第一話 日常の崩壊の始まり
ちょっと硬めですかね。
まあ、本作品はこんな調子で書きつつ、徐々に内容が壊れていきます。
1
染みひとつ無い白い清潔なシーツが午後の日差しを反射して保健室を明るく照らしている。養護教諭として赴任して以来、変わることなく繰り返されてきた日常の風景。机の上の木箱の中の絆創膏、揺れるブルーのカーテン、薄っすらと漂う消毒液の匂い。
喚声とも悲鳴ともつかない声が、暖かくなり始めた風の吹く校庭に響きわたる。様々な遊びに興じる子供たちの姿を見ながら渡瀬有香は各クラスの保健委員達が届けに来た出席簿をチェックしていた。季節の変わり目になると風邪を引く児童が目立ってくる。各クラスごとの出欠席をまとめて日誌に書き写すとパソコンの電源を入れた。日誌の内容を入力して教育委員会に提出しなければならない。特に月末はその月の集計結果も添えなければいけないので書類の作成に手間がかかる。有香は大きく息を吐いてキーボードに指を置いた。
「こらっ。そんな大きなため息ついちゃ駄目よ」
今まで誰もいなかった筈の室内で突然背後から声をかけられて有香は驚いて振り返る。
「何だ、知美か」
いつの間にか入り口隣の壁に取り付けてある掲示板に三河知美が寄りかかって立っていた。
「まったく何か始めると周りのことに気が回らなくなるんだから。それに、校内では三河先生でしょう?」
有香と知美は学生時代からの友人同士で、今に至っても公私共に良き相談相手であり良き遊び相手である。
「あ、ごめん」
「まあ、いいけどね。それよりも何?、さっきのため息」
「これ」そう言って有香はパソコンを指差す。「日誌に書いたものをパソコンにも入力しなきゃならないなんて無駄な作業だな、なんてね」
「渡瀬先生は昔から機械類は苦手だからね」
「むぅぅ。これでもできるようになってきたんだからね」
「はいはい」
「そう言えば、三河先生は今日って出張じゃなかった?」
「さっき帰ってきたところだよ。教育フォーラムだったんだけど、あまりパッとしない講演内容だったし寝ている人も多かったから途中で切り上げちゃった」
知美は舌を出した。
「大丈夫なの?」
「平気平気。資料さえ貰ってきていれば、説明できるような内容だったからね。あれじゃ最後までダラダラと聞き続けているより戻ってきて仕事したほうがよっぽど教育のためになるよ」
後ろに纏めている髪を縛り直しながら知美は言った。
「で、どうして保健室に?」
有香の問いに知美は人差し指を斜め前方に向けた。その先には丸い壁掛け時計がある。
「どうしてって、冷たいなぁ。渡瀬先生のことだから、三時からの職員会議のこと忘れているかなぁ……と思って、教えてあげにきたのに」
時計は午後二時半を回ったところだ。
「え!?。ああ!!、早く言ってよ。私、今日議題があるのに」有香は慌てて立ち上がる。「資料印刷しなきゃ」
学校のルールとして三十枚以下の印刷はコピー機で、それ以上なら印刷機を使うことというものがある。一枚あたりの単価計算の関係するらしいが原則としてこの決まりを皆守っている。職員会議は五十名の先生が参加するので印刷機を使わなければならない。
「まったく……資料何枚あるの?」
知美は有香の側まで歩きながら訊いた。
「えっと、全部で七枚。六枚綴りと一枚ペラでワンセット」
「じゃあ、綴るの手伝ってあげるよ」
知美の言葉に有香は彼女をじっと見つめる。
「印刷機のほう、お願い」
「――ふう。どこまで機械ダメなのよ」
「私がやっていたら間に合わないもの」
有香は両手を合わせる。
「もう、早く印刷室に行くよ」
「あ、ちょっと待って」
有香は慌てて資料の原版を持って知美を追いかけた。印刷室に近づくとガシャンガシャンと印刷機のドラムがリズミカルに回転する音が聞こえてきた。
「先約がいるみたい」
知美が振り返る。
「間に合うかな」
有香が心配そうに言う。
二人が室内に入るとちょうど印刷が終了したらしく長身の男性教諭が用紙を纏めていた。
「遠山先生、印刷終わりました?」
知美がその教諭を見上げるようして訊いた。
「ええ、今丁度。電源このままにしておいて良いですか」
