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あの日、ノリがやったことはただの意味のない行為だと思っていた。ただよくある都市伝説から派生した話だと。だから忘れていた。いつものバカみたいな企画のひとつで俺たちは容易に人をひとり消し去ってしまえる。
目を開けた時、陽が落ちてしまったのか完全な暗闇の中にいた。俺は今椅子に座っている。ただ、なぜここにいるのか思い出せないでいる。
(電気……つけるか)
立ち上がり、電気のスイッチを探す。だが、自分の部屋にしてはあまりにも広い気がする。ハッとして部屋を見渡した。机の上には溶けきった蝋燭と十円玉、そして黒い液体で満たされたコップがある。奇妙な組み合わせにようやく自分がここに至った経緯を思い出す。ここはユメ……いや、ノリの家だ。
「ユメ……、リア! いや、ノリ! どこにおる!」
声を掛けながら部屋の照明のスイッチを切り替える。しかし、たしかに硬質な音が返って来たが天井に張り付いたままの蛍光灯が光を発することはなかった。そして家の中に自分以外の気配を感じ取ることもできない。仕方なくスマホを取り出し、ライトをつける。動画を撮るだけでなく頻繁に遊んでいたため見慣れた光景だが、長い時間が経過したかのように埃や砂が周囲に積もっている。おまけにひどい匂いがキッチンの方から流れてきている。電気がつかないことから冷蔵庫がその源だろうか。俺は足元を照らしながら外へ出た。
外は闇……というほどではなかったが、暗い中に湿っぽく、どこか異様な空気を纏っている。アパートの外廊下があるはずだが、扉のすぐ外はコンクリートの床も鉄製の手すりもない。それどころか両隣の部屋がなく、ノリの部屋だけがまるごと切り取られてここに出現したかのような風景だ。そして肝心の外は奇妙な森の中だった。ここで奇妙と表現したのは理由がある。まず第一に木々は総じてねじ曲がっている。太い蔓を何本も束ねて一本にしたかのような木が目の前を占領している。第二にあまりにも近い。山小屋ならまだしもここは住宅街のはずだ。ノリの部屋だけがここにあることも十分おかしいことだが、まるでここが居場所であるかのように我が物顔で幹を伸ばし、枝を生い茂らせている。いや、本来は彼らのテリトリーである場所に俺が足を踏み入れてしまった、という方が正しいのか?
そして、第三に扉の前からうっすらと道らしきものが見える。ここで"らしき"といったのは理由がある。たしかにそのごく細い一本の線の上には土が露出し踏み固められ、下草がまばらだ。だがそれは家の前から伸びているからであって、この鬱蒼とした森の中で地面を踏み固めているのは人である必然性がないように思えた。なので獣道と表現しても差し支えない。
とはいっても、ここで考察を重ねても限界がある。ここにいる理由はユメコがあの場で儀式を行い、俺たちが巻き込まれたからだと理解できる。しかしそれはここがどこかという現実を知る手掛かりにはなりえないし、ここを脱するために必要なひらめきにも寄与しない。なので、俺はその道を辿ることにした。両脇に迫る木々の中に入り込めば一生かかってもこの場に戻ることができないだろうと直感的に理解できた。道が一本である限りは引き返せばいいのだ。スマホのバッテリーは約80%。先ほどまで真っ暗だと思っていたが、道はぼんやりとした光に照らされて地面に落ちている石や木の枝が見える。目が慣れてきたのだろうか。いざというときのためにライトを消した。
道は細いが、一定の幅を保っている。常に誰かが用いているのだろう。一体どんな人がこんな場所に住んでいるのか。興味と恐怖がないまぜになったまま俺は歩みを進める。鬱蒼とした森の中、少しのアップダウン以外は全く変化のない夜を無心に歩く。変化が訪れたのは歩き始めてから小一時間経った頃だろうか。正確な時間はわからない。スマホで時刻を確認しようにもずっと「22:12」で止まっているからだ。しかし時間なんてどうでもよかった。変化が訪れ、この気が狂いそうな単調な作業に終止符が打たれたのだから。道が急に広がり、開けた場所が姿を現す。喜ばしいことにそこには人の痕跡がある。俺が出てきた部屋と同じような家の空間を一部分だけ切り出したような四角い箱や間口の細い縦長の家の一角、明らかにトイレの個室と思われるコンパクトな直方体まである。
