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あなたにしかできない仕事

作者: jh

経済ホラー小説です。

雨の日を舞台にしたのは、横光利一の小説「上海」へのオマージュです。

挿絵(By みてみん)

IT企業の朝は遅い。

8時前のオフィスは人の数が疎ら。席が埋まるのは3時間後。フリーアドレスだからどこに座ってもいいけど、何事もなかったかのように私はいつもの席に座りPCの電源を入れた。長谷川大貴(はせがわだいき)が視界に現れ、待ち構えていたように思わせぶりに手を振った。

彼の顔がウサギに似ていることに初めて気がついた。

私は作り笑いを浮かべて会釈をし、急な用事でもできたかのように装ってスマホを見るふりをしながらトイレに向かった。

目覚めた時に予想した通りの反応をいまの私がしている。

昨夜は20時過ぎまでオフィスにいた。私同様一人でPCに向かっていた長谷川大貴に声をかけられ、断る理由が見つからないまま一緒に食事をした。アルコールが入り、優しい言葉をかけられると。私は寛容な女になるらしい。たったいま彼の顔を見て、体は開いたが心は開いていないことを確認した。

またやってしまった。結局後悔を数時間先に延ばしただけ。

年中行事のようなものだけど、そのたびに自分が嫌になる。

「ああ、地獄」

口から言葉が洩れた。

周囲に誰もいないことを確認してほっとすると同時に、地獄という言葉のせいで高校時代を思い出した。高校時代を辛いと感じた記憶はないつもりではいるが、忘れたいだけで何かが辛かったのだろう。

学校帰りに、時々一人で市立図書館に籠った。何に惹かれたのかよくわからないけれど、画集をめくることが多かった。印象に残っているのは、ヒエロニムス・ボスの画集に収められた「快楽の園」の地獄図。

金色の椅子に座った、青い服の鳥の化け物が、人間を頭から呑み込んでいる。頭部が鳥で身体は人間の化け物は強烈だけどリアルさに欠ける、だから怖くはなかった。椅子の足元では巨大なウサギが人間を逆さに吊るしている。このウサギはリアルに描かれていた。この絵を知ってからウサギをかわいいとは思えなくなった。鳥の化け物に食べられるより、ウサギに食べられる方がよほど恐ろしいだろうと想像した。


記憶に没入していた私は、きっかけもなく我に返り、鏡の前で鏡を見ていない自分に気がついた。

誰もいないのをいいことに自分の顔をまじまじと見る。

疲れているはずなのに、心なしか血色がよく見えた。

とにかくこの一日やり過ごせば週末。今日はできるだけ顔を上げずに自分の仕事をしよう。そんな決意をしながら、何の気なしにインスタを開いてしまった。


今日は有給です

マンションの内覧にいってきます

良いご縁がありますように


同い年の友人の投稿を見て、もう一度ガックリ来た。彼女は30の大台に乗り、今の仕事をずっと続ける覚悟をしたということか…。この会社にいる限り、私にはいいことが何も起こらない、おぼろげにそう感じた。

それが先週の金曜日の朝。



翌土曜日から淫雨となった。

私は家に引き籠り、何か月かほったらかしておいた転職サイトを開いて、最近取得したグーグル広告の認定資格をプロフィールに追加した。そのままぐだぐだとサイトを眺めていると半日という時間もぐだぐだと過ぎた。せめて何かで埋め合わせをしようという強迫観念から、私は新しいサイトに登録をするために検索を続けた。

<ITスキルを活かしたいなら>

たどり着いたサイトはこう謳っていた。私はテキストを読み続けた。


―転職エージェントとマッチングーSTABLE VALUE

実はIT業界で働く方の90%が自分の価値を過小評価しています。あなたには必ず輝ける場所がある。あなたの本当の価値も、あなたが輝ける場所も、情報が高度に細分化されている今の時代、一人の力では見つけることは不可能です。

STABLE VALUEはAIを活用し、あなたのベストバディとなる最高に相性のいい転職エージェントをご紹介します。もちろんご登録は無料ですー


私は個人情報の入力を始めた。「TANAKA」と入力しスペースキーを押すと一発で「田中」と変換されるが、「AYAKA」の方は「文華」がすぐには出てこない。いつものこと。

