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三年経っても既読を消せない僕の、冬の空

作者: 平田 守
掲載日:2026/01/24

僕は空を見ていたはずなのに、空が見えなかったあの日のことを、今でもはっきりと覚えている。

季節は夏の終わり。駅前の通りは相変わらず熱を帯びていて、アスファルトから立ち上る蒸気が街全体を揺らしていた。僕たちは大学の図書館で出会った。彼女・美咲は、会計学の教科書を前に眉をひそめていて、僕はそっと「その説明、複雑ですよね」と声をかけた。その一言が、二年間の付き合いの始まりだった。

美咲は笑顔が素敵だった。どんなに試験前で疲れていても、いつも「大丈夫、何とかなるよ」と僕を励ましてくれた。僕たちは図書館の同じ席に座り、放課後は近くのカフェで勉強した。時には馬鹿みたいにしょっぱい話をして、時には人生について真面目に語り合った。彼女は僕の全部を知ってくれた。怠け癖も、親との関係の複雑さも、将来への漠然とした不安も。

でも、全部を伝えることはできなかった。

ただ一つ、僕が美咲に言えなかったことがある。それは「君が好きだ」という、一番シンプルな言葉だった。

付き合って一年目の冬、僕たちは初めてのクリスマスデートに出かけた。イルミネーションが輝く街を歩く美咲の横顔は、光に包まれていて、本当に綺麗だった。あの時も、口を開けば「好きだ」という言葉が出そうで、でも何かが引っかかって、結局言えなかった。何が引っかかっていたのか、今でも分からない。

二年目の春。僕たちは関係が変わった。小さなことで衝突するようになった。僕の返信が遅いこと、美咲の友人との時間が増えたこと。本当は些細なことなのに、何か大事な何かが欠けているような不安感が、二人の間に影を落とし始めていた。

美咲は何度か「最近、変わった」と言った。僕は「そんなことない」と答えた。嘘だった。僕は変わっていた。好きなのに、それを伝える勇気が日に日になくなっていくのを感じていた。

そして、あの日がやってきた。

夏の終わり、駅前の踏切の近く。二人で歩いていた時、美咲が突然立ち止まった。

「ねえ、私たちのこと、どう思ってるの?」

僕は答えられなかった。いや、答えなかった。その時、彼女の瞳に初めて涙を見た。

「何も言わなくてもいい。私、分かってる。あなたは、私を好きじゃないんだ。」

違う。全部違う。僕は彼女を心の底から愛していた。でも、その言葉さえも口から出なかった。

「ありがとう。付き合ってくれてありがとう。」

美咲がそう言って、僕に背を向けた。

その時だ。空を見ていたはずなのに、見えなくなったのは。

まぶたの奥が急激に熱くなった。視界がぼやけて、ぼやけて、最後には何も見えなくなった。涙が頬を伝い、あご先で光を集めて落ちた。あの日の空は、その涙に全部隠されてしまった。どんなに見上げても、その青色は戻ってこなかった。

「待って。」

声を出そうとしたけど、喉から出たのは、かすれた音だけだった。美咲は振り返らずに歩き続けた。その後ろ姿が、やがて人混みに溶けていった。

それから三年が経った。

僕は大学を卒業し、小さな会計事務所に入社した。毎日、数字と向き合う日々。計算機の音が心地よく感じられるようになったのは、心が空白だからなのかもしれない。

友人たちは何度か「誰かいないの?」と聞いてきた。僕は笑って「そのうちね」と答えた。でも本当は、あの日の後、誰かを好きになることが怖かった。好きになるということは、また言葉を失うことなのではないか。そんな恐怖に縛られていた。

家に帰って、一人きりになる時間が好きになった。大学時代は友人たちと過ごす時間を大切にしていたのに、今は誰とも会いたくない気分に支配されていた。

SNSで美咲を検索したことが何度もある。彼女は相変わらず笑顔だった。新しい彼氏もいるらしい。それを見ると、心がチクリと痛んだ。でもそれは、彼女の幸せを願いたいという気持ちと、自分の無力さへの後悔が、混在した痛みだった。

昨年の冬、同僚の結婚式に招待された。式場の青い天井を見ながら、僕は思った。もし、あの日、空が見えていたなら。もし、涙が出ていなかったなら。もし、一言「ごめんなさい」と言えていたなら。

でも、その「もし」は、もう戻ってこない。

最近になって、不思議なことに気づいた。

駅前を歩いていた時、子供が親に「お空、きれいだね」と言っているのが聞こえた。その瞬間、あの日の空が浮かんだ。見えなかった、あの青い空が。

初めて気づいたんだ。あの日、僕が見えなかったのは、空ではなく、本当は自分の気持ちなんだということに。

涙で隠されていたのは、空ではなく、自分の心だった。そして、その隠された心の中には、美咲への想いがそのままの温度で保存されていたんだ。

もう、彼女を追いかけることはしない。それが、大人になるということなのだと理解できるようになった。でも、忘れることもしない。あの日の涙は、まぎれもなく、僕が彼女を心の底から愛していた証拠だからだ。

最近、再び空を見上げるようになった。図書館の帰り道。会計事務所の屋上で昼休みを過ごす時。駅前の踏切で信号を待つ時。

あの日見えなかった空は、今は違う色に見える。それは、単なる青ではなく、失われたものの色。後悔の色。そして同時に、それでも生きていくしかないという、静かな諦念の色だ。

人生って、こういうものなんだと思う。完璧に言葉を尽くせることなんてない。完璧に想いを伝えることなんてない。でも、その不完全さの中にこそ、人生の哀しみと美しさがあるんじゃないか。

僕はもう、あの日の空を見えるようにしようとは思わない。

だから逆に、これからの空をちゃんと見ていこうと思う。涙なしに。ただ、心の奥に「あの日、見えなかった空」を大事に抱きながら。

それは、美咲との思い出であり、自分の青春の記録であり、そしてもう戻ってこない時間への、静かな敬礼だ。

駅前の踏切で、僕は空を見上げた。季節は冬。空は深い灰色をしていた。でもその奥に、確かに青が隠れているのが見える。そんな気がした。

「ありがとう。」

誰に言うのでもなく、僕はそう呟いた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

言えなかった言葉や、選ばなかった選択は、時間が経っても案外消えないものだなと思いながら書きました。

少しでも何か残るものがあれば嬉しいです。

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