第五話 天使と悪魔は電車の中にいる
つ、疲れた……。
ゆうなに早めに家を出ようと持ちかけられていたことが功を奏した。
学校に着く直前で料理本を購入し忘れていることに気づき、急いで引き返して最寄りの駅へと駆け込んだ。
近くにある本屋さんは万力書店ぐらいだし、あそこなら隣駅まで乗ればすぐに着く。ゆうなさまさまだな。
万力書店はどんな本でも置いてある。きっと家庭科の本もすべからく置いているだろう。
あまり人を見過ぎないよう、スマホをいじるわけでもなく、無意識の範疇で下を見る。疲れているのも相まっているだろう。
ガタン
電車が何かの弾みで揺れ、少し前によろけてしまう。その際、前にいた人に軽くぶつかってしまった。
「あぁ、すいません。」
小声で形式めいた謝罪をする。
「いえ。」
と、軽く一言。声質的に女性だったので、さらに申し訳ないと思いながら、その場に固まる。
「えっと、洸南高校の人ですよね?」
洸南というフレーズにビクッと反応してしまう。まずい。何か怒らせてしまったのだろうか。制服を着ているのだ。分からないはずがない。
「はい、そうです。ほんとにすみま…」
反省の意を見せるために、まず目を合わせようと、謝罪と重ねながら顔を上げる。
目の前には、麗しく長いまつ毛を携えた目、綺麗に整えられている眉、透明感のある黒髪と、純朴な白い顔を持ったアカツキさんがいた。その絶境の天使のような顔についた、全てを統べる悪魔のような眼に、吸い込まれそうになる。
こっちの気も知らないで、アカツキさんはスラスラと喋り始める。
「いえいえ、違うんです。おんなじ制服だなと思って。」
ん?この様子から見るに、アカツキさんは、学校で一度俺と目が合ってしまったことを覚えていなさそうだ。
……これは好都合だ。
このまま、アカツキという存在を知らないというフリをすれば、極力話を広げずに済む。
「あっ。同じ洸南の人。すみませんちょっと倒れちゃって。」
「いえいえ。気にしないでください。」
たわいもない会話が締めくくられると、気まづい無言が始まる。
それにしても、あの今話題であるアカツキさんとこんな近距離で話すことになるとは思わなかった。その美貌の別次元っぷりは電車内でも顕在である。天使を天使たらしめる要素として翼がついているように、アカツキさんの持つ全てが、アカツキさんの美しさを証明していた。
まもなく千駄。降り口は右側です。
「私、千駄で降りるので。話しかけちゃってごめんなさい。」
「あ、僕もです。多分、目的一緒です。」
「えっ。」
目の前のホームドアが開き、アカツキさんが少し困惑した様子で先に出る。後ろに続くように降車し、改札を出た。
アカツキさんも俺も、わざわざ学校と逆方向の電車に乗り、隣駅で降りる共通の理由は料理本以外にないので、目的地は同じである。
重要なのは、目的地に着くまでの間と、学校に戻った後だ。アカツキさんを知らないという体は変更しよう。後々どうせ学校で会ってしまう。
改札を出た後、アカツキさんが振り返る。
後ろに自分が続いていたことに少し困惑した様子なので、慎重に話の続きを持ちかける。アカツキさんに嫌われると、学校生活が終わりかねない。慎重にいこう。
「僕、2年A組なんですけど、もしかして、家庭科の料理本買いに来てたりしません?」
簡潔に身の上を説明し、確実にはいと答えられる質問を投げかける。
「えっ、そうだったんですか。はい。買いに来ました。もしかしてあなたも?」
想像通りの反応だ。これで話をスムーズに展開できる。
「そーなんですよ。買うの忘れちゃって。学校行く途中で気づいたんですよ。」
「あははっ、私もです!クラス一緒だったんですね。」
おそらく愛想笑いだろうが、あまりに出来がいいので、その判断がつかない。こういう捻くれたところを直していきたい。
「ですね。よかったら、一緒に買いに行きません?」
このまま別れて、ほぼ同じ速度で同じ目的地まで歩き、書店で同じものを探しながら、またばったり出会ってしまう方が大変気まづい。
ここはお互いのためと、一つの選択肢を提案した。
「えっ。そうですね。そうしましょう。」
一瞬、緊張と警戒が滲んだが、提案の意図を理解したのかすぐに納得のいったような顔をして、綺麗な笑みを見せた。