ページを進めていくと、「BHTI診断テストを受けると、あなたにスカウトメールが届きます」との文字列とともに「今すぐ受ける(30分ほどかかります)」「後で受ける」の2種類のボタンが現れる。1年ほど前に会社でMBTI診断というものを受けた。その類かな。小さな文字で簡単な説明が記されている。

「BHTI(Bosch Hare Type Indicator)診断テストとは、英国Egria Business School のBosch、Hare両教授が開発し、欧州の新興IT企業の数百社で採用されている性格診断テストです」

私は「今すぐ受ける(30分ほどかかります)」を選択した。

設問を読む時間を含めて1問10秒以内で答えるよう指示があり、どこかで見たような問題が次から次へと押し寄せる。


#1 あなたがエネルギーを回復するためにはどちらの環境が必要ですか?

a) 親しい友人や家族と時間を過ごすことで元気になれる

b) 一人で静かに思索にふけることでエネルギーを充電する

#2 他人の気持ちに寄り添いたいと思いますか

a)自分の周囲の人の気持ちには寄り添いたいと思うし、自分にも寄り添ってほしいと思う

b)親しい間柄でもしょせん他人の気持ちはわからないので寄り添うのは無理だと思う


途中から、明らかに似たような問題が繰り返され、だんだん意識が朦朧としてくる。

それでもなんとかやりきった。


―診断テストの結果はAIが選んだカウンセラーが一週間以内にお伝えいたしますー


今すぐ転職をするつもりもないし、来週中にメールが届くだろう、くらいの気持ちで私はサイトを離れた。



月曜日の夕方、スマホのg-mailに「面談のお願い」というタイトルのメールが届いた。

―田中様のご経歴とBHTI診断テストの結果を拝見させていただきました。ぜひご紹介したい案件がございます。つきましては今週中に一度面談をさせていただけないでしょうかー

差出人は毒島美紀 Miki Busujimaとある。「田中」という地味でありふれた姓が好きではないけれど、名前でからかわれたことはない。「ぶすじま」はきつい。しかも下の名前には「美」の字が入っている。美人ならいじられ、そうでなければいじめられる名前だ。この人はどちらだろう? 美しい毒…。

すぐに面談したいなんて妙にガツガツしたメールだ。でも差出人の名前が気になった私は、応じることを決めた。



水曜日の仕事帰り。

降ったりやんだりの天気が今日も続いた。私は指定された文京区のホテルに向かっている。土地勘もなく天気も悪く、赤坂のオフィスからタクシーに乗った。水道橋を過ぎて交通量の少ない通りに入ると道は坂になる。心なしか異国情緒漂うレンガ造りの建物に挟まれた一角を、対向車のヘッドライトが潜るように向かってくる。

「次の信号を超えたら間もなくです」制服を着た運転手が丁寧な口調で言った。

車寄せに入ると、ホテルの制服を着た若い男はタクシーのドアを抑えて微笑んだ。少しだけ自分が偉くなった気がする。

入口のすぐ横で、ラテン系にも中東系にも見える濃い顔のスーツ姿の男が、スマホに日本語で適当な相槌を打ちながら、壁に背中をつけて物憂げに雨を見詰めていた。

中に入り、ロビーのソファに座ると、白いカットソーに黒のジャケット、スカート、ストッキング、ヒールを身につけ、CAのように髪をまとめた隙の無い女の姿が目に留まった。背筋を伸ばし、すまして歩いている。年は私より少し上かな。中国人にも見える。彼女はまっすぐコンシェルジュをめざし、担当の女性と二言三言言葉を交わすとこちらに歩を進めた。私との距離が2メートルを切ったところで「田中さん、お待たせいたしました、毒島です」と微笑み頭を下げた。「美しい毒」の入った名前を持つ人は綺麗な人だった。

私は腰を上げた。「田中です、本日はよろしくお願いいたします」

「どうぞ、こちらへ」

彼女の指示に従い後ろを歩いた。

「この先に小さな会議室がございます、そちらで話しましょう、私、先月シンガポールから着任したばかりでまだホテル住まいをしております、オフィスを探すのも私の仕事なのですが、ここでもいいかなと考えています。24時間対応していただけるので」

場違いなところに来たかも、私は思った。同時にこの毒島という女性が心配になった。日本の事情がまったくわかってないの? 私なんかに時間を使って、この人、本当に大丈夫なの? 

