歴史にならなかったエジプト
私たちはそれを「空白期」と呼んでいる。
エジプト第◯王朝末期から次王朝初期にかけて、約三十年。
戦争の記録もなく、大災害の痕跡もない。王名表は連続しており、神殿も破壊されていない。人口減少も確認できない。
それなのに――
記録が、存在しない。
石碑は途中で文章が終わり、パピルスは白紙のまま封じられている。神殿の壁画は、描きかけで止まっているものすらある。
削られた痕跡ではない。
焼かれた形跡でもない。
最初から、書かれていない。
発掘三年目、私は神官用の書記室跡で奇妙な石板を見つけた。
王名も神名もない。
ただ一行、異様に乱れた象形文字が刻まれている。
──解読不能。
文字は存在するのに、意味を持たない。
鳥でも、人でも、神でもない「何か」を表そうとして、途中で破綻した痕跡。
同行していた言語学者は震える声で言った。
「これ……書こうとして、失敗している」
別の神殿では、さらに異常なものが見つかった。
奉納文の定型文。
王を讃え、神に感謝し、永遠を願う――はずの文章。
だが、途中から文字が減っていく。
最後の行には、
一文字も刻まれていなかった。
彫刻刀は、確かにそこに当てられている。
だが、書くのをやめたのだ。
私は仮説を立てた。
この時代、エジプトは滅びていない。
侵略も受けていない。
ただ――
書けないものに遭遇した。
神でもなく、獣でもなく、王でもなく、災厄とも言えない存在。
象形文字という「世界の定義装置」が、通用しない何か。
神官たちは記そうとした。
だが記せなかった。
記せない存在は、神話にならない。
神話にならないものは、存在してはならない。
だから彼らは決めたのだ。
「無かったことにする」
報告書を提出した翌日、上層部から連絡があった。
この仮説は学会に不適切
発表は見送る
記録は保留とする
私は、少し笑ってしまった。
ああ、なるほど。
今も同じだ。
書けないものは、歴史にならない。
帰国前夜、私はあの石板をもう一度見た。
意味を持たない文字列。
だが、不思議と目が離せない。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
――彼らは、去ったのではない。
――滅ぼしたのでもない。
――ただ、命令に従わなかっただけだ。
それだけで、
文明は沈黙した。
翌朝、石板は保管庫から消えていた。
報告書にも、その存在は記されていない。
私は理解した。
これもまた、歴史にならなかったのだ。




