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第三話 狂い始める日常の

少しずつ、ダークネス。

配偶者が亡くなった場合、十日間の忌引き休暇を申請することができる。有香は土日を合わせて十四日間の休みを取った。

ちょうど春休みの期間に入ったので年休を取ることも可能だが、新入学児童のための健康診断の準備などやらなければならないことがたくさんあるため、これ以上休むことはできない。二週間程度で心が癒えるはずもないが、これからは自分の力だけで息子を育てていかなければならないという使命感と仕事に対する義務感でなんとか机に向かっていることができた。

――とは言っても今日はまだ週の始まりだ。一週間の終わりがとても遠くにあるような気がする。保健室に閉じこもっていると、あれこれ考え込んでしまいそうなので、人の出入りの激しい職員室で過ごすことにした。

養護教諭という立場上殆どの先生と関わりがあるためか皆が有香に対して次々とお悔やみや慰めの言葉を掛けていく。特に午後の授業が終わって時間の空いた先生がやってきて、いろいろと話かけてくれるのだが逆にその気遣いが堪らなくなり、有香は結局保健室に引っ込むことにした。

「こっちに来ると思ったよ」

既に保健室には知美が待ち構えていた。窓際で丸椅子に腰掛けて前後に揺れている。有香はその隣に歩いて行った。

「先生方のお気遣いは有難いんだけど――なんだか、みんなに慰められ続けていると逆に哀しくなってきちゃって……」

「有香のこと、みんな本当に心配してくれていたんだよ」

「うん。分かってる。で、――学校では渡瀬先生……でしょ?」

有香は弱々しく微笑んだ。

「ごめん。そうだったね」

知美は無理をして作ったような有香の笑顔を見て哀しくなり、窓の外を向いて応えた。有香も外を見つめたまま、しばらくの間沈黙した。

今日は朝から雨が降っている。こういう日には怪我人は少なくなるが、体調を崩してしまう児童が多くなる。今日も例外ではなく放課後になる前まで2つあるベッドが空くことはなかった。

「――まだ、犯人捕まらないんだ」

 窓の外の雨垂れを眺めながら有香がポツリと呟いた。

「ちゃんと調べてくれているの?」

「調べてくれていると思う。少しでも情報が入ってくれば逐次教えてくれるし」

「――そうなんだ。せめて少しでも早く犯人が捕まれば良いね」

轢逃げ犯が捕まったところで弘司が戻るわけではない。そして元通りの生活に戻るわけではない。それでも、この遣る瀬無い気持ちが少しでも薄れるのだろうか、と有香は思った。

「事故車だけでも特定できれば捜査も進むんだろうけど……」呟くように言う。

「――隠そうと思えば隠し場所がいくらでもありそうだからね」

 知美の言葉に有香は俯いて小さく「うん」と言った。

確かにいくらでも隠し場所はあるだろう。大型と言ってもバイク程度の大きさなら、ほとぼりが冷めるまで家の中にしまってしまうこともできるだろう。人に気づかれない場所に、こっそりと捨ててしまうことも容易かもしれない。自動車ではそうはいかないだろうが、スクラップにしてしまうよりも簡単に証拠隠滅ができてしまいそうだった。それは大きな不安材料である。

「でも大丈夫だよ。警察に任せておけば、きっと捕まえてくれるよ。日本の警察は優秀だって言うし」

 落ち込ませてしまったのを気遣うように知美は少し明るいトーンで言った。

「うん。ありがとう」

「……あのさ。今週の休みにでも智君を連れて総合公園でも散歩に行かない?」

「え?――でも」

 気乗りしない感じで有香は口籠った。ここのところ休みの日は外に出る気になれず、買い物に行く以外は家に閉じ篭っていた。

「智君だって、たまにはお出かけしたいんじゃないの?」

「う、うん。そうかも知れないけど」

それでも渋る有香の肩を軽く叩いて知美は微笑んだ。

決まり。有香も少し気分転換したほうが良いと思うよ」

「うん。ありがとう」

強引だけど自分のことを思い遣ってくれる親友に感謝して有香は微笑み返した。

「よし。そうと決まればテストの丸付け早めに終わらせちゃおうかな」

そう言って知美は立ち上がり保健室の出口まで行き立ち止まった。

「じゃ、また来るね」

「うん。分かった」

有香は知美の後姿を見送ると小さく息を漏らした。強引に話を運んでしまうところは昔から全然変わらない。だけど、毎回それに救われることも確かだ。悩んでいたり、落ち込んでいたりするときに彼女と話をすると少し心が軽くなる。有香は立ち上がって、その場で伸びをした。

「確かに知美の言うとおりね。智のためにも私が元気を取り戻さなきゃ」

 有香は保健室の入り口に、『見回り中』の札を下げると体育館に向かうことにした。体育館は職員室のある棟から渡り廊下を越えて低学年の棟に入り、すぐ左に曲がって少し進んだところにある。校舎の棟とバリアフリーで連結されてた小学校用としては大きめの体育館となっている。少子化が騒がれ始まってから建てられたため多目的に使用できるように設計された設備が多い。もし、この建物が学校として機能することができなくなっても別の用途で利用できるようになっているわけだ。

体育館に近づくにつれ嬌声が大きくなってくる。雨のため一日中外で遊べなかった児童たちの鬱憤が解放されている。塾の時間まで学校で時間を潰していたり、保護者が迎えに来るのを待っていたり、目的は様々だ。