会議室というより応接室と呼ぶべき部屋。低いテーブルを挟み、ソファに向かい合わせに私たちは座った。すぐにドアのノックの音。先ほどのコンシェルジュが現れる。銀のティーポットからウェッジウッドのティーカップに紅茶をサーブしてテーブルに並べ、焼き菓子の皿を添えた。

「ありがとう」

毒島美紀が簡潔に言うと、コンシェルジュは黙礼をして部屋を出た。

彼女は足を組み、膝の上にノートパソコンを広げ、壁のスクリーンに画面が映るのを確認した。

「田中文香さん」彼女は突然本題に入った。「やっとお目にかかれて嬉しいです、あらためまして私、ステーブル・バリュー様のご紹介で本日この場におりますSHエージェンシーのチーフ・コンサルタント、毒島と申します、お越しいただきありがとうございます」彼女は足を組んだまま頭を軽く下げた。

「田中と申します、こちらこそありがとうございます」私も座ったまま応対した。

「こういう場所来ると緊張しますよね、大丈夫ですよ、気楽にしていただいて結構です…、紅茶、暖かいうちにどうぞ、飲みながら聴いてください」

「ありがとうございます」私はウェッジウッドに手を伸ばした。こうしなければ話が始まらないのだろう。

「SHコンサルティングという会社はご存じないでしょうね、有名ではありませんから、実はグローバルに拠点がございます、歴史を申し上げれば、ちょうど100年前に当時世界で最も国際的な都市のひとつ上海で一人のイギリス人により創業されました、創業者自身がアジア各国を転々としながら拠点を広げたのです、創業者の死後、本社はロンドンに移転し現在に至ります、私自身も家族の事情で子どもの頃から世界中を転々としておりました、どうやらこの会社とは相性がいいようでございます」

やはり見込み客の選択を誤っているとしか思えない。一方で、日本のIT業界しか知らない私は彼女の話に圧倒された。相槌の言葉一つ思いつかず「英語が堪能なのですね?」と答えがわかりきっている質問で場をつないでしまった。

「日本語、英語を含めて7か国語が喋れます」彼女は身体的反応の兆候をまったく見せずに平然と答えた。

「すごいですね…」私は自分の小ささを思い知らされ、今から始まる面接への期待は完全にしぼんだ。

「全然すごくないんです、日本で育てば誰でも日本語を喋れる、それと一緒です、私と同じ境遇で育てば誰でも多くの言葉を喋れるようになります、それにもう外国語を覚える時代ではありません、すべて機械が翻訳してくれます、7か国語が喋れることなど日本中の電車の時刻表を記憶しているのと同じことです、昔なら重宝されたでしょうけど、今はスマホ1台あればことが足りますから、ごめんなさい、私の話ばかりして…」

「いえ」

「タナカアヤカさん」彼女は私の目を見て微笑んだ。こんな表情を作れたら私の人生も変わっただろう、私は心の底から目の前の女性が羨ましいと思った。私などに声をかけた人選ミスなど簡単に挽回できるのだろう。そして私のことは二度と思い出さない。

「ローマ字にすると母音がすべてAなんですね? しかも漢字では左右対称、両方揃うお名前は珍しいですね」

「いえ、田中なんてありふれた名字ですし、あやかも私の世代では一番多い名前の一つです。高校の時は私を含めて、たなかあやかが三人いました、私の世代では、たなかあやかという知り合いがいない方が珍しいと思います」

説明をしながら私は納得をした。なんだ、そういうことか、おそらく彼女は私を同姓同名の誰かと間違えている。

「私は初めてです、たなあやかさんにお会いするの、興味深いお話ですね? 私の場合は名字を呼んでもらえないことが多くて、…気を遣わせしまうのでしょうね、たいていあの~とか誤魔化されます、ですから、ぶすじまですって自分から名乗るようにしています、…、では本題に行きましょう、ご経歴を拝見いたしました、プロジェクトマネージャーのご経験があるのですね? そのプロジェクトの成果は御社のウェブサイトのどのあたりに反映されていますか?」