「お、おーい、誰かおらんか?」
気配が全くないことに不気味さを感じながらも呼びかけてみる。道中何にも出くわさなかったことが俺の気持ちを大きくさせていた。まず大きめの箱から調べてみる。ボロボロのコンクリートにはめ込まれた安っぽいドアは施錠されておらず、思いのほか間抜けな音を立てて開く。中は当然のごとく真っ暗で、スマホのライトをつけないと何も見えない。足を踏み入れてみると僅かに木の板がきしむ音と共に湿り気のある空気が鼻につく。キッチンをまるごと抜き取って来たような風景に少し安心感を覚える。少なくとも俺やノリのような現代の日本人が住む部屋があるということは最低限、意思疎通のできる人がここにはいるという証左だ。彼らが錯乱していなければ、の話だが。
他にも家とは決して言えない種々の部屋を見ていった。結論から言えば何もなかったし、誰もいなかった。ここに寝泊まりした形跡も、食事など生命を維持することが行われていたことを意味する痕跡もまるでない。ここに有用な情報はない。そう思い、足を一歩踏みだした。だが、視界の端にまだ開けていない扉の存在を感じた。振り向くと小さく閉じた空間が見える。先ほどトイレではないかと推測したものだ。今までの経験則からロクな結果にならなさそうだが、少しでも情報がほしい。心の中で感情と理性がせめぎ合う。
鼻をつまみながら開けばいい。そう考え、扉を開ける。中は思った通り普通のトイレだ。だが、想定していた悪臭は全くなかった。ここに来る前に用を足していたわけではないのだろうか。ホッと息をつき、何となく壁を見渡す。正面の窓からぼんやりと光が入ってきている。壁は木の板で覆われ、模様が彫られている。
跡をなぞる。細い溝にささくれが立っている。まるで装飾が目的ではないかのように保護もされていない。そこまで考えて俺は慌ててスマホの灯りをつける。果たして、目の前に広がるのは文字の羅列だった。幸運なことに日本語で書かれている。
『2020/8/21、ここしばらくのことをワスれないようにかきとめておく。オレはいつのまにかここにいた。用をたして水をナガそうとしたトキだ。ベンキの水がとまり、手をあらっていたスイドウもなぜかとまった。デンキもきえ、まっクラなクウカンにトリノコされてしまった。外に出るとイエのロウカではなくモリの中にポツンと立っていたことをイマでもオボえている。まわりにはオナジようにヘヤだけが二つほどあった。ここに来てしばらくはかなりあせった。というかユメだとオモってベンキの上でネた。しかしいつまでタっても元の世カイにモドルことはできなかった。ここに来たゲンインだが、ジョウダン半分でイセカイに行くための方ホウをタメしたからだとオモう。ショウサイはワスれたが、ジュモンをトナえながらエキのツウロにオかれているモリシオをケりトばしてキ門をヒラく、という方ホウだ。しばらく一人だったが、この世カイにもオレのホカに外から入ってくる人がいた。カンガえればヘンなコトではないが、オドロいたことをオボエている。そいつは広めのヘヤと共にこのチカクに出ゲンした。ネているアイダにここへ来たらしい。オレのスウジツゴだ。フミンにナヤまされていたらしく、ママに小さいころオソワッタらしいおまじないをしたのがゲン因ではないかというのがカレのカンガエだ。その方ホウについてはかなりナガイのでカツアイする。ともかく、外から来ることができるということはギャクに外へ出られるカノウセイもあるということだ。なお、その手ガカリは一向にミツからない。ブキミなことに、モリの中からササヤきゴエがキコエテきたキがする。マエまで木々ももう少しハナレたトコロにあったキがするが、キョリをツメテいるキがする。そもそもずっとクラいこの世カイがおかしいけど。とにかく、このヒラけたバショからハナレることはキケンだとオモッタ方がよさそうだ』
