第四話 壊れる日常の
タイトルの意味。その核心の物語がやっと始まります。
まあ、今までのは前置きですね。
マンションの駐車場は屋内になっていて居住棟と隣接しているので、雨の日でも車から玄関まで濡れずに移動できる。車好きだった弘司は、この駐車場と集合住宅にしては広いバスルームが気に入ってここを購入したのだ。
弘司はゲーム会社に勤務していた。そんなに大きな会社ではないが最近ヒット作を連発していたようだ。それに比例して受け取る給料もそれなりの額だったため、まだ若いながらも立派なマンションを購入することができた。わずかにローンもあるがそれは弘司が残してくれた保険金が充てられる予定になっている。もし、賃貸のままだったら、家賃と子供の学費だけで高いとは言えない公務員の給料だけでは大変だっただろう。家族のことを常に考えてくれていた弘司に有香は感謝した。
エレベータホールの窓から外を見ると、風は強いままだが雨は上がっているようだった。
今の時間帯は帰宅する人が多いようで、他の階で頻繁にドアの開け閉めをする音が聞こえる。有香はスプリングコートポケットから家の鍵を取り出すとドアの鍵を開けた。
「ただいま」
そう言って靴を脱ぎながら何か違和感を感じる。いつもなら『おかえりぃ』と飛びつくように玄関に迎えに来てくれるはずの智が姿を見せない。
「智、ただいまぁ」
もう一度、有香は言った。しかし、姿を見せるどころか部屋の中から気配すら感じない。
「智、智ぉ!」
有香が部屋に向かって声を大きくする。しかし、何の反応も返ってこない。今の時間に家に帰ってきていないなんてことは今まで一度も無かった。
「智?。いないの?」
有香はリビング、寝室、和室、弘司の書斎だった部屋と順に見て回った。しかし、どこにも姿が見えない。トイレや風呂場にもいなかった。
「――どういうこと?」
有香に焦りが表れる。起こりうる可能性を考える。
まだ、学校から帰ってきていない――ということはないだろう。まだ入学したばかりの小学校一年生が、この時間まで学校に残っているはずが無い。近所に遊びに行っている――これも無いだろう。五時には家に帰っているように厳しく行ってある。智がこの約束を守らなかったことは、今まで一度も無かった。
有香は台所のシンクを確認した。使用済みのコップが置いてある。智は外から帰ると、冷蔵庫に入っている作り置きの麦茶を一杯飲む。おそらく、このコップは智が学校から帰ってきて使ったものだろう。と言うことは、智は少なくても一度は帰ってきているはずだ。有香は家の中をもう一巡してみたが、やはり智の姿は見当たらなかった。
いくつかの心当たりに連絡を取ってみようとカウンターキッチンに置いてあるグレーの色をしたコードレス子機に眼を向けた。すると留守番とかかれたボタンが赤く点滅している。有香は電話を手に取ると再生のボタンを押した。
『2件のメッセージがあります』
少しの間を置いて音声が流れる。
『一件目。今日の午後13時40分――』
しかし、その後に続いたのはノイズのような雑音だった。有香が困惑していると、何となく聞き覚えがある声で呻くような声が聞こえた。それは僅かな時間でピーという発信音に遮られた。
「――何……今の?」
『二件目。今日の午後13時42分――』
有香の疑問は置き去りに、続けて音声が流れた。
『……僕達の……息子…………預かっている。また……連絡する――』
二件目には、しっかりと聞き取れるメッセージが入っていた。それは随分と剣呑な雰囲気が漂うものだった。しかし、誘拐と受け取れる内容よりも、その声に有香は驚愕して立ち尽くした。
「――弘司?」思わず声を出して名前を言う。
「本当に――?」
そう言いながら、もう一度、一件前まで記録位置を巻き戻して再生する。
『……僕達の……息子…………預かっている。また……連絡する――』
――間違いない。
再度聞いて確認できた。ノイズ音が入っていたり途切れ途切れだったりで聞き取り辛い箇所もあるが、この声は事故で亡くなった筈の有香の夫、弘司のものであった。現実的にありえることではないという理性が、有香にもう一度巻き戻して再生ボタンを押させたが聞こえてきたのは、疑惑を確信に近くする懐かしい声だけだった。声も話し方に感じる独特のアクセントも間違いなく弘司のものだ。何よりも『僕たちの息子』と言っている。