私はドキリとした。

「上手く行きませんでしたか?」彼女は見透かしたように言葉を継いだ。「たいしたことではありません、プロジェクトに失敗はつきものです、そもそもプロジェクトは多くの利害関係者の協力により進みます、成功するプロジェクトなら誰がリーダーでも成功する、失敗するプロジェクトは誰がやっても失敗する、あなたの会社のように属人性を排する企業文化を追求するなら当然の帰結です、失敗はプロジェクトリーダーの責任ではありません、責任の99%は、失敗の可能性を精査できなかった無能な上司にあります」

私は相槌も打てず黙って話を聞いていた。

「別の女性がリーダーを務める新しいプロジェクトはきっと成功するでしょうね、誰がやっても成功するプロジェクトですから、…それなのに彼女の評価はこれから上がり田中さんの評価は既に落ちた、落ちた評価を上げようと田中さんはいま一生懸命頑張っている、それって意味があるのでしょうか? 田中さんが正当に評価される仕事がいまの職場に存在しますか?」

私に返す言葉がないのを確認すると、彼女は話を続けた。

「BHTI診断テストの結果を拝見しました、田中さんは仕事で自己実現を目指すタイプではありません、評価されることも本当はどうでもいい、それなのに高い評価を求めるのは給料が上がるからです、つまり働くのはお金のため、好きな漫画に費やすお金と時間があって、美味しいものを食べて、洋服と美容にお金をかけて綺麗でいられる、田中さんの幸せの定義はそういうことです、もちろん、多少は世の中の役に立ちたいと願うのは人間の性と言えるでしょうね、それにもいろいろなやり方があってよいと私は考えます、国に医療費の負担をかけず、年金はきっちり収めて受け取る前に死んでしまう、これも立派な社会貢献だと私は思います、…世の中って本当に前に進んでいるのでしょうか? ロシアのウクライナ侵攻とか、香港の言論統制とか、100年前も今も本質的には何も変わらないと思いませんか?」

話の展開にとりとめがなさ過ぎて私の頭がついていかない。

彼女はもう一度微笑んだ。「ねえ、田中さん」

「はい」私はやっと言葉を発せた。

「同僚の長谷川大貴さんのフェイスブック、ご覧になったことありますか?」

長谷川大貴の名前が突然出て、私はドキリとした。

「いえ、ありません」私は平静を装った。

「投稿はほとんどないように見えますが、実は…」その言葉が耳に入った時にはすでに、スクリーンに長谷川大貴のフェイスブックの画面が表示されていた。

「長谷川さんは男子校の出身です、出身校の非公開グループに頻繁に投稿があります。こちらは先週金曜日の深夜の投稿、

『今日は酔った勢いで会社の同僚とホテルです、今までの人生で一番気持ちよかった』

この写真、あなたが今お持ちのバッグです、いわゆる記念撮影ですね」

言葉を思いつく前に、自分が赤面するのがわかった。

「しかもコメントもあるんですよ、読みますね

『いいなあ~、名前だけ教えろよ』

『あやか』

…よほどいい思いをされたのでしょう、言いたくて我慢できなかった、それから匿名ですがTwitterがXに名前を変える前にこの投稿がありました」

画面が変わり、見覚えのある靴の写真が映る。彼女が投稿を音読した。

「『転職前に会社の女子にダメもとで頼んだらやらせてくれた、あまりにも気持ちよくて言葉を失った、もっと前にお願いすればよかった、すごい心残り』だそうです、同業他社へ転職された小島直之(こじまなおゆき)さんが田中さんを誘った日の投稿です、田中さんの靴で記念撮影です、小島さんは仕事の愚痴やラーメン屋のネタがほとんどですが、店の外観に自分の姿が重なるような撮影もあります、ほら、スマホの位置が顔の前からずれているでしょう? 見る人が見れば小島さんだってすぐにわかります、 …それから」

「もうやめてください、どうしてこんな辱めを受けなくてはいけないんですか?」

私はたぶん「辱め」という言葉を生まれて初めて口にした。

「田中さんを正当に評価するプロセスです、男性から最高だったと言われた、素晴らしい限りですわ」

「そんな言葉…、終わったときはたいてい言うじゃないですか」私は吐き捨てるように言った。「辱め」などという言葉を口にしたせいで、普段の自分ではない気がする。私は自分を外から見ていた。もしかしたらこの女は一度だけなら誰にでも許せるのかもしれない、他人事のように考えた。そのことが普通なのか異常なのか、判断が下せる気がしなかった。