文章によると5年前からここは存在するらしい。そしてやって来た経緯についても俺とは違う。しかし心配なのがこの空間を取り囲む森の存在だ。やはりあの真っ暗な闇の中には何者かがいる。そう思って間違いない。
ユメやリア、ノリについての手掛かりはおそらくここにはない。俺は重たい気持ちをどうにか持ち上げ、ここを離れる決心をした。外に出ると風がやけにうなじ辺りを撫でつける。先ほどまでより少し雰囲気が重たい。
「……そ……」
静寂を聴き取ることはできない。わずかに空気の擦れる音が耳に入る。あの書留の主が聞いたのもこれだろうか。俺は恐怖を感じてその場を去ろうとした。
「ようこそ」
今度ははっきりと聞こえた。聞き間違いではない。はっきりとこちらに聞こえる声だ。音の方向はわからない。素早く周囲を見渡すが、誰もいない。放棄された家の残骸が転がっているだけで、人の気配はやはり感じられない。
そこまで考えてふと嫌な考えが背中を駆けのぼる。声を発するのは人間だけだと無意識に思っていた。当然森の向こうにいるのも得体が知れないとはいえ、人だと思った。だが、先ほど書いてあるのを見たではないか。木々が距離を詰めてきている、と。
背後を振り返る。森が揺れている。いや、森だと思ったものは奇妙な生き物だ。ねじれた胴体、動かない手足、原型をとどめていない顔。かつて人だった者たちではないだろうか。動けない彼らをかき分けるように何かがやってくる。痩せこけた身体に背中から生えた奇妙な突起物。顔ははっきりとはわからないが、膨れ上がり、固まった厚い皮によって表情は全くわからない。
「ようこそ」
再び言葉が紡がれる。歓迎の意を示しているようだが、そのまま受け取るわけにはいかないと直感で理解する。捕まればロクなことにならないだろう。俺は踵を返し、来た道を走って戻ることにした。幸いにもそいつの動きはゆっくりで元居た場所にたどり着くころには振り切ることができた。
「さて、どないしよ……」
軽く上がった息を整えながら家の周りを歩く。すると、先ほどは気が付かなかったが、道が二本伸びている。ここにいてもしょうがない。俺は左の道を行くことにした。森の狭間の狭い道を再び歩く。さきほどちらりと見えた異形が木々の間からいつ姿を現わすか、気が気でない。木の葉のざわめきも、虫の鳴き声も、夜に活動する動物の気配もない、静寂そのもののこの森で俺は改めて事態の異常さを認識し、足早に通り抜ける。
はたして俺の必死な願いが聞き届けられたのか。暗い道を抜け、再び開けた空間に出る。家とも呼べない切り取られた部屋が数軒、思い思いの方向を向いて立ち並んでいる。周囲を見渡すが、先ほどの異形の影や気配はないようだ。最も、先ほどは木々に紛れてすぐに近くまで来ているのに気が付かなかったのだが。それでも慎重に部屋をひとつずつ見て回る。似たようなアパートやマンションのリビングや寝室が扉を開けるたびに顔を出す。五件目を出るころにはすっかり飽きていた。おまけにトイレでみたような日記や個人の記録の類は全く見当たらない。この場所を脱出する手掛かりは皆無と言っていい。
最後の部屋も至ってシンプルな外見だ。内装がわからないことだけが救いだが、おそらくここも似たようなものだろう。そう思い、ドアノブを回して扉を押し開ける。誰かの息遣いが聞こえた気がした。それもすぐ傍からだ。俺は反射的に腕を持ち上げて頭を庇う。あと僅かでも遅れていれば死んでいたかもしれない。衝撃が左腕ではじけ、骨のきしむ音がする。振り下ろされた椅子が質量と共に破壊をもたらし、俺は開いたばかりの扉に倒れこむ。
「ッ! や、やめてくれ!」
玄関脇にいる人物が再度椅子を振り上げたのを見てすかさず命乞いをする。その言葉に耳を貸してくれたのか、相手は武器を下ろしてくれた。少し遅れて、まばゆい光で照らされる。同じようにスマホのライトで照らしているのだろう。
「ひょっとして……コウくん!?」
だが、理由はほかにもあった。かけられた声に聞き覚えがある。ずきずきと痛む左腕を下げ、こちらを覗き込む顔を見返す。そこにいたのはこの妙な世界に来る前まで一緒にいたリアだった。