「なんで弘司が?。――なんで智を?」
まるで誘拐の脅迫のようなメッセージを死んだ夫がる留守電に残す。そして、実際に智の姿が見当たらない。有香は少しずつ込み上げてくるパニックを何とか抑えようとする。混乱しても良い結果にはならない。特に養護教諭を勤める者として
有事に取り乱していては自分を頼ってくれる子供たちにまで不安な思いをさせてしまう。こんな時こそ冷静に的確に物事を考えなければいけない。
「――――ふぅ」
有香はゆっくりと静かに息を吐き出した。
――そう。ここで混乱している場合ではないはずよ。現に智の姿が見当たらないのだから、それを優先に考えなくちゃ。
時計を見るとそろそろ午後八時になろうとしていた。智は今まで、この時間に何の連絡も無く外に出たまま帰ってこないなんてことは一度も無かった。それに夫の声であるかは別としても、智の身に何かが起きたことを暗示するような留守電が残されている。
――警察に電話するべき……でも、その前に。
警察に助けを請う理由は充分だが、それでも今の自分の判断が正常かどうか自信を喪失した有香は、もっとも頼れる友人である知美の携帯電話の番号を呼び出した。
『――もしもし、どうしたの』
番号通知を見て有香だと分かっている知美は、滅多に掛けてこない時間帯に電話を鳴らした友人を心配するような声で言った。
「――……」
しかし旧知の友人の声を聞いたら安堵したためか、一気に涙が溢れてきて言葉に詰まった。
『どうしたの!?。何かあったの?』
受話器の向こうにいる有香の様子がおかしいことに気が付いた。
「――智が……智がいないの」
『どういうこと?』
「帰ってきたら、智がいないくて……留守電が入っていて」
『留守電?。なんて入っていたの?』
「ぼ……僕達の息子は預かっている――って」
『――何それ?』
知美は訊き返した。
「分からない。でも、弘司の声でそうメッセージが残っていたの」
『弘司さんの声で?』
知美の声がさっきより一段高くなる。
「何度も聞き直してみたんだけど似ているとかそう言うのじゃなくて」
『う~ん。有香には悪いけど、それはあり得ないと思う。きっと混乱しているんだよ』
「でも――」
有香の言葉を遮って知美が言った。
『弘司さんが電話をかけてきたのかどうかは別にしても、不審なメッセージが留守電に残っていて智君の姿が見当たらないことは事実でしょ?』
「――うん」有香は力なく応えた。
『じゃ、まず念のため智君の学校に連絡して児童が残っていないか確認したほうがいい。まだ八時だから誰かいるでしょう』
「一年生は午前中で帰りだから今の時間まで残っていることはないと思うけど……」
『うん、まあ、だから念のためね。で、下校してからだいぶ経っているようだったら警察に相談したほうがいいと思う』
「警察に?」
『そう。そのために警察があるんだから』
「うん。分かった」
『私は私で自転車で有香の家に向かいながら近所の公園とか探してみるよ』
「え?。でも態々――」
『いろいろ回りながらだから二時間くらいで着くと思う』
「――ありがとう」
遠慮の言葉を聞かないふりをして尽くしてくれる親友に感謝をこめて有香は言った。
『じゃあ、何かあったら携帯に連絡ちょうだい』
知美の言葉で通話が切れた後、有香は言われたとおりに学校と警察に連絡を入れた。
学校に関しは、やはり一年生は午前中で下校しているようだった。いろいろ聞かれたが、まだはっきりと状況が分からないのにいろいろ話してしまうわけにもいかないので、『そう言えば、友達の家に遊びに行くって言っていたのを忘れていた』などと多少苦しい言い訳をして誤魔化した。
警察への連絡は知美の意見に従って留守電に不審なメッセージが記録されている件と息子の姿が見当たらない件を伝えた。さすがに留守電という物証があるためか、すぐに最寄の派出所から警察官を向かわせて確認させるとの事だった。有香は精神的な疲労が重なったためか、その場に座り込んだ。
「――どうして、こんなことばかり起きるの?」
有香は声にならない声で呟いた。