「人間は自分の能力に気づかないものです」毒島美紀の言葉で私は自分を外から眺めるのをやめた。「当たり前と思っていたことが特別なことだった、そんなことは往々にして起こります、小島直之さんの投稿を調べたところ、田中さん以外にも会社の女性二人と関係を持っていました、一人については『人妻だから期待したけど残念』、もう一人は『やらなければよかった、これも人生』と感想を投稿しています、正直な人です、田中さん、あなたは特別です、男は見栄っ張りな生き物です、寝てもいない女と寝たと嘘をつくことはある、でもね、気持ちよくなかったのに気持ちよかったと嘘をつくのは寝た女に対してだけ、他の人にそんな嘘はつきません」

私は言い訳を探そうと、自分の経験を振り返った。した後に「気持ちよかった」と言うのは、男の礼儀のようなものかと思っていた。そう言われなかったことがないから。自分から「よかった?」なんて訊いてみたこともない。

「100年前の上海には、日本人もたくさんいたわ」私の頭の中を無視するかのように彼女の話は飛ぶ。「成功した男の中には、妾を何人も抱える者もいた、妾はゴールドと一緒で富の保有手段でもあった、簡単に換金できるし、うまくいけば値上がりもする、女には値段がついていた、…田中さんはスキルをあげて転職し、給料を上げたいと考えていますよね? 給料が上がったら何がしたいですか? 美味しいものを食べて、いい部屋に住んで、服と化粧品にお金をかけて、旅行がしたい、…違いますか? 転職サイトに登録するとは、自分を売りに出し『私に高い値段をつけて』とアピールすることです、百年前の上海で妾をしていた女たちがやっていたことと変わりません、彼女たちには衣食住すべて最高のものが与えられていました、だって彼女たちは見せびらかすための存在でしたから、そもそも男たちが求めたのは愛でも奉仕でも束縛でもない、虚栄心を満たせれば十分だった、その仕事ができたのは他の男が羨むような見た目のいい女だけ、妾という仕事は彼女たちにしかできない仕事だったの」いつの間にか毒島美紀は物語を綴るように私に話しかけている。

「でもね、虚栄心なんてその字の通り虚しいものだわ、男にとっても女にとってもね、だって女は男の争いの道具に使われていただけですから、男がもっと高いお金を出してでも手に入れたかったのは溺れさせてくれる女だった、そんな女は妾よりもずっと少なかった、だから価値があった、…ねえ、田中さん、あなたには情はある、でも決して流されない、そのうえ才能もある、素晴らしいことです、やってみてはいかがですか?」

「どういう意味ですか?」私は答えがわかっている質問をした。

「私はあなたのスキルに最大限の敬意を払っているのです、…ねえ、田中さん、あなたは今ウェブマーケティングの仕事をされていますよね? それは世の中の需要を探す仕事ですか?」

「そうですけど、…まだ顕在化されていない需要を見つけ出して新しいサービスの開発につなげる、それが私の仕事です」私は用意してきたフレーズをこんな局面で口にした。

「本気ですか?」彼女はバカにするように言う。

「本気です」私は強い口調で返す。

「残念ながら、その分野でのあなたの成功はありません、失礼に聞こえるかもしれませんが私も人間を相手にするプロですから」

「どうして言い切れるのですか?」

「だって、…需要と供給の関係は常に供給が先、供給があるから欲しがる人が現れる、あなたはなぜウェブマーケティングの仕事をしているのでしょうか? 求人があったから、つまり仕事の供給があったからではないですか? 心の底からやりたい仕事などあなたにはありません、供給される仕事の中から選んだに過ぎません、需要なんて探したところで何も生まれませんよ、供給が需要を生むのです、私がオファーしている仕事もあなたはその存在を知らなかった、だから選択肢に入らなかったのです」

