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第二話 予感

暗い話になっていきます…

最初はとことんです。


第一私立病院は学校から国道沿いに車で三十分ほどのところにある四階建ての建物だ。通勤のときに横を通るので場所は見知っている。朝は道が混んでいるため両車線とも渋滞することが普通で倍近い時間がかかることもあるが、今の時間は比較的空いているらしく、すんなりと来ることができた。

駐車場に入ったが建物の玄関口近くが空いていないためやむなく少し離れた場所に車を止めた。急いで車を降りて入り口に向かう。

一階は外来の待合になっており、順番待ちの患者が静かに座っていた。その後ろを通り過ぎナースステーションに向かう。

「すいません」

有香はカウンターから身を乗り出すようにして言った。

「はい」

奥にいる看護師が振り返りやってきた。

「渡瀬、渡瀬弘司の妻です。夫が事故で運び込まれたと連絡を頂いたのですが」

「渡瀬さんですね。少々、お待ちください」

 看護師はそう言って手元にある端末を操作し始めた。有香が不安な面持ちでその様子を見守っていると、看護師が一瞬表情を固めたように見えた。

「――先生をお呼びいたしますので、しばらくお待ちください」

看護師は端末から顔を上げると、そう言って奥に戻りインターフォンを手に取った。有香の位置からでは聞き取れないくらいの大きさの声で話をしている。会話が終わるとそのままの位置で有香の方を向いて、もうしばらくお待ちくださいと言った。

有香の心に嫌な予感が広がっていく。僅かな時間が引き延ばされ、とても長い時間に感じられる。それでいて心臓の鼓動だけはいつもより早く胸を打ちつける。大丈夫。だって、朝はあんなに元気だったじゃない。大丈夫に決まっている。由香はその言葉を反芻するように心の中で繰り返す。