遠山は逆に見下ろす形になる。彼の身長が百九十センチ前半であるのに対して知美は百五十五センチなので遠目で見ると大人と子供に見えてしまう。百六十センチ後半の有香でも三十センチ近い差がある。
「じゃあ、お先に」
遠野はちらりと有香の方を見て言った。部屋の出口を潜るようにして出て行く。
「……遠野君、まだ有香に未練あるのかな」
知美がぼそりと言う。
「な、何言っているのよ。それに、校内では遠野先生でしょう?」
有香が慌てた様子で言う。
「独り言だから良いのよ」
遠野 真之も二人同様に学生時代からの付き合いがある仲だ。大学三年の頃に遠野が有香に対して想いを告白したが、その頃には現在の夫である弘司と交際をしていたため断ったという苦い思い出がある。
「さて、印刷印刷」
知美は印刷機に用紙をセットしてボタンを押す。要領はコピー機と変わらない。年配の先生によると昔の印刷はガリ版とかで手間がかかるし、使い方が下手な先生はインクであちこち汚してしまうような代物だったらしいが、今はボタンひとつで終わってしまう。この程度の操作が難しいという有香の機械オンチぶりに、洗濯機とか炊飯器とかは使えるのかしら、と知美は心配してしまう。
印刷機が動き始め次々と紙が吐き出されていく。最初は表紙で、新入学児童健康診断についてといタイトルが付いている。
「後は待つだけね」
知美が言った。
「ありがとう。助かったぁ」
有香が礼を言うのとほぼ同時くらいに校内放送のチャイムが鳴り、続いてスピーカからアナウンスが流れた。
『渡瀬先生、渡瀬先生。至急、職員室までお願いいたします。渡瀬先生、至急職員室までお願いします』
「あれ?。私、呼ばれたみたい」
有香は人差し指で自分の鼻の頭を押さえて言った。
「もう、タイミング良いなぁ。いいよ、後はやっておいてあげるから行っておいで」
「ありがと。後でなんかお礼するから」
有香は両手を合わせてウィンクすると部屋を出た。印刷室の隣が教員用の資料室。そしてその並びに校長室、職員室と続いている。有香が職員室に向かって足を踏み出した瞬間に、その入り口から慌てた様子の教頭の富機が出てきた。
「あ――渡瀬先生、急いで来てください」有香の姿を認めた富機が早い口調で言った。
その尋常ではない様子に、有香は児童に事故が起きたのではないかと想像して駆け出した。
「教頭先生、何かあったんですか?」
有香が言った。
「渡瀬先生に病院から電話が入っている」
「病院ですか?」
有香は予想していない回答に大声で聞き返してしまった。職員室にいる何人かの教諭が驚いて振り返っている。
「詳しくはご本人に直接お話しするということなんだが」いったん富機は息を呑むように間を空けて続ける。「旦那さんが事故に会われたらしい」
「え?」
一瞬体が固まるような感覚と共に富機の言葉が現実感を押し退けるように意味が分からない響きとなって耳の奥でリフレインする。しかし、また次の一瞬には電話に向かって駆け出していた。受話器を上げ、保留ボタンを解除する。
「もしもし、渡瀬です」
『渡瀬弘司さんの奥様ですね』
逸る有香を落ち着かせるかのようにゆっくりとした口調の女性の声が聞こえた。
「はい」
『こちら第一市立病院です。先ほど、自動車に撥ねられたと見られる状態で弘司さんが運び込まれました。所持していたものから奥様の連絡先が分かりましたのでご連絡させていただきました』
「え、あの――」有香は言葉を詰まらせた。「撥ねられたと見られるというのは……」
『それに関して詳しいことにつきましては警察の方からお話があると思います。弘司さんの状態ですが、現在、まったく意識の無い状態です。すぐにでもこちらに来ていただけますでしょうか』
「そんな……」有香はつぶやく。頭の中が真っ白になっていく。今にも膝から崩れてしまいそうなほど全身から力が抜けていく。
『――よろしくお願いします。』
受話器を置くと同時に電話で聞いた言葉が強い現実感を持って押し寄せてきた。
「教頭先生」有香は近くで様子を見守っていた教頭に言った。「年休をお願いします」
「分かった。校長には伝えておくから早く行きなさい」
「ありがとうございます」
言うが早く有香は駆け出していた。