「犯罪者にはなりたくありません」

「ウェブマーケティング業務の経験者が将来犯罪者呼ばわりされる可能性はゼロではないと思いますが…」

「100年前の妾だかなんだか知りませんが、彼女たちだっていつまでも妾でいられたわけじゃないでしょう? その後は悲惨な人生が待っていたに決まっています」

「どうでしょうか? 上海の思い出を封印してその後の人生を平穏に過ごした人はいましたよ、でも多くは若くして亡くなった、そして彼女たちを妾にした男たちもみな戦争で死んでしまった、それを悲惨と呼ぶなら悲惨な人生でしょうね、悲惨という言葉は主観的な評価です、あなたの人生だって誰かの目には悲惨に映るかもしれません、自分が本当にやるべきことを見失ってもがいているのですから、私は人助けが好きなんです、助ける人がいるから私は生きていられる、でもあなたは違う、BHTI診断テストの精度は驚くべきものです、あなたは人助けなんて興味がない、自分が楽しければそれでよいのです、…誤解しないでください、批判ではありません、それはあなたの性分です、他人から評価されたいとか、社会の役に立ちたいとか、無理をしているから苦しくなるんですよ、あなたは本来自由人なのです、自分のことだけを考えて生きればよいのです、そして世の中には私のように人助けが好きな人間がいる、持ちつ持たれつです」

「私には選ばない自由があります」

「ええ、その通りです、選択肢があるからこそ考えてほしいのです、やめたくなったらやめる自由も保証します。もっと生きたいのに死ななければいけない人がいる、生きているのが嫌なのに生きなければいけない人もいる、あなたは好きな時に終わりにすることができる。私がオファーする仕事は田中さんを自由にする仕事です」

「私をバカにしてますよね?」私は強い口調で言った。

「なぜですか?」彼女は穏やかに訊き返した。

「男にしたら、あなたの方が私よりずっと魅力的に見えるはずです」

「誉め言葉と受け取らせていただきますが、残念ながら私は、男の人から良かったなんて言われたことがありません、田中さんが羨ましい、本心です、羨ましいですが嫉妬はしません、あなたに敵うはずがないのに妬んでも仕方ないでしょう? 何の才能もない私のようなものにとって、才能を持った人がその才能をお金に換えるサポートをすることこそ、精神的にも経済的にもベストな仕事なのです、田中さん、あなたの才能を活かしてください」

彼女は卑屈になっているのだろうか? 私は少し上から言ってみた、

「私、表通りを歩けないような生き方をしたくありません、税金くらいはちゃんと納めたいです」

「稼いだお金を堂々と使って消費税を払えば同じことです、そのお金がどこから出たかはモノを売る側には関係がない、それともお金と一緒に後悔を残して死ぬつもりですか?」

「だからって体を売るなんて…」

「そんなはしたない言葉を使われたら元も子もないですね、…ねえ、田中さん、よく聞いてください、いつの時代にもこの仕事をしてきた人がいる、もちろん今も、たいていの人は他に選択肢がないからこの職業に就いた、だから低賃金に甘んじるしかなかったのよ、でもあなたはそうじゃない、入り口が違うの、自分の報酬さえも自分で決められるポジションなの、折り合いがつかなければやらなければいいだけ、自由なのよ、給料が高い仕事に楽な仕事はない、と思い込むのは世の中を知らないだけ、実際は給料が高い仕事ほど楽なことが多い、そもそも賃金は需要と供給の関係では決まらない、一般的に世の中に必要のない仕事は給料が高い、お金を右から左に動かすだけの銀行や証券会社とか、依存症の人間を増やすことにしか貢献しない大手IT業界とか、そんな業界の給料が高いことはよくご存じでしょう、上に行けばの話ですけど、…なくなったら世の中が回らない仕事はたいてい給料が安い、お金のために働く覚悟ができない人ほど、やりがいという意味の分からない言葉で簡単に搾取されるの、田中さんにはそんな生き方をしてほしくないわ、あなたにしかできない仕事をしてほしい」


