8-2.18トリソミー
この物語にでてくる薬名、治療法、一部の病名、一部の物理法則はフィクションです。
八重山:「お腹のお子さんのことでお二人に話があります。」
八重山先生が西棟2階周産期センターのカンファレンスルームに若い夫婦を呼ぶ。
真っ青な顔をした二人を前に八重山先生が話を続ける。
八重山:「お腹の赤ちゃんですが、検査の結果、重度の染色体異常を持っていることがわかりました。」
母親 :「染色体異常?」
父親 :「ダウン症ですか?」
八重山は首を振る
八重山:「お父様はよく知ってらっしゃいますね。でも、ダウン症ではないです。18トリソミーです。」
母親 :「18トリソミー?」
八重山:「はい。18番目の染色体が1本多く3本ある異常です。」
父親 :「えっと、別に一本くらい多くてもいいんじゃないんですか? 足りなかったら困るかもしれないけど。」
八重山:「それが、多くの致命的な奇形を持ちます。ほとんどの子が心臓疾患を抱え、それ以外にも腎臓や肝臓の疾患を抱える子もいます。また、呼吸器系も弱く、エアチューブが必要だったり、哺乳力が弱く、口からはミルクを飲ませたりすることは難しいです。」
八重山:「そのため、非常に短命です。」
父親 :「大人になるまで生きられないとか。」
八重山:「もし、生まれてきたときですが、平均生存日数は14日。1か月生き残れる赤ちゃんは半分。1歳の誕生日を迎えられるのは10%くらいしかありません。絶対予後不良です。」
母親 :「そんなに…」
父親 :「14年でなく、14日…」
八重山:「お腹の中でしか生きていけない赤ちゃんなのです。」
母親 :「もう、この子には名前をつけてあるんです。ゆきなって名前です。だから、だから、助けてください。やっとできた子供なんです。お願いします。」
父親 :「私からもお願いします。この通りです。」
八重山:「私も助けたいのは山々です。ですが、18トリソミーの子はどうしようもありません。特効薬も効果的な治療法もありません。下手に手術をしたら、そのショックで死んでしまいます。生きる力を持たない子なんです。」
母親 :「そんな。」
八重山:「そのため、当病院では積極的な治療は行わないことをお勧めしています。無意味に人工呼吸器をとり付けたり、強心剤を投与したりしません。また、自然分娩を勧めています。無理に帝王切開するのもお勧めはしません。
父親 :「他の病院でも同じなんですか?」
八重山:「はい、同じだと思います。不安でしたらセカンドオピニオンの意見を聞かれる方がよろしいと思います。そして、母体の安全を考えれば当病院が一番です。十分ご納得の上もう一度来られてお話をいたしましょう。」
数日後、若い夫婦が再びくる
父親 :「あの後、色々有名な病院の先生にセカンドオピニオンをいただきましたが、やはり、みな同じことをおっしゃっておりました。そして、この病院が一番良い病院ともおっしゃってくださいました。疑ったりしてすいませんでした。」
八重山:「いえいえ、お子様のことですので、とても大事なことです。」
母親 :「これからもよろしくお願いいたします。」
八重山:「はい。では、お母さんも体を大事にしてくださいね」
カンファレンスルームから若い夫婦が退出していった。
八重山:「かわいそうだけど、どうしょうもないわ。なんのために生まれてくるのか。この年になってもどうしてもわからない。」
八重山はつぶやく。
花の丘病院の西棟の2階、ここには周産期センターがある。県下随一の周産期センターであり、それゆえ、多くの難病の赤ちゃんや妊婦さんが訪ねてくる。
そして、ここは最後の駆け込み寺。ここで治療ができなければどこに行っても治療することができない。
河野 :「あの...何とかならないのでしょうか?」
研修医の河野が尋ねる。
草野 :「無理だな。18トリソミーの子に積極的な治療は行わない。これが医療世界の常識だ。循環器の疾患、腎臓疾患、呼吸器系の疾患、重度の知的障害。あかちゃんは生まれてきても寝たきりで両親とコミュニケーションをとることもできない。延命治療はいたずらに悲しみを増やすだけだ。」
横から河野の教育係を務める産婦人科医の草野が答える。