しばらくして、白衣を着た医師が向かってくるのが眼に入った。有香は思わず走り寄った。

「先生、主人は……主人は」

「渡瀬さんですか?」

医師は低く静かな声で言った。

「はい」

「こちらへどうぞ」

医師はそう言うと左にあるドアを開けると有香に室内に入るように促した。

部屋はナースステーションに直結した個室になっており淡いピンクのカーテンで仕切られていた。椅子が四脚とテーブルが置いてあった。

「お掛け下さい」医師は、掌で指した椅子に由香が腰を下ろしたのを確認するとその場に立ったまま訊ねた。

「ご主人が事故に遭われた――と言うお話は聞いていますね」

「は……はい。それで、主人は……」

「――申し訳ありません」医師は息を吸い込み、少しの間、目を瞑った。「最善を尽くしましたが……」

「え?」

途中で切られた予想外の医師の言葉の意味が飲み込めずに有香は聞き返した。

「それは、どう言う――」

医師は有香の目を見て、ゆっくりと言った。

「ご主人……渡瀬弘司さんは、先ほど息を引き取りました」

「え?」

信じられない言葉に由香は目を見開いた。

「外部の出血は然程見られませんでしたが、全身を――特に頭を強く打っています。詳しくは後ほど調べることになりますが、そのショックが直接の原因と考えられます」

「朝――あんなに元気だったのに?」

自分に問いかけるように由香が言った。その声は上擦っている。

「智と一緒に、行ってらっしゃいって見送ったのに?――行ってきますって笑ってくれたのに?」

 俯く有香の右目から一筋の涙が伝った後、堰を切ったかのように次々と溢れ出た。

 しばらくの間、沈黙の時間が流れた。ドア一枚向こうのナースステーションで見舞い客の対応をする看護師の声がずいぶん遠くで、それでいてはっきりと聞こえる。

「……お辛いところ申し訳ありません」重い空気の中、医師が口を開いた。

顔を上げた有香に医師は続けて言った。

「一応、ご本人確認をお願いいたします」

「ご本人?」

「ええ。所持品から渡瀬さんであると確認したのですが、ご親族の方に一度確認していただかなければ断定できませんので」

 ――もしかしたら、別人かも知れない。

「分かりました」有香は一縷の望みを抱いて応えた。

 医師は頷いて部屋のドアを開けて、廊下に待機していた看護師に、よろしくと声をかけるとその場を立ち去った。

「ご案内させていただきます」部屋から出た有香に看護師が声をかけた。

「お願いします」

 有香は軽く頭を下げて応えた。

 有香は歩き出した看護師の後に続いて行く。

「地下に移動しますね」

 ナースステーションの隣にあるエレベータの前で看護師はそう言うとボタンを押した。階数が少ないので、待ち時間も無くドアが開いた。担架や車椅子の移動のために通常のエレベータよりもかなり広めな室内に二人が乗り込むと、静かにドアが閉まった。僅かな慣性を感じた後、再びドアが開くと蛍光灯の明かりが妙に眩しい廊下にでた。

 そこからまっすぐ進んで突き当たりにある重そうな扉の前で看護師は立ち止まった。扉の上の壁からは『霊安室』と書かれたプラスチックのプレートが突き出ている。

「こちらになります」

 看護師は観音開きになってる扉をゆっくりと引いた。重厚な扉なのでギギギなどと音を立てそうな感じだったが、見た目に反して音も無く静かに開いていった。

 部屋の中はひんやりと冷たい。妙に明るい蛍光灯の光が更にそれを増徴しているように感じる。然程の広さが無い部屋の造りは簡潔で、真ん中に寝台が置いてあり、頭上には白い棚が置いてある。その飾りの無い寝台の上に身体と顔に布がかかった状態で人の形に膨らんでいる。その胸が上下することもなく、ただ静かに横たわっているだけだ。今いる自分の世界とは違い場所を垣間見ているような不思議な錯覚がする。有香は入り口を入ったところすぐの位置で次の一歩を踏み出せぬまま立ち竦んでいた。その様子に看護師は何も言わずに寝台の隣に着くと静かに顔の布を取った。

「ご確認をお願いします」

 看護師の言葉を聞き終わる前に、有香は小さくヒュっと息を飲み込んだ。眠っているような静かな顔と、今日の朝、玄関で見送った笑顔が重なる。その顔が安物のデジカメで撮影した手ブレ写真のように滲んでいく。涙が頬を伝った。

「――弘司」

 近寄らなくても分かる。間違いは無い。そこに横たわっていたのは、紛れも無く有香の夫であった。

「……ウソよね」

 有香はゆっくりと側に寄る。今まで見たことの無い生気を失った血色の無いその顔を見て、感情が溢れ出した。たくさんの思い出と切望していた未来図が蛍の光のように浮かび上がっては消えていく。

「弘司――どうして……ああぁぁ」

 密閉された空間に悲痛が増幅されるように声が反響する。有香は何度も何度も最愛の夫の名を呼んだ。しかし、泣き叫ぶ声にあの低く優しい声が反応してくれることは無かった。

しばらくの間、俯いたままその様子を見守っていた看護師がゆっくりと言った。

「渡瀬弘司さんで、間違いありませんか」

 有香は弘司の顔から目を離さずに頷いた。

「……ご愁傷さまです」看護師は静かに言った。「この後、検死が行われます」

「検死?」

「交通事故で亡くなられた場合、検死が法律で定められているんです。それに今回の場合は――」

「今回の場合?」

 看護師が切った言葉を有香は訊き返した。

「いえ。そのことに関しては別にお話があると思います」看護師はそれ以上訊かれても応えることはできないという意思を示すかのように事務的な口調で言った。「お引渡しは明日の午前中になるかと思います」

「……分かりました」

 淡々と言う看護師のお陰か少しだけで有香の感情が落ち着きを取り戻すことができたのかもしれない。冷静に弘司の顔を見ることができるようになった。同じ瞼を閉じている状態と言っても眠っている時とは違う無表情な顔。