不吉な事が続きすぎる。その上、死んだはずの夫が息子を誘拐したかも知れないなんて。知美の言う通り何かの間違いと考えるしかない。あり得ることではないのだから。でも、あの声は確かに弘司のものだった。声だけではない。一緒に過ごしてきたから分かる独特の息遣いというか言葉の間というか……。とにかく、弘司の声であることに間違いはないのだ。だけどホラー映画じゃあるまいし、死んだ人間が電話をかけてくるなんてあり得ない。でも、もし――。
――ピンポーン。
静か過ぎる部屋の中に響いたチャイムの音に、有香はビクリと身を震わせて我に返った。急いで立ち上げるとドアホンのボタンを押した。
『こんばんは。通報を受けて参りました』
そのうちの一人がインターホン越しに言った。
「あ、はい。今開けます」
有香は玄関まで小走りで行き、ドアスコープで外に立っている者が制服を着ていることを確認するとドアを開けた。立っていたのは眼鏡を掛けている痩せた警察官と、それとは対照的に体格の良くて浅黒く如何にも体力に自信がありそうな警察官だった。
「通報を受けて参りました」
体格の良い方が言った。
「すいません。あ、玄関に入ってください」
有香が言うと二人の警察官は、失礼します、と言って中に入った。一般的なマンションよりも広めに造られた玄関でも大人三人が立つには多少窮屈だ。
「部屋に上がりますか」
「いえ。ここでお話をお伺いいたします」眼鏡の警察官は簡潔に有香の勧めを辞退すると会話を進めた。「通報いただいた内容は既にお聞きしています。その確認をさせてください。場合によっては専門の人間を呼ばせていただくことになります」
「お願いします」
有香は今までの経緯を説明した。警察官は二人とも相槌を打ちながら手帳にメモを取っている。
「――なるほど。その留守電は今も聞くことができますか」
眼鏡の方が質問を含めた会話担当らしい。
「はい。消去しないように保存してあります」
「その声に聞き覚えがありますか」
有香は躊躇したが、正直に答えることにした。
「それが……夫の声に聞こえるんです」
「え?」
思った通り、警察官は絶句して二人で顔を見合わせた。やがて、困ったような苦笑いの表情を作っていった。
「困りますよ、奥さん。それだったら旦那さんに連絡してください」
夫婦喧嘩の縺れか、離婚後の親権争いのような情事と思ったのだろう。眼鏡がそう言って手帳を閉じた。
「……夫は――先日、事故で亡くなりました」
「え?」
再び二人が絶句した。
「夫は既に亡くなっているんです」
もう一度、言葉にするだけで辛い言葉を有香は口にした。
「も、申し訳ない。それは、どう言う事でしょうか」
眼鏡の警察官が戸惑いながら言った。
「夫は先日、交通事故で亡くなりました。その夫の声と留守電に残っている声が同じなんです」
「かなり似ているわけですね」
「そうじゃなくて――夫そのものなんです」
有香の訴えに一瞬眉を寄せつつも警察官は諭すように言った。
「一度留守電のメッセージを聞かせていただいてよろしいでしょうか」
「はい。電話は奥になりますので、上がってください」
「わかりました。では、失礼します」
二人の警察官がリビングに案内された直後に、電話の呼び出しが鳴り響いた。有香が番号表示を確認した後、受話器を取らずに手を乗せたまま警察官の方を見る。
「番号非通知です。……出ても良いですか」
「ええ、お願いします。可能なら我々にも通話内容を聞けるようにしていただけますか」
有香は頷いてハンズフリーのボタンを押した。機械類が苦手な有香でも、家事と育児で手が離せない状況が何度もあったため、手ぶらで通話ができるボタンはマスターしていた。
徐々に電話のスピーカからザーザーというノイズ音が聞こえてきた。時々、甲高い発信音のようなものも聞こえてくる。その雑音の中から少しずつ人の声らしきものが聞こえ始めた。
『――……か』
有香は息を呑んだ。残されていたメッセージと同じ声だ。
『……ゆ………か……ゆ……か…………ゆか』
囁くような声はやがて有香の名前に変わる。側で聞いている二人の警察官も、不気味な雰囲気のする通話に耳を澄ましている。
『有香……また次の機会に――』
何度も名前を連呼した後、一言残して一方的に通話が切られた。
「今のは一体……」
尋常な事態ではないことだけは理解できた様子の眼鏡の警察官がひっそりと呟いた。