河野 :「でも、八重山副院長。ガーディアンとして何もしないというのは悔しすぎます。」
周産期センターでは死はごく普通に訪れる。そして、この病院の周産期センターは第三次病院。難病の子が集まるところ。ここでは子供が死んだら天使になったと表現する。そして、死亡日は天使日と呼ぶ。子供たちは天使に迎えられて天使になっていく。
だから、この周産期センターでは迎えに来る天使は敵である。その天使から子供を守るのがここの医師と看護師であるガーディアンの役目。ガーディアンは7人の医師によって統率されている。この7人は「ゼネラルセブン」と呼ばれ、高度な医療技術をもつ専門家集団である。草野もその一人である。そして、その7人の長に立つのが八重山いちご副院長。そのかわいらしい名前とは裏腹にそうとうの腕前で、この世界の第一人者である。そして、「エンジェルキャンセラー」と呼ばれ、お迎えに来た天使を丁寧にお断りしてお帰りいただく。八重山副院長によって助けられた子供たちは数えきれない。
八重山:「河野さんの気持ちもわかるわ。赤ちゃんは普通医師が何もしなくたって、生きる力が強くてどんなに困難でも奇跡のように成長していくわ。でも、18っこだけはだめなの。生きる力が備わってないの。」
草野 :「そうだ。18っ子の話は大学でも習っただろう。あんまり無理を言うな。医者は神ではない。」
河野 :「そうですが…。」
草野 :「この話はこれでおしまいだ。副院長は来週からの海外での学会の講演の準備もある。あまり手を煩わせるな。」
河野 :「はい」
八重山:「草野先生、お願いがあるんですけど。」
草野 :「なんでしょう。」
八重山:「河野さんを二木さんの出産に立ち会わせてあげて。彼女にも勉強になるでしょう。」
草野 :「え? う~ん。まあ、いいでしょう。」
河野 :「二木さん?」
草野 :「そろそろ予定日なのだが。子供は18トリソミーであることが検査でわかっている。」
河野 :「!」
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草野 :「それでは、予定通り自然分娩で行います。出産後はNICUに入れずに病室に連れてくることでよろしいでしょうか。」
二木 :「はい」
彼女は涙を流しながら小さい声で返事をする。
二木 :「あの、お乳をのませることはできるんでしょうか?」
草野 :「え? ああ、もちろんできますよ。できますとも」
河野にはそれが嘘であることが分かっていた。乳を含ませることはできても飲むことはできないだろう。そして、NICUに入れないということは治療はしないということ。つまり、例え生きて生まれたとしても、そんなには持たないということ。病室で母親の手の中で看とられるということである。
河野はたまらず病室から出て行った。
そして、数日後の朝、自然分娩により出産したのち赤ちゃんは病室に連れてこられ、その日の夕方、母親の手の中で天使になった。
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草野 :「副院長、出張の準備は大分整いましたか?」
八重山:「ええ、ほぼできました。2週間の留守の間はよろしくお願いしますね。」
草野 :「はい、我々に任せておいてください。」
八重山:「頼もしい限りね。」
草野 :「それで、留守の間は私が周産期センターと取りまとめるでいいですよね。センター長代行ということで。」
八重山:「私もそのつもりでした。でも、それが…。」
草野 :「何か問題でもあったのですが?」
八重山:「いえ、理事会が一時的にセンター長代行を他から持ってくるって言ってるのよ。」
草野 :「そ、そんな。この病院のことをわかっていない人を持ってきてどうするんですか?!」
八重山:「私もそう思うわよ。でも、この話は決定事項だといわれて、どうしょうもなかったわ。」
草野 :「どんな人なんですか? 会ったんですか?」
八重山:「ええ。大垣さんという私と同じくらいの人。名前もいちごという名前。」
草野 :「副院長と一緒ですね。」
八重山:「でも、風体はまるで男の人のようにぼさぼさの髪に、すっピン。そして、ず~ず~弁丸出しの人なのよ。」