会話の途中で、何年も忘れていたくだらない思い出がよみがえる。

高校の同級生が、ベテランの担任と進路指導の面談をした後、口を開くなり言った。

「まったく、絶対に受かりそうな大学ばかり次から次へと受験を勧めやがって、まるでやり手ババアだよ、絶対に大学からお金貰ってるよ」

やり手ババアの意味を私は知らず、ついでに教えてもらった。いま目の前に座る、美人のキャリアコンサルタントがしていることは、やり手ババアの手口だ。


「田中さん、いま好きな人はいますか?」また話題が飛んだ。

「特にいません」答えてから、言わなければよかったと後悔した。

「では、好きだった人はいますね?」

今度は答えなかった。彼女は質問を続ける。

「その人はもう他の誰かのものになってしまいましたか? その相手はあなたのお知り合いですね?」

ブラフだとわかっている。でも的は射抜かれた。どうしてわかるの? などと動揺することはしない。どこにでもある話。

「大丈夫ですよ、田中さん、あなたは彼の心の中で一生生き続けます、そしてあなたの恋敵は一生あなたから逃れることはできません」

私は相変わらず口をつぐんでいた。

「愛する人にあなたを失った悲しみを永遠に刻むこともできる、恨んでいる人に死ぬまで消えない恐怖を植え付けることもできる、…世の中は一筋縄ではいかないものです、長く生きることが最高の復讐という言葉、それも一つの真理でしょう、一方で、死んだ人間には敵わない、それもまた真実です。死んだ人が生きている人を思うことはありません、生きている人は死んだ人を忘れることができない、死んだ人は年を取らないのに生きている限り老いは避けられない、あなたは永遠に誰かの心の中に生き続けるのです」

「なんの話か、もはやわかりません…」

「では、画面を見ていただけますか?」毒島美紀が膝の上のノートPCをいじると、スクリーンに真っ暗な映像が映し出された。

「ちょっと見ずらいとは思います、衝撃がかなり強いのでモノクロにしてコントラストも落としています、それ以外の処理はしていません」

映像は室内を斜め上から撮影していた。画面の手前左側は椅子に座った男と女の後ろ姿を見下ろしている。テーブルを挟んで向かいにソファがあり、向かって左のすみにはほぼ人間と同じ大きさのウサギのぬいぐるみが置かれていた。

「この二人は夫婦です」彼女は説明を加えた。

画面右下から、別の女の後ろ姿が現れた。その女は画面を下から上に進み、向きを変えてウサギのぬいぐるみの隣りに腰を下ろした。顔はほとんど判別できない。手にはグラスらしきものを持っている。そのグラスをおそらく一気に飲み干した。

「歩いてきた女性は、ここにいる夫の元恋人、妻とは古くからの友人です」毒島美紀は言葉を追加した。「しばらく見ていてください」

あとから現れた女はウサギのぬいぐるみにもたれかかった。眠っているようにも見える。ウサギは突然巨大な口を真ん丸に開き、横を向くと隣りの女の頭部を一口に呑み込んだ。女の頭部が綺麗になくなった。手前に座っていた夫婦は椅子から転げ落ち、這うように画面から消えた。そこで映像は途切れた。

「彼女は夫を愛し、妻を恨んでいました。私がいま田中さんにオファーしている仕事を7年続けたのち、辞めるのではなく終わらせる決心をしたのです、愛された男も恨まれた女も生きている限り決して彼女を忘れることはないでしょう」毒島美紀は平然と言った。

画面の解像度が低いうえ、あまりにも現実離れしたものを見せられた。映像そのものに恐怖は感じなかった。それよりも、恐い、と思ったのは今の状況だ。

何かが狂っている。

その狂った状況のおかげで、自分自身が覚醒した気がする。

「毒島さん」私は彼女の苗字を遂に口にすると、毅然として言った。「あなたの言う通り、私は人助けには興味がありません、それでも今はあなたを助けたいと思っています。今すぐこんな仕事はやめてください」

「田中さんは優しいのね、やっぱりあなたが羨ましいわ、本気で私を助けたいなら私のオファーを受けてください、私はもっと生きたい、でも私の仕事はいくらでも替えがきくの、私には自由がないのよ、もしあなたのスカウトに失敗したら、私もあのウサギに食べられてしまう…」

毒島美紀の口は動いていたが、その言葉から突然明瞭さが失われて、何を言っているのかもはや聞き取ることができない。美しい顔に皴だらけの老婆の顔が透けて見えた。

私は自分の表情が固まるのがわかった。口を開いたまま言葉がでない。どうやら首から上が動かない、それでも首から下は動く…

私は逃げた。部屋を出て一目散に走りエレベータのボタンを夢中になって押し続けた。

他に乗客のないエレベータを降りたとき、私はもう数分前にここに来た私ではないことに気がついた。

あの老婆の姿は、私にオファーを受けさせるためのトリックかもしれない…、あの老婆は毒島美紀ではなく、オファーを断った私の数十年後の姿かもしれない…、両方の考えが頭に浮かんだ。

それを確かめるため、私はもう一度エレベータに乗り、毒島美紀がいるはずの部屋へともう一度向かった。


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