汗ばんでくる。

 胸をドキドキさせながら、線路に沿った道を歩く。

 道が線路から離れると、また、線路に近づく道をさがす。

 さらに半時間ほど歩いていると、小さな商店街を通り過ぎた先に、踏切があった。

 午後の四時前で、ほとんど人通りはない。

 その踏切の近くで待つことにする。

 胸のドキドキが速くなる。

 息が止まって、胸が押しつぶされそうだ。

 十分ほどして、警報機が鳴り出す。

 遮断機が下りる。

 幸恵は、周りに人がいないのを確かめると、遮断機をくぐり抜けた。

 幸恵は、左前方から走ってくる電車に向かって、線路の上を駆け出した。

 電車の大きい警笛の音が、ボワーン、ボワーン、と何度も鳴る。

 キー、と激しい音がする。

 その鼓膜こまくが破れそうな激しい音と共に、クリーム色に青線を巻いた怪物が目の前に迫って来る。

 運転士のおじさんが、ひどく驚いて、大きく目を見開く。

 幸恵は、足がもつれて、転んでしまう。

 幸せに恵まれるようにって、幸恵と名前をつけてくれたんだよね、お母さん。

 でも、幸恵は幸せになれそうもないよ。

 ごめんね、お母さん。

 幸恵は天国で待ってるよ。



                     了

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