草野 :「はあ、人は外見で判断してはいけないとは言いますが、期待持てないですね。」
八重山:「全く理事会は何考えてるんだか。」
八重山は数日前理事会に呼び出された時のことを思い出していた。この病院の院長は不在である。そのため、理事会が代わりに取り仕切っている。
その席では厚労省の大臣政務官でもある代議士の大橋志穂が同席していた。そう、彼女が今回八重山の海外への学会を参加を強く勧めたひとでもある。
その政務官が私を呼び出し、2週間のセンター長代行を大垣先生にすると宣言した。
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大垣 :「大垣と申すます。みんなよろすくお願いすます。」
ぼさぼさ頭のさえない顔の女医があいさつをする。
大垣 :「センター長代理ってことでよばれたんだが、こげな大きな病院とは思ってなかった。それに「ゼネラルセブン」という立派な先生たちもおる。おら、特にやることないから、みんながんばれや。」
そういって、実質的に草野に全権委任した形になった。
草野 :「何しに来たんだか。まったく。」
大垣はセンターを日がな一日見て回り、感心したようにこの病院のことをほめる。
大垣 :「草薙先生がおるんか。天才外科医がいるんじゃ安心してられるな。」
緊急手術を行う草薙先生を見て感心する。そして草野先生たちにも
大垣 :「草野先生、たしかお子さん今年受験だべ。湯島天神のお守り買ってきただ。ほれ。」
そういって、お守りを手渡す。
草野 :「はあ、ありがとうございます。」
山口 :「変わった先生ですね。」
ゼネラルセブンの若手医師山口が答える。
草野 :「まあ、邪魔をしないので助かるな。医療の見識は疑わしいが。」
山口 :「それが、結構すごいんですよ。私もいぢわるでわざと違う手順を示したら、『おめ違う』と言われて指導受けてしまいました。八重山先生までとは言いませんが、なかなかのものです。」
草野 :「八重山先生が機関車のようにぐいぐい引っ張ってくなら、大垣先生はみんなの手助けをする落ち穂拾いタイプか。」
山口 :「マネジメントの違いですね。でも、若い医師とか看護師とかは結構気に入ってるみたいです。」
草野 :「いったい何者なんだ?」
山口 :「う~ん、噂ですが、小さな病院の産婦人科の部長さんで、そこの看護師が急進的な改革をするので反対したら、その看護師に頭冷やしてこい来いと言われて、こっちにきたとかこないとか。」
草野 :「かえってわけわからないな。なんで婦人科の部長が一看護師に言われなければならないんだ。この病院も変だけど、そっちの病院はもっと変だな。」
山口 :「噂の真偽はともかく、我々のやり方に口をほとんど出さないんで害はないですよ。それに、この病院のこととか人間関係とかよく知ってるんですよね。」
草野 :「そっち方面に強いってことだろ。ある意味、骨休みできるってことでいいんじゃないか。」
山口 :「そうですね。」
しかし、数日後事件は起きた。
あの18トリソミーの若い母親が急に産気づいて運ばれてきた。
河野 :「草野先生、もう破水がはじまっています。」
草野 :「よし、分娩室の準備だ。予定通り自然分娩で行く。看とりは病室でということで、最後の確認はとったか?」
河野 :「それが。」
草野 :「なんだとってないのか。だめじゃないか。」
河野 :「いえ、そうじゃなくて、大垣先生がNICUに入れるって確認をとってしまったんです。」
草野 :「はあ?」
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大垣 :「帝王切開を行う。」
母親 :「え、でも、自然分娩するって話になっています。」
父親 :「無意味な延命処置はしないと。」
大垣 :「無意味? 意味はあるだ。生まれてくる命に無意味などない。」
父親 :「所詮、延命処置ですよね。」
大垣 :「おめ、何言ってるだ。助けるんだよ。全力で。赤ちゃんを。お母さん、お父さんに会いたいっていってるだ。」
母親 :「助かるんですか?」
大垣 :「助けるんだ。ほっといたら間違いなくしんじまう。今引っ張り出さねばだめだ。」