「あ、渡瀬先生だ」体育館に入ると早速女の子が走り寄ってきた。「先生、縄跳びしようよ」

「ごめんね。今、見回り中だから、今度ね」

 有香が断ると女の子は、なあんだ、と言ってもといた場所に走り去った。この時間に残っている子達は、いつも同じメンバーなので聞き分けが良い。

 有香は、入り口近くの壁に寄りかかって、それぞれの遊びに興じる児童をぼんやりと眺めていた。どのくらい時間が経っただろう。不意に頭上から声を掛けられて、びくっと身を震わせた。

「大丈夫ですか」

 遠山が心配そうな顔で見下ろしてくる。

「すいません。ぼーっとしちゃって……」

「いえ。心中お察しします」

「ありがとうございます」

 有香は軽く頭を下げる。

「もし、僕にできることがあったら言ってください。微力ながらお手伝いしますから」

 遠山の言葉に再度礼を言って儀礼的な笑みを返した。

 その後、しばらく会話も無く何となく重苦しいような時間が流れた。無言の状態でもお互いの間を様々な気遣いが往復している感じがする。子供たちの声と床を撥ねる音、ボールが弾む音、縄跳びの音。それらが閉じられた体育館の中で反響している。増幅された賑やかな騒音が気まずい空気を育てて、少しずつ重力を与えていく。その空気の重さに耐えられなくなり、有香は口を開いた。

「――そろそろ戻らないと」

「え?、あ……そうですか」

 遠山は、やや残念そうな語尾を含めて言った。有香は軽く頭を下げると体育館を後にした。遠野に対してはどうしても素っ気無い態度をとってしまう。別に嫌っているわけではないのだが、交際を断ったという気まずさがあるのかも知れない。優しい言葉を掛けられると罪悪感を感じてしまう。遠野は既に過去のことは割り切っている様子だ。私も普通に接しないと彼に対して失礼だ。そんなことを考えながら、低学年棟から渡り廊下に曲がるT字路に差し掛かったところで前方に知美の姿を見つけた。手に持ったテスト用紙を見ながら前方から歩いてくる。

「三河先生」

 有香はT字の交点で立ち止まって声を掛けた。

「あれ、どうしたの」知美は顔を上げて言った。

「うん。ちょっと体育館に見回りに」

「そう。お疲れ様」

「途中で遠山先生が来てさ……」

 有香は語尾を窄める様にして言った。

「なるほど。それで、気まずくなって逃げてきたってワケね」

「逃げたって訳じゃないけど」

 それを訊いて知美は、ふーんと鼻を鳴らした。

「と……ところで、仕事が終わりなら駅まで送っていこうか?」

 話の雲行きが怪しくなりそうなので、有香は話題を変えた。

「え?。わぁ、助かるぅ。随分強く降り始めたから、ちょっと参ったなって思ってたんだ」

 学校から駅までは歩いて十分ほど離れている。途中通る住宅地の水捌けが悪く、水溜りができやすい。今日くらい降っていると辿り着くまでには靴の中までずぶ濡れになってしまうだろう。

「じゃあ、帰り支度をして私の車まで来て」

「オッケィ」

 軽い返事をしてパタパタと職員室に向かう知美を見送って、有香は保健室に入った。既に纏めてある荷物を手に取ると、一足先に車へと向かった。

 運転席に乗り込むとしばらくの間、水滴の流れるフロントガラスを見つめた。中古で購入した車なので、本当は暖気をしておきたいのだが、学校の敷地内で無駄にエンジンをかけておくことは禁じられている。

 やがて、水滴越しにぼやけた赤い傘が向かってくるのが眼に入った。

「お待たせ」

 知美が助手席のドアを開けて乗り込んだ。

「じゃ、行きますよ」

 そう言って有香がエンジンを掛けて車を走らせる。

「このまま車通勤続けるの?」

知美はシートベルトを引きながら言った。

「うん。朝は渋滞して大変だけど、慣れちゃえばどうってことないから。それに、まだちょっと怖いし」

有香は軽く眉をひそめた。

「そっか。やっぱり、まだ駄目?」

「ちょっとね。もうしばらくは電車とかムリかな」

「まあ、車に乗れるんだったら、そのほうが便利だろうけどね」

「知美も免許取れば良いのに」

「ムリムリ。私みたいな鈍いのが免許なんて取ったら………」

そこまで言いかけて知美は慌てて言葉を呑みこんだ。事故を起こす、などと言う言葉は今の有香に聞かせるものではない。

「もうすぐ駅に着くよ。すごい雨だけど大丈夫?」

不自然に切られた知美の言葉を気にしていない素振りをして有香は言った。

「うん。ありがと」

 駅のロータリーに入るため右折のウィンカーを点灯させる。点滅とともにカチカチと鳴る音が、雨粒がボンネットを叩く音に掻き消されていく。徐々に雨脚が強まっているようだった。

「家まで送っていこうか?」

「大丈夫。ウチ、駅から近いから」知美は顔の前で手を振った。

「そう。気をつけてね」

 有香はできる限り駅の入り口に近い場所に停車した。

「有香も気をつけて」

知美は言うと車を降りながら傘を開いた。屋根の下まで十秒程度の距離だが、傘を差さないとその時間だけでずぶ濡れになりそうな勢いで降っている。

改札口の前で手を振る知美に手を振り返すと由香は自宅に向けて車を発進させた。風も出始めたようで、駅に向かって歩いてくる人たちが傘を前方に倒していて、色とりどりの丸い円が歩道に散らばっているように見えた。

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