「――よろしいでしょうか」看護師が訊く。

「はい」

 有香は小さく言った。看護師の手で遺体の顔に白い布が掛けられる。それを合図にするように、また部屋の中に冷たいくらいの静寂が舞い戻った。

無言で部屋から出る看護師の後に続いて有香も廊下に出た。

「先ほどのエレベータで一階にお戻りください。警察の方がお待ちになっております」

「警察?」

「今回の事故についてお話があるそうです」

 看護師はそう言って頭を下げると来た時とは反対方向に去って行った。

 有香は呆然としたままエレベータに乗り込むと一階へと戻った。ドアが左右に開くと、廊下に置かれている長椅子に腰掛けた二人の男が立ち上がるのが目に入った。二人ともネクタイを締めているが普通のサラリーマンにはない鋭さが目に宿っている。一人は五十歳を少し超えているくらいだろうか。頭に白いものが混じっている。もう一人はその半分くらいに見える。

「県警捜査一課の及川です」

 歳をとった方が頭を軽く下げると続けてもう一人が名乗った。

「同じく真辺です」

「片瀬さん、片瀬弘司さんの奥様ですね」

「は……はい」

 及川の低い声に有香は緊張気味に応えた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

 本人が思うような効果をいまひとつ挙げることができない笑顔を及川は作って言った。

「早速ですが」真辺が手帳を開いて言った。「弘司さんは本日午後一時頃、市内の中央二丁目の路上で倒れているところを通りかかった人に発見されました」

「中央二丁目……ですか?」有香は聞き返した。

「ええ。お心当たりはありますか」

「いえ……」

有香は首を横に振りつつ考えた。中央二丁目と言ったら、駅前の通りから少し外れた所だ。家から普通に駅に向かう場合は通ることは無い場所だ。それに都内に勤めに出ているはずなのに、午後一時頃にこの付近をうろついていたと言うのはどう言う事だろうか。しかもよりによって中央二丁目とは……。

「旦那さん、お勤めはどちらですか」及川が訊く。

「都内――新宿です」

「――うむ。都内ですか……」

 及川は眉間に刻まれたしわを更に深くして呟いた。おそらく有香が考えた疑問と同じことを考えているのだろうが、それを口に出すことはせずに黙り込んだ。その様子を見ていた真辺が手帳に目を落とし話を進めた。

「現場にブレーキ痕が残っていたのですが、どうやら大型のバイクのようなものに撥ねられたようです」

「――バイクですか」

「はい。正確な事は検死の結果次第ですが、医師の診断によれば背後からのようです」

 その後を引き継ぐように及川が続けた。

「ここからは奥さんにはちょっとショックな話になってしまうかも知れないけど良いですかね」

「……お願いします」

 それが事実であるならば、そしていつかは知らなければならないことであるなら、できる限り早めに知っておいたほうが良い。有香はそう考え返事をした。及川はそれを見て頷き、真辺に目で合図をした。

「現場に残されたブレーキ痕からすると、バイクは、跳ねる前ではなく撥ねた後、少し進んでから停止したと考えられます」

「どういうことですか」有香が訊く。

「つまり、意図的に弘司さんを狙って撥ねた可能性があります。もちろん、今のところ可能性に過ぎませんが。バイクは弘司さんに突っ込んで行き、跳ね飛ばした後、様子を確認するために停止した……と考えられます」

「そんな……」

 有香は言葉を失った。何のために弘司をそんな目に合わせたのか理解ができない。

「で、犯人はそのまま立ち去りました」

「轢き逃げ……ということですか」

「はい。それも意図的と思われる轢き逃げです」

意図的な轢き逃げ。それは言い換えれば車を凶器とした殺人だ。

「現在、目撃者がいないかあたっているところなんですがね、如何せん、あの辺りで昼前後となりますとねぇ」

 及川はボールペンの後ろ側で自分の頭をトントンと叩いた。有香は及川の言葉を聞きながら、自分の中に浮かんでくる夫への疑いを振り切るため、いろいろな答えを見出そうと考えた。

 ――何故、弘司は会社に行っていなかったのだろう。何故、中央2丁目……ホテル街と呼ばれる場所にいたのだろう。何故、事故に遭わなければならなかったのだろう。何故――。

 しかし、嫌な想像が膨らむばかりでよい答えは見つからなかった。


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