そこに河野を連れて草野がはいってくる。
草野 :「何言ってるんですか?! 八重山先生は自然分娩を勧め、ご両親にご了解いただいたんです。それを今更ひっくり返すなんて。」
大垣 :「助かる命を救うのが医者の役目だ。おめ、バカだろ。」
草野 :「く!」
大垣 :「センター長代行命令だ。」
草野 :「外科の先生も急にはいないし、手術室は空いてないです。」
大垣 :「ERの手術室を使う。」
草野 :「先生がいません」
大垣 :「おらがやる」
草野 :「何言ってるんですか! ちゃんと専門の先生にお願いすべきです。」
大垣 :「おらも専門の医者だ。この手で何度も手術して取り上げている。安心しろ。」
草野 :「そんな、むちゃくちゃな。」
大垣 :「ぐずぐずしてられねえ。すぐいくぞ。」
父親がロビーで待っていると看護師が来る。
看護師:「無事生まれました。女の赤ちゃんです。お母さんは元気です。」
父親 :「子供は? 病室に持ってきてくれるんですよね。」
看護師:「すぐにNICUに来てくれと大垣先生が言っています。」
父親 :「どういうことですか?」
看護師:「私にはよくわからないです。ただ、連れてくるようにと。」
父親がNICUに入る。そこには大垣先生と保育器の中に一杯管につながれた新生児がいた。
大垣 :「おめでとう。女の子だ。ちゃんと生きてる。」
父親 :「あの、生まれたらNICUでなく病室に連れてくるんじゃ。」
大垣 :「だめだ。後悔すっぞ。ちゃんと生きてる。病室に連れて行くってことは看とるってことだ。天使が迎えに来るぞ」
父親 :「あの、元気なんですか? 生きていけるんですか?」
大垣 :「詳しく検査をしないとわからん。」
父親 :「…」
大垣 :「でも、なんとかなるだろ。」
父親 :「ほんとですか?」
草野 :「大垣先生! 適当なことを言わないでください! お父さんに期待持たせるなんて。」
父親 :「やっぱりそうですよね。」
大垣 :「んだな。悪かった。ちゃんと状況を説明しよう。」
父親 :「はい。」
大垣 :「雪菜ちゃんだが、1700グラムの未熟児として生まれた。んだが、1700グラムなんてこの時代ほっておいても生きる。」
草野 :「先生! また適当なことを」
大垣 :「適当ではねえだ。700グラムでもおら助けられるぞ。それに比べりゃ1キロも大きい。」
草野 :「ですが…」
大垣 :「ああ、普通の子ならな。赤ちゃんは生きる力がもんのすごく強い。だから、多少の問題があっても克服できるだ。でもな。18っこはだめだ。まるで女神さまから見放されたようにすぐに死んでしまう。」
草野 :「そうです。だから、延命処置など。」
大垣 :「延命じゃね。助けるんだ。医者が全力を尽くして助けるんだ。」
草野 :「でも、既に人工呼吸器をつけて、栄養菅もつけてます。ちゃんと呼吸もできず、ミルクも飲めない赤ちゃんが無事に生きるわけないです。」
大垣 :「そんな子、このNICUには一杯いるぞ。」
草野 :「ええ、でも、18っこなんです。」
大垣 :「なんで、18っこを差別する? 18っこだって人間だ。」
草野 :「でも、こうやって助けたって1年以内に90%の子が死ぬんです!」
大垣 :「33%だ。」
草野 :「え?」
大垣 :「おらが取り上げた18っこで1年以内で天使になった子は33%だ。つまり2/3はちゃんと誕生日を迎えられる。」
父親 :「本当ですか?!」
草野 :「うそだ。」
大垣 :「嘘じゃね。本当だ。半分は小学校にあがるだ。」
草野 :「また、気休めを。」
父親 :「本当なんですか? どうして?」
大垣 :「こうやって積極的に治療するからだ。」
父親 :「でも、この病院でも、他の病院でもそんな話は聞いてない。」
大垣 :「んだ。おらだけだ。助けられんのは。だから助ける。」
草野 :「信じられないですね。」
父親 :「…信じます。信じていいんですよね。」
大垣 :「んだ。」
草野 :「!」
雪菜ちゃんの父親はまるで神様を見るような目で大垣先生を見る
草野 :「私は知りませんからね。」
呆れて草野はNICUから出ていく。
こうして雪菜ちゃんの